自らの外界の認識について

外界の様々な対象に対して、その対象の持つ属性に着目して像を形成している。そして、その対象そのものを認識せず、属性により形成された像を認識する傾向にある。
例えば、男性教員には、権威の像や怖さの像をもっており、男性教員そのものと対峙せずに、像と対峙する。結果、自身の振る舞いの上手くいかなさが生じる。また、既形成の集団も、馴染めなさの像や疎外の像があり、その集団に入ることを躊躇ってしまう。サブカルチャーには遊戯性や不真面目の像があり、そこに没入することは時間の無駄という意識が生じてしまう。ここについては有意義についての価値観の歪みがあると思われる。自分自身に対しては、上手くやっていけないの像があり、熟考できる人や的を得た発言をする人、人とうまくやる人に対して抱く憧れとの乖離を抱え続ける。

不当な経験による歪曲された認識と、ステレオタイプ的認識の混合によって像が形成されているように思われる。また、例外もあって、全ての教員に対して権威的な像に支配された関わりを行うわけではない。例外の教員について考えると、攻撃性や傷つく予感を感じないこと、人間臭さや性格から想定される社会性の乏しさといった像と反する側面を有していることが背景としてありそう。

そうした外界との関わりがベースとなっているため、外の世界をまっさらな状態で認識して自分の中の世界に落とし込む、が疎かになっている。

ここで例に挙げた像については、その時に思いついた単語を羅列しているため、やや語弊が生じるものもある。

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