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梟訳今鏡(4) すべらぎの上 第一 菊の宴、金の御法

菊の宴

次の天皇は後冷泉天皇と申しました。
この方は先帝(御朱雀)の第一の皇子でいらっしゃいます。御母君は尚侍ないしのかみ贈皇太后宮嬉子きし様と申します。

嬉子様は道長みちなが様の六女で、彰子しょうし様と同じ所生でいらっしゃいます。

さて、この天皇は万寿2年8月3日にお産まれになりました。
長暦元年7月2日にご元服、それからすぐに三品さんぼんの位を授かられました。
そして同年8月17日に東宮位につかれ、寛徳2年1月16日に御年21歳で即位されました。

永承元年3月頃、伊勢神宮に奉仕する斎宮さいぐうと賀茂神社に奉仕する斎院さいいんをそれぞれお決めになり、また同年7月10日に章子しょうし様を中宮としてお立てになりました。

章子様は後一条院の皇女で、この天皇がまだ東宮であった時から御息所みやすどころとして天皇のおそばにおられた方なんですよ。

10月も過ぎた頃、天皇は賀茂川でとよ御禊みそぎをなさいました。

そうそう、この年の1月は先帝(後朱雀)の三周忌にあたりましたので、豊穣ほうじょうを祈る踏歌とうかの行事はありませんでした。

さて、同年10月に関白頼通よりみち様の御弟君である右大臣教通のりみち様が女御として歓子かんし様を入内じゅだいさせました。
この教通様は大二条殿だいにじょうどのと申し上げることもあります。

永承4年11月にはあの「永承四年内裏歌合だいりうたあわせ」が行われました。
かの村上天皇や花山天皇の御世以降のこととしては珍しいことであっただけに、大変上品ですばらしかったですよ。
この折に能因法師のういんほうしが「いはねの松も 君がため……」という歌を詠んだんです。これは後拾遺和歌集ごしゅういわかしゅうの1番目の歌に入っていますよ。
当時の和歌を読む風流人にとって、この御世に産まれたということは本当に幸運でしたでしょうねぇ。

ああそうだ、能因法師の歌といえば「……龍田たつたの川の 錦なりけり」という歌もありますが、これもこの永承四年内裏歌合での歌なんです。

さて、永承5年の12月に関白頼通様の御娘君である寛子かんし様が女御として入内なさいました。寛子様は四条宮しじょうのみやとも申しあげます。
この方は永承6年2月10日に皇后となられまして、この時に先帝(後朱雀)の皇后であった禎子ていし様が皇太后宮となられました。

同年5月5日には殿上でアヤメの根合せという行事が行われました。
そこで詠まれた歌などは歌合せの記録の中にもございましょう。

それから、寛子様が里邸に下っておられた頃に、良暹りょうせん法師が

もみぢ葉の こがれて見ゆる みふねかな

という上の句を連歌れんがとして詠んだところ、殿上人たちは誰もその句に下の句をつけられなかったということがございましたが、それをこの天皇はお恥ずかしくお思いになったんだとか。
本当に風流心が深くていらっしゃるなぁと思いましたよ。

そして9月9日の重陽ちょうようの節句に、天皇は菊の宴を催されまして、その時臣下たちに「菊ひらけて水の岸香ばし」という題で漢詩を作らせたそうです。
また、永承7年10月頃に釣殿つりどので遊興がございまして、そこでも漢詩が作られたとか。
この御世ではこうした漢詩文を作る宴というのは日常茶飯事だったのでしょうねぇ。


金の御法みのり

いつだったかよく覚えていませんが、たしか9月13日の夜、後冷泉天皇が高陽院かやのいん里内裏さとだいりとしておいでだった時に、そこで滝の音が涼しげに鳴り、岩間からこんこんと流れ出す水に月が映っているのをごらんになって、

|岩間《いはま》より 流るる水は はやけれど
                       うつれる月の 影ぞのどけき

とお詠みになられたことがございました。

治歴元年9月25日、また高陽院において、天皇が御自ら金泥を用いてお経を書写なさいまして、法華八講会ほけはっこうえを催されました。
「村上天皇の御世の水茎(筆跡)で書き、八講会をする」という流儀に従われたのでしょうねぇ。
その八講会での最初の御導師には勝範座主しょうはんざす、この当時はまだ僧都そうずと申し上げていた方が務められていたそうです。
法要の中での論義の第1問目やその他様々なことが、かの村上天皇の御世のものと何ひとつたがわず行われていたと、その八講会に聴聞しに行っていた人から伝え聞きました。

