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梟訳今鏡(5) すべらぎの上 第一 司召し

司召し

次の天皇は後三条ごさんじょう天皇といいます。この方がまだ親王であらせられた時にお父君にあたられる後朱雀天皇が、寛徳元年の冬よりご病気を患われたため、寛徳2年1月10日過ぎの頃に、当時の東宮(後冷泉)にご譲位なさると決められたんですけど、その際に空いた東宮位はどうするのかについてはなんの音沙汰もなかったんですよ。

そこで、頼通よりみち様の異母弟(明子所生)にあたられる大納言能信よしのぶ様が後朱雀天皇の御前に参られたんです。

能信「二の宮様は、どちらの僧にお弟子としておつけすればよいですか」

後朱雀「何言ってるんだ?二の宮は東宮坊につけるつもりだが、誰が僧につけようなんて言ったんだ」

能信「あ、そうなんですね。てっきり……。
ではなぜ譲位なさるのに東宮のことは何もお決めになっていないんですか?」

後朱雀「それは……関白が東宮のことは落ち着いてゆっくり考えればいいと……。
だからもう少し後になってから決めようかと考えていたから…………」

能信「いけません、いけません!もう二の宮様を立てようとお考えになっていらっしゃるのなら、今日にでもお立てにならなければ!
後になってからでは思い通りにならなくなるかもしれませんよ!」

後朱雀「では今日!」

と、こうして東宮にお立ちになられたんです。この「二の宮様」というのは後三条天皇のことですよ。

立坊後すぐ、二の宮様の東宮大夫とうぐうたいふにはこの大納言能信様がおつきになりました。

それにしてもこの能信様の忠誠心はすごいですよね。
ただもう主君のため、まっすぐにその立坊を勧め申し上げたなんて、本当になかなかないことですよ。

ですからこの天皇の皇子にあたられる、のちの白河天皇は、能信様のことを「大夫殿」と殿付けでお呼びになっていたとか。
本当でしょうかねぇ。

さて、後三条天皇は後朱雀院の第二の皇子でいらっしゃいます。
御母君は太皇太后宮禎子ていし様で、陽明門院と申しますのはこの方です。
先程述べたようなことがことがあって、寛徳2年1月16日に御年12歳で東宮にお立ちになられました。
そして、治暦4年4月19日に御年35歳で帝位につかれました。

前年火事があった大極殿だいごくでんはまだ修復がおわっていませんでしたので、ご即位の儀式は太政官の役所で行われました。

この天皇のなさる政治といったら、あの理想的な延喜・天暦の治にも劣らないほどすぐれていらっしゃいましたよ。
それに、天皇の御漢才は優秀な学者にもまさっておいででした。

天皇がまだ東宮でいらっしゃった頃、かの中納言匡房まさふさ様がまだ下級官人であった時に、匡房様はなかなかうだつが上がらないことを嘆かれて、「もういっそ山へでも籠ってこんな世の中との縁など絶ってしまいたい……」と申されたことがございました。
その時に中納言経任つねとうと申します方が、

経任「お前はいつかきっとすばらしい大人物となるだろう。だから世のためにも、自分のためにも、そんなことをするとはもったいないことだぞ」

と匡房様をいさめました。
それから匡房様は東宮の元へ参られたんです。頼通様はあまり気乗りしない感じではございましたが、東宮は匡房様の訪れをお喜びになられて、匡房様はすぐに昇殿を許されました。

匡房様は長く卑官でいらっしゃいましたので、ろくな装束をお持ちでなかったため、そういう諸々のものはとりあえず人に借りて、出仕のお札を提出されました。
それから東宮と匡房様は昼夜問わずご学友として仲良くしていらっしゃいましたよ。

さて、東宮が帝位につかれて後三条天皇となられた時、この匡房様は五位以上の官人の特権である昇殿を既に許されてはいたんですが、それ相当の官職にもつかれず、未だに五位の蔵人くろうど式部大夫しきぶのたいふでいらっしゃいました。
ですが、その内中務少輔なかつかさのしょうの位に空きができたので、それにつかれたんですよ。

さて、かの大弐実政だいにさねまさ様はこの天皇の東宮時代に東宮学士でいらっしゃいました。
しかし、その頃の東宮は立場の危うい時期であられたため、実政様は「きっとこの東宮が即位する日には立ち会うことなどできないんだろう……」と思っておられました。
そして、この実政様が甲斐守かいのかみになられた時、東宮のこれからを思うとやはりお気の毒に思われてきましたので、「都へ帰任しても東宮の元へは参らないでおこう」と決心なさって甲斐の方へ下ろうとしていましたら、その餞別せんべつにと東宮より、

