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私の嫌いな 教育界の言葉(4)知識の「詰め込み」

「知識」を「詰め込む」という表現にこそ、問題がある。

「詰め込む」という言葉には、その対象に整理・関連付けを行わない状態で、ある空間に無秩序に放置するイメージがある。
そのとき、対象を取り出すことは想定していない。

「詰め込む」の反対語は何か?
「収める」あるいは「収納」といったところか。
「知識を収める」とき、そこでは、知識の整理・関連付けが行われている。
それは、知識を再度取り出すという前提で行われる。

「収める」知識は、線的である。「詰め込む」知識は、点的である。

あるいは、これでもいい。「詰め込む」の反対語は、「植え込む」。
その違いは、根があるかないか。
対象が死んでいるか、生きているか。

植え込むときには、場所をよく考えて、栄養のある土の上に植える必要がある。
それはつまり、整理・関連付けである。
何か知識を覚えようとするとき、その知識がいったい、すでにある他の知識とどう関係するのかを、逐一考える。
どこに植えればよいかを、考える。

その整理・関連付けを導くのが、教師の役目である。

ただひたすらに漢字を1文字単位で書き連ねさせるのではなく、部首に目を向けさせ、意味上の分類をさせる。
あるいは、熟語で書かせることでそこに具体的な意味を持たせる。
「実」ならば、「事実」「真実」「実現」「実践」などを挙げ、そこにある「意味の共通点」を考えさせる。

ただひたすらに年号と出来事を非体系的に覚えさせるのではなく、ある事件とある事件との間に実は関係があったとか、ある時代の社会と別の時代の社会とは正反対の部分があるとか、そこに関係性を読み取らせる。
読み取れないものもあるだろうが、読み取れないということに気づけばそれはそれで有益。

教師は、自身の中に、そういった関連付けを多々持っていなければならない。
収納された知識の関連付け、要するに体系的知識を、持っていなければならない。
そして、最適な順序で、児童生徒に気づかせる授業をしていく。

児童生徒にとって、「知識とは関連付けるものである」ということが常識になるように、日々指導していく。
新しい知識に出あった時、自然に、「自分の中のどの知識と関係があるのだろう?」という思考が働くように、育てていくということだ。

さて、ここで忘れてはならないのは、それでも教師は知識を「与える」必要があるということだ。
関連付ける対象である知識を、まずはバラバラの状態のまま、与える。
そうでなければ、関連付けることなど当然できない。

この、知識を「与える」というスタートラインそれ自体を否定すべく機能してしまっているのが、「知識の詰め込み」という表現なのだ。

「知識の詰め込み」という言葉は、教師が児童生徒に知識を提示するというその「方向」を毛嫌いする言葉である。とにかく、教師「が」児童生徒「に」という部分を嫌う言葉。

「知識の詰め込み」という言葉には、「詰め込み」と「植え込み」の区別を冷静に考えさせる精神的余裕を奪い去るような、暴力性がある。

これまで、「詰め込み」だと言われてきた教育のプロセスが、果たして本当に「詰め込み」だけであったのかどうか。
そこには、実は「植え込み」への繊細な意図が発揮されていたのではないか。

よく、「知識の活用」と言う。では、その反対語は何か。
それは、生徒目線で言えば「知識の取得」、教師目線で言えば「知識の付与」。
しかし、「知識の詰め込み」という言葉は、その「取得」と「付与」をも否定する意味を包含している。

「知識偏重」といった表現にも、その否定の勢いがよく現れている。

「知識の詰め込み」とか、「知識偏重」とか、そういう言葉を使うときは、くれぐれも、整理関連付けさせる「植え込み」のプロセスを包含していないか、それらをまとめて否定してしまっていないか、留意する必要がある。

否定すべきは、「知識の付与のみで終える」ことである。
それを「詰め込み」と呼ぶのなら、まあ分かる。

しかし、「未知と既知を関連付けさせる前提で、まず知識を付与すること」、あるいは、「付与した未知の知識を既知と関連付けさせる、植え込みのプロセスまでの全体」を指して「詰め込み」と呼ぶのなら、それは間違っている。

さて、では「知識とは何か」ということになるが、これについては、こちらにまとめて書いてあるので、お読みいただきたい→
http://www.yokohama-kokugo.com/hissu_jousiki_tokusetu.html#come

簡単に言えば、知識とは「名前」である。

では、「知識」と「技術」はどう違うか。これはちょっと難しい。同列で並べるものかどうかが。

しかし、一応整理しておく。技術というのは、何らかの対象を変化させるという目的がある。知識には、それがない。

ただし、技術そのものも、全体をとらえればそれは知識である。底辺×高さ÷2というのは技術だが、その公式全体は知識である。

だから両者は必ずしも二分できない。

まあここまで書いたようなことは、これまでもよく考えてきていたのだが、あらためて言葉にしておかないと、と思ったきっかけが1つある。それは、乙武氏の『自分を愛する力』という本を出典にした、SAPIX(5年国語)の読解問題(の題材文)である。

その論調は、「いかにもありがち」なものであった。ちょっと引用しておく。

【僕らは、授業で「これが正解だ」と教えられ、それを必死になって記憶してきた。そして、テストという場でいかにその記憶を正確に取り出すことができるかを問われてきた】

【(中略)もちろん、知識をおろそかにすることはできない。知識が豊富であればあるほど、思考の幅は広がり、すぐれたアイディアも生まれやすくなるだろう。だが、いくら重要だとはいえ、知識とは、あくまで思考のための、生きていくための手段にすぎない】

【にもかかわらず、日本では、「学び=知識を詰め込むこと」と誤解されてきた】

【「君なら、どうする?」そんな問いを意識的にぶつけていくことで、模範解答に頼らない「自分なりの答え」を生みだせる子どもに育てていくことができるのかもしれない】

こういう論調は、実に危険だ。
「未知の知識を取得する → それを、既知の知識と関連付け、整理・収納する」。
これが、知識の習得である。
否定すべきは、この前者のみを行う教育なのだが、「知識の詰め込み」という言葉を使ったとたん、後者をも否定する解釈を可能にしてしまう。

そもそも、「自分なりの答え」というところが、危険だ。
当然のことだが、「未知」は自己の中には存在しない。
あくまで他者の中に存在する。
「他人があつらえた模範解答ではなく、自分なりの答えを!」という主張には、知識の本質である「未知」を否定することを許容するニュアンスがあるのだ。

(このnoteは、2015/1/13の連続ツイートを整理したものです)。


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