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合理的な神秘主義vs神秘的な合理主義

 世の中のすべては合理的に説明可能(言語化可能)である、とする立場を「神秘的な合理主義」と呼び、合理的な世界の根底には説明不可能な(言葉で語り尽くせない)ものが横たわって支えているとする立場を「合理的な神秘主義」と呼びます。これは安富歩さんの著書に書かれてあることです。

 なんとなれば、私たちは今目の前にあるもの・形あるもの・明示的なものを「確かなもの」「根拠あるもの」として過信しがちです。しかし、そんな明示的なものたちも、常に変化しており、同じ形を保っているものは一つとしてありません。そして、私たちの心も体も、そのようにして常に変化しており、あるときに正しいと信じられたことが、しばらく経つと間違っていたと気づくこともしばしばです。

 ところで、人生の方向を考えるときに、みなさんは何を「信じるに足るもの」として生きているでしょうか。私はこれまで、合理的に説明可能なもの、つまり世の中で根拠あり、とされているものに乗っ取って(それを信用して)生きてきたように思います。しかし、最近思うのです。そんな「説明可能な歩み」は「本当の人生の歩み」ではないと。

 私たちはついつい万人に、他者に弁明するために生きているかのように、人生を生きていないでしょうか。客観的な正当性に依拠していると考えられるものは「正しい」、依拠していないあやふやなものは「間違っている」もしくは「信じるに足りない」として簡単に捨ててしまっていないでしょうか。そのような客観性は実のところ、客観的でもなんでもなく、主観的に満足するための言い訳、自分の心を信じる勇気が持てない臆病者がよすがとするものではないか、と思うのです。

 客観的な人生はあるでしょうか。果たしてそれは幸せなものでしょうか。その人自身が本当に生きている、と実感できるものでしょうか。実際のところ、人生に客観性はありません。あるとしても、否定的な意味でしかなく(犯罪に走ったり、他者を棄損したりといった明らかに間違いを指摘できるような場合でしかなく)、肯定的な意味で人生に太鼓判を押してくれるものは、結局のところ自分の心しかないのです。

 多くの人は、自分の人生に太鼓判を押してもらえるように、様々な権威・資格・能力・配偶者・家族を獲得しようとしているようにみえます(あるいはそれは私の勘違いかもしれませんが)。しかし、どのような努力もそのような客観的な太鼓判をあてにしている限りは、「本当の輝き」を持ちえないでしょう。まずは、自分の心が、自分自身に太鼓判を押せるようにする。いや、もしそうなれば、太鼓判というものそのものが不要となるでしょう。太鼓判なしで、人生を納得して生きることができるようになること。おそらく、それが目指すべき到達点です。

 長々と失礼しました。今日の結論はこんなところです。
 
 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

P.S. 明示的でないものを信じることは勇気のいることですね。

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