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私の嫌いな 教育界の言葉(1)「無限の可能性」

「無限の可能性」という言葉。
私はできるだけ使わないようにしている。

たしかに、子どもの可能性の有限性を証明できないのはわかる。
しかし、無限性もまた証明はできない。
「無限の可能性がある」なんて、たやすくは言えない。
遺伝的制約の内側で最大限に子どもの能力を引き出すこと、それが教育というものだろう。

自分の教育に責任を持とうとする意志が強い教育者ほど、そういう言葉を慎むものである。

子ども本人が「自分には無限の可能性がある」と信じるのは自由だが、親や教師は、そんな"まやかし"を言ってはいけない。

まあ正確に言えば「可能性」という言葉にはそもそも限界という概念がないから、無限の可能性という言葉それ自体が"まやかし"。

そういえば、小飼弾氏はこんな記事を書いている。
冒頭はこうだ。

「可能無限」という言葉は、120% Fasionable Nonsenseだと考えている

Fasionable Nonsenseとは、知の欺瞞のことと思われる。
欺瞞。実に、そう思う。

真剣な教師ほど、その生徒の限界を知っている。
いい加減な教師ほど、「きみには無限の可能性がある!」などと平気で言ってのける。
親子も同じ。
わが子には無限の可能性があると信じ切っている親は、わが子に本気で向き合っていない。

そういうことなのだ。

まあ、内心うすうすわが子の限界を感じながらも自他への激励の意味でそういう言葉を使うことまでを否定するわけではないが。

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