他者の発言によって自らの行動が変化した場合、それははたして自分で決めたことになるのか。対比を用いて考えた。

前提として、自分であらかじめ意見を持っていて、それが人の発言に影響を受けて決断に変化が生じるものと、情報的影響のようにどうしたら良いか分からないから参考に人の発言に影響を受けて決断するものをかんがえると、どちらも最終的な決断はしているが後者は明らかに影響を受けており、前者も影響は受けてはいるがあらかじめ自分の意見はあったため後者よりも自主性が見られる。
さて、人の発言によって受け取り側の選択肢が制限された場合、自分の行動ははたして自分が選択したのか、影響されて選択してしまったのかどちらと言えるのか。対比を使って考える。前者の立場では、人の発言に影響されようが最終的な決断は自らが行なっているためそれは自分で選択した行動といえる。一方後者では、発言によって選択のルートがたとえば5つだったものが2つになってしまうような印象で、そうなってしまうと人の発言によって自分の意見があたかも誘導されているように決まってしまうので、決定したというよりも決定させられたというイメージになるだろう。この2つの意見の折衷案を出すならば、たしかに後者のようにルートを絞られることで自由度の低い選択肢になってしまうと言えるが、それでもまだ選択は残っているのでその中から自分の決断で1つの答えを導くことができるのではないだろうか。
テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの提示という弁証法的な流れになったかは怪しいが、それでも対比を用いて意見を述べることができた!
折衷案ではなく高次元の、ジンテーゼと呼べるような案を出せるようにすることが課題かな、

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