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梟訳今鏡(3.5)すべらぎの上 第一 望月

望月もちづき


私の祖父にあたる世継よつぎも、天皇のことを話すついでに、その国母こくものことも話しておりましたから、私もそれに習って、後朱雀天皇の御母君彰子しょうし様について少し申しましょうかね。

彰子様は御年21、2歳の時に後一条院、後朱雀院を続けてお産みになられました。
土御門殿つちみかどどのという場所で後一条院をお産みになった時の七夜目(実際は五夜目)の産養うぶやしないの祝宴の際、御簾みすの内から出されたさかづきに、私が昔お仕えしていた紫式部むらさきしきぶ様がそれをまわしなさいと指示して詠み添えられたお歌がありまして、

めづらしき 光差し添ふ さかづきは
                      持ちながらこそ 千世は巡らめ

というものでした

彰子様は御年13歳の時から一条院のきさきとなられまして、それから一条院が崩御なさった後に、まだ幼くていらっしゃった後一条院がその仏前にお供えされていたなでしこの花をむじゃきに散らしてしまわれたのをご覧になって、

見るままに 露ぞこぼるる おくれにし
                                    心も知らぬ なでしこの花

とお詠みになられました。

また三条院の御世での大嘗祭だいじょうさいの、五節ごせちの舞楽行事の時、彰子様の侍女であった伊勢大輔いせのたいふが、昔を思い偲んでやってきた殿上人てんじょうびとたちを見て、

はやく見し 山井の水の 薄氷うすごおり
                         うちとけざまは 変はらざりけり

と詠んだということもありました。

寛弘9年2月、彰子様は御年25歳にして皇太后宮こうたいごうぐうとなられました。そして後一条天皇が帝位につかれた後、寛仁2年1月に太皇太后宮たいこうたいごうぐうとなられました。

それから万寿3年1月19日に御年39歳でご出家なさり、法名を清浄覚せいじょうがくと申しあげましたよ。
ご出家後も太皇太后宮としての地位はそのままにしておかれたので、女院号「上東門院」という御名で申し上げるようになりました。
ですので、年官ねんかん年爵ねんしゃくの優遇は以前と変わらず同じように賜っておられました。

長暦3年5月7日、再びご受戒なさった時に、中納言顕基あきもと様が、

世を棄てて 宿を出てにし 身なれども
                                     なを恋しきは 昔なりけり

と詠んで彰子様におくり
奉られまして、そのご返歌として彰子様が詠まれたお歌は、

つかの間も 恋しきことの なぐさまば
                         ふたたび世をば そむかざらまし

というものでございました。
1度目のご受戒の時からずっと変わらず悲しいお気持ちでいらしたのでしょうねぇ。

そうそう、この中納言顕基様は後一条院の信頼が厚くていらっしゃったんですよ。
その後一条院の喪中、顕基様はご自身のおやしきの灯りをつけるための御殿油ごでんあぶらさえお使いにならず、ずっと暗いまま過ごされていました。

後朱雀「お前はどうしてそんな暗いまま過ごしているんだ」

顕基「うちの女官たちはみんな新帝であるあなた様の元へ参ってしまって、このやしきには灯りをつけてくれる人さえいなくなってしまったんです」

それからというもの顕基様は日に日に悲しみがつのっていくものですから、後一条院の崩御から6日経った頃、御年37歳にしてご出家し、遁世とんせいしてしまわれたとか。
この話を聞いて涙を流さない人はいませんでしたよ。
……ああ、そういえば昔、遍照へんじょうという僧正が仁明天皇の喪中にご出家したという話がございましたが、顕基様はそれにも劣らぬ忠誠心ですよね。
そうはいってもやはり、この顕基様は本当に酷く嘆かれたのだろうなと思うと、聞いているこっちまで悲しくなってきてしまいます。

ですから、この「世を棄てて……」というお歌を、同じく後一条院を大切に思っておられた彰子様におくり奉られたのでしょうと思いますし、それに対しての彰子様のご返歌もたいそうしみじみと悲しみが感じられて、彰子様もさぞお嘆きになっていらっしゃったのだろうと思われてきますよね。

さて、かの東北院(三昧堂さんまいどう)は彰子様のかねてよりの御願ぎょがんにより建てられたもので、御父君(道長みちなが)の御堂である法成寺ほうじょうじのおそばにありますよ。
築山つきやまの形や池の様子なんかも並み大抵のものではなく、松の景色、桜の梢も他所よそよりいっそうすぐれて見えましたよ。

9月13日の夜から、十五夜の満月の日まで、念仏の為に本尊のお顔に灯りを添えておられました。
念仏が始まる時間になって、公卿くぎょうや殿上人たちが集まってきた頃合に、

頼通よりみち「この場に合うような漢詩文を朗詠してくれる者がいると良いな」

斉信ただのぶ「では私が……」

ということで、この時1番歳をとっていた民部卿みんぶきょう斉信様が、「極楽の尊を念じたてまつること一夜……」と朗詠なさったとか。
時節が時節であるだけに、どんなにすばらしかったことでしょうかねぇ。

この漢詩は斉名ただなという学者が作ったものなんですけどね、この時ご本人はどれほど光栄に思ったことでしょう。
最近なら存命中の人の作をまさか引用したりなんてしないんですけど、このことは大変立派なことだと思われますよ。
(※ 紀斉名きのただなはこの当時存命ではない。)

そうだ、殿上人が紫苑しおん色の指貫さしぬきを着用するようになったのはこの東北院での念仏の時からなんですよ。
東北院は土御門大路つちみかどおおじという場所のはしっこの方にあたりまして、別称で上東門院とも申すのですよ。

ちなみに、この彰子様に「上東門院」という女院号が与えられてから女院号には門の名前を使うことになったんです。
例えば、禎子ていし様の御所は近衛大路このえおおじにありましたので、女院号は「陽明門院」とつけられました。
他には郁芳門院いくほうもんいん様や待賢門院たいけんもんいん様がいらっしゃいますよね。
この方々は別に大炊御門大路おおいみかどおおじ中御門大路なかみかどおおじのあたりに住まわれていたわけではないのですが、前例にならうということで、「郁芳門院」「待賢門院」と女院号をつけられたと聞いています。
そういえば、この待賢門院という女院号を決める時に、

「門の名前から女院号をとるというなら、どうして前の女院号には待賢門をひとつ飛ばしてつけたんだろう」

中納言顕隆あきたか「今回この璋子しょうし様に待賢門院とつけるためでしょう」

ということがあったとか。
まぁ、そういうわけで璋子様には「待賢門院」の女院号がつけられたというわけですね。

あとですね、天皇の御前では「土御門大路の……」とか「近衛大路で……」とか申さず、「上東門の大路よりはどっち」とか「陽明門の大路よりはそっち」とか申すそうですよ。
場所を指す際に私たちが一条の、二条の……と言って話すのと同じようなことなんでしょうねぇ。

さて、この上東門院彰子様は御年87歳までご存命でした。