この八講会の中でも特に5、6巻を説く日は、やはりとても華やかだったそうですよ。
親王たち、殿上人てんじょうびと公卿くぎょうたちがみんなそれぞれささげものを持ってきて、池には竜頭げき首の船を浮かべ、そこで楽の音を響かせるなどしていたとか。
その様子はまさに極楽浄土ごくらくじょうどがそっくりそのまま現れたようで、錦のような紅葉のあざやかさ、澄みきった水面にはあやのような紋がひろがって、場所も時節もバッチリな感じだったみたいですよ。どんなにすばらしい法要だったのでしょうねぇ。

治歴3年10月15日には、宇治にある平等院びょうどういんへの行幸ぎょうこうがございました。
これは太政大臣だじょうだいじん頼通よりみち様が2、3年ほど宇治の方にこもっておられたので、そのお見舞いをしようということでしたかね。
その宇治の御所のご様子といったら、遠くに宇治橋を望み、宇治川の上に浮かぶ船からは楽人が参上して楽の音を響かせて、川上へと漕ぎ上っていく様は、かの唐国もこのような景色の場所なんだろうかと思われるほどであったとか。

そうそう、あの平等院の様子も非常にすばらしかったみたいですよ。
庭に流れる川へ華やかな小屋をさしかけ、池にも豪華な唐船からふねを浮かべ、そこからみやびな笛の音が響いて、大変華やかな景色であったそうです。
それに、天皇をおもてなしするための御膳ごぜんにのせられた器は金銀その他さまざまなぎょくをあしらい、飾り立てられていたみたいですよ。

さて、翌16日にはお帰りになる予定でしたが、雨天により、もう数日逗留とうりゅうなさることになり、17日にはその宇治の御所で漢詩をお作りになるなどなさいました。その時の御製の漢詩として、

たちまちに烏瑟うしちの三明の影をみて
しばら鸞輿らんよの一日のあとをとどむ

というのがあったと聞いたような気がします。すみませんね、うっすらとしか覚えていません。
私の知り合いで漢詩文が得意な者がおりまして、その者が「まさにその場にピッタリな漢詩を思いつかれたものだ、すばらしいなぁ」と感嘆していたんです。

そうだ、あの頼通様が准三宮じゅさんぐうの宣旨をうけられたのはこの宇治行幸の時なんですよ。

あ、これもその頃ぐらいのことだったでしょうかね、天皇が内裏で童舞わらわまいをご覧になられたことがあったんです。
その舞人は上級貴族の若君たち、楽人は殿上人がさまざまな管楽器、弦楽器を用いて務められました。
そんな折、舞人の少年たちの中で、六条右大臣源顕房様がまだ中納言でいらした時のご子息が、一人舞いの胡飲酒こんじゅを非常に見事に舞われ、そのご褒美として天皇から御衣おんぞを賜わりました。
それを見た祖父の師房もろふさ様は、 その場で立ち上がって拝礼の舞踏をされましたよ。
そんな見事な舞いをされたこのご子息は雅実まさざね様と申す方ですよ。

その年の12月には天皇のご病気のために22社の神社にみてぐらが奉納されました。
それから翌年治暦4年元日に日蝕がありまして、不吉なので廃朝ということになりました。御簾は全て下ろされ、もちろん政務も、行われませんでしたよ。

この時は天皇だけでなく、あの頼通様までご病気でいらっしゃったんです。また、皇后宮寛子こうごうぐうかんし様も同年2月ごろに里邸へお下りになっておられました。

天皇は孔雀明王の修法ずほうを、大御室おおみむろと申しておられた仁和寺宮師明親王にんなじのみやもろあきらしんのう(性信)のお弟子さんである行禅ぎょうぜんという者を僧綱そうごうに昇格させて行わせました。
その際に性信様も牛車のまま建礼門まで入ることを許可されたんですよ。

さて、この祈祷の効果があったのか、天皇のご病気は小康を保たれるようになりました。
なので4月には、さらに金や銀、綾織あやおりの布、あざやかなにしきの布などの幣を神社に奉られました。

このような時期ではありましたが、左大臣教通のりみち様の娘君、歓子かんし様が皇后宮にお立ちになられました。
また、お父君でいらっしゃる教通様も関白となられましたよ。
この頃には頼通様は完全に政界から身を引いて、弟君に地位を譲られたのでしょうねぇ。

しかしこの頃、再び天皇のご病気が悪化し、そのまま崩御されてしまいました。
世を保たれること23年でございました。
享年44歳であったでしょうか。この天皇に皇子も皇女もいらっしゃらなかったということは本当に残念なことでありましたよ。

そういえば、天皇の御母君嬉子きし様は御年19歳でこの天皇をお産みになられてお隠れになりましたが、その後寛徳かんとく2年8月11日に皇后宮の位をおくられたんですよ。
この8月11日は国忌にあたりましたので、政務などは全く行われませんでしたよ。
この嬉子様はご存命中の間こそ后にはなられませんでしたが、天皇をお産みした国母でいらっしゃるわけですから後世におけるその名誉はそれはそれは高くていらっしゃるんですよ。