思考法の選択の背景として

今のところまだ弁証法を推している加藤です。
これまでの人生でおそらくこの思考法以上に惹かれたものはなく、というより弁証法を知ってから思考について具体的に考えるようになったくらいで、個人的には契機的な意味合いもあって友達以上恋人未満的な存在である。
散歩中になぜ弁証法がしっくり来たのかを考えてみたところ一つの仮説が立ったので、記録しておこうと思う。
ざっくりと中学生の時くらいから嫌なものや場面を乗り切るときに、防衛機制の合理化や、それよりの知性化を用いていたように記憶している。つまりは嫌な出来事の良い側面や価値を見出すような行為を無意識にしていて、押しつぶされるのを避けていたのであろう(すごい)。これらの防衛規制をふんだんに使いまくった挙句に弁証法と出会えば惹かれるのは至極当然のように思われる。というのも互いにある物事の表と裏を考えるという点において共通しており、それのプロ(いいすぎ)である加藤にとってみれば弁証法の基礎は0→1ではなくプロトタイプにちょっとした加工を施すだけで獲得できたと想定されるからである。
背景としてはこんな感じ。
あと、欠点として、合理化を使ったり絶対的な真実を仮定しないモノの考え方は、ある意味物事の本質が霞んでしまい、見たいものを見ようとする(天体観測)傾向が生じると考えられる。そのため心の安定としては使い勝手はいいものの、人間的な成長の際には壁を避けて通れてしまうが故に、それがある種の壁になってしまう(うまい)のではないだろうか。
散歩しながらにしては考えられた気がするのではなまるです。

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