くにの民たとひ甘棠かんとうえいをなすとも
忘るる事なかれおほくの年の風月のあそび

という漢詩がおくられてきたんだとか。
もう忘れられるはずがありませんよね。

この「甘棠の詠」というのは唐国のとある国司が住んでいたところに山桃の木が生えていて、その国司の善政を懐かしんだその国の人々が「この木を切ってはいけないよ、あの人の住んでいたところの木なんだから」と歌ったことに基づく言葉なんですよ。

そうそう、この天皇の御世に実政様が「私を左中弁にお加え下さい」と奏したことがありました。ですが天皇はその承諾を渋っておられたんです。

後三条「初めてでいきなり左中弁だと?私はほんの少しでも道理に合わないことはしないと決めているのに、お前はどうしてそんなことを言うんだ」

実政「……」

その時、すぐ傍にいた蔵人頭の中納言資仲すけなか様が実政様に加勢して、

資仲「実政の申すことですよ。あの木津川の渡船場での一件をお忘れになったなんてことはないでしょう?聞き入れてあげてくださいませ」

と申しましたため、天皇はじっとお考えになられ、特別にその任官を取り計らわれるご様子でございました。

また天皇が東宮であった頃に戻るんですが、実はですね、実政様が東宮の命令で春日の使いとして奈良へ下ろうとされた時、右中弁であった隆方たかかたという男も奈良へ向かうところだったみたいなんですよ。
それで、実政様が船なんかを用意して木津川の渡船場から奈良へ渡られようとした際、この隆方がそれを邪魔したんです。さらには

隆方「おい!あてにならん棚ぼたを期待している奴、何をそんなに急いでるんだ」

なんて嫌味っぽく言いますので、この人はなんてことを言うんだとお思いになり、帰ってから東宮にそのことを申された……ということがあったんです。

天皇はそれをこの任官の時に思い出されて、

後三条「あの時は私が弱い立場だったばかりに実政まであんな酷いことを言われたんだ。
これは少し無理のある任官ではあるけど、神々にお許しをいただいてから特別に行おう……」

とお考えになられたんですよ。そして実政様は晴れて左中弁に加えられたんです。

そもそもこの隆方は無遠慮な男でしてね。殿上で除目の発表があった時、公卿くぎょうたちがどうにかこうにか各々の官職を確認して、「私は〇〇になったぞ」とか「私は□□になった」なんて言い合っていたところへ、得意げな顔をした隆方が

隆方「俺はどんな官職をもらえたんですかねぇ」

とか言いながらやってきたんです。
そしたら近くにいた人に、「全く予想外なことに、あの実政がお前の上席に加えられたらしいぞ」と言われたものですから、肩をガックリ落として宮中から去っていかれたんだとか。

また、その翌日の朝に天皇のお食事のご奉仕を務める当番がこの隆方に回ってきていたんですけど、天皇は前日の除目での件を知っておられたので、

後三条「隆方はショックで参内できまいよ、別の者に申し付けておいてくれ」

と仰せられたんです。
でも、その日の正午前くらいに隆方はしっかり出仕しにきたんですよ。
これには天皇もさすがに気の毒になって、いつもならご洗髪なさり、きちんと御びんに櫛を入れてご着座なさっているはずなんですが、この日は気後れしてしまって、少しご遅刻なさっておでましになりました。

しかし隆方はちゃんとお食事のご奉仕をして、そのあとに自分の官職を辞退して、引きこもってしまわれたんだとか。

そういえば、この御世の最初の頃でしたでしょうかね、内裏が焼亡したことがありました。

しかし出火した当初は殿上人てんじょうびとや公卿などはだれも居合わせなかったため、天皇は自力で何とか紫宸殿ししんでんの方へ避難なさったんです。

そうしていると、見ず知らずの者がテキパキ走り回って、内侍所ないしどころ(三種の神器:鏡)を別の場所へ移し奉ったり、右近衛府うこのえふの武官の役所から御輿みこしを探し出してそれを御階みはしに寄せて、天皇を乗せ申し上げたりなどしていたんです。そこで天皇が「お前は誰なんだ」と問われますと、

正家まさいえ「私は左少弁の正家と申します」

と答えたんです。それで

後三条「弁官か、ならば丁度いい。近くで仕えていろ」

と仰せられた、ということがあったみたいですよ。

この御世には正家様と匡房様という双璧の大学者がいたんです。
匡房様の方は朝夕に出仕して天皇の元で仕えておられたんですが、正家様の方はこの火事の時まで天皇はご存知なかった方なのですよ。

ですが、この時名前を聞かれてとっさに官職もセットで名乗られたということを聞くと、折々につけ何かと気の利いた心遣いのできる人なんだろうなと思われます。

まあそんなことがあった後に、殿上人やら公卿やら束帯の者やら狩衣の者やらが取るものも取りあえず、あわてて天皇の元へ集まってきたとか聞いています。