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エッセイ|エッセイの実用性

「すべての物事には実用性が備わっているべき」とは思いませんが、実用性をテーマにして物事のあり方を思案するのは1つの方法です。それを踏まえてエッセイの実用性について考えました。効果はともかく、こうしてウンウン脳を働かせるのは僕だけではなく読者の方にとってもどのような利益があるかを探るということであり、それならば早めにしておくのが吉だと思うのです。僕が頭を搾って出した結論は「実用的なエッセイというのはトートロジーだ。なぜならエッセイそのものが実用的だから」というものでした。少しでも読みやすいように先に書きました。〈実用〉という単語がクドくてすみません。以下はなぜこの結論に達したかという文章になります。

 まず、前の段階として僕の懸案に触れさせてください。当然のことながら、文章を書いて公開する上で〈読者の方にどう読まれるか〉は気になるし、そう心配するのはちょっと大仰だが書き手の責務でもあると思う。僕はショートショートとエッセイを書いており、前者は(楽しんで読んでいただけたら)と思いながら書いていて、それで良いと思っている。簡単な話だ。だが後者は多少、話が込み入っている。僕は他人の書いたエッセイを好んで読む。本屋や図書館でもそのコーナーの棚の前を長い時間ウロウロしている。でもその際、単純に(読んで楽しもう)とは違った期待の下に本を選んでいるのを自覚するのだ。この期待とは一体何だろうか? 
 拙作エッセイ『転じ、転がり込んだ大学生』は大学を転学した体験がベースになったものだった。大学を転学した学生の数は多くない。無論、その話を聞いたり読んだりする機会はもっと少ない。だからこそ書く意味はあると思うし、狙いとなる読者の方もいる。一方で、話題に関係を持たない読者の方にとってはどのような利益があるだろうか?

 僕自身の読書体験から得られた教訓はこうだ。あらゆる読み物としてのエッセイには実体への過程を明るくする力がある(と信じるに足る)。無理して比喩的に書くと、また深層心理という言葉もあるがメタファーとしてよく使われる〈地下〉を先達に倣って用いると、それは地下の日光が当たらず灯りもない暗い場所にある倉庫のドアノブを懐中電灯が照らすようなものであり、すなわち、閉ざされている部屋のドアを開く助けをしてくれるということだ。さらに、ドアを開くことで室内から物を取り出すことができるように、自分自身の奥底に仕舞い込んで手が届かなくなっていた対象を取り戻す作用があるのではないか。ヘテロフォニーによる神託をむんずと掴んだ後で。拙作エッセイ『ファーストタッチであるということ』ではこれを勝手ではあるが短く〈内省〉と書いた。
 少し話は変わるが、持論を補強するために分かりやすい他の例を考え出そうとしたが、結局良いものが思い浮かばなかった。エッセイは稀有な例なのかもしれない。そんなことをどこかで考えつつ、たまたま『新漢語林』(鎌田正 米山寅太郎 著 大修館書店)で調べ物をしていたら、〈冥利〉という熟語の意味として〈知らない間にある物事から受けている恩恵〉と書いてあるのを見つけた。この簡潔な文言で、僕がダラダラと書いてきたことは過不足なくまとめられるかもしれない。

 これまでは読み手の方にとってどのような利益があるかについての話だった。ここからは書き手(僕)にとってどのような利益があるかについて書きたい。近江商人の〈三方よし〉ではないが、自分にとっても良いものでないと活動は上手く転がっていかないものだ。こちらは簡単に。

 僕が書いているショートショートは当然フィクションだ。実際には存在しないものをなんとか積み上げていく作業によって書かれている。ちゃんと積み上がっているかは甚だ疑問ではあるが。ともあれ、そういったタイプの文章ばかりを書いていると、自分の中でどうも均衡が崩れる兆しがある。そこで、実体験に基づいたエッセイという文章を書くことでつり合いを取るという作業が必要になる。さも利いた風だが、僕としてもショートショートとは別の回路を使っているという実感がある。
 もともと、エッセイは人生の切り売りで人生経験が物を言うものだという認識があって、ひよっこを自認する自分にはなかなか一歩が出なかった。しかしある時から、とにかく書くことによって副次的に人生経験は豊かになっていくのではないかという風に全く逆のことを考えるようになった。電圧が水(電解液)を分解する一方で、逆に水素と酸素を反応させることで電気が発生するように。加えて、誰かの要請のもとで、つまり受注生産で書いていても大きな能力の向上は見込めないのではないかとも思うようになった。それで早計であることを承知で挑戦することにした。結果的に、ありがたいことに僕はそれによってごく個人的な報酬を受け取っていると思う。

 このように、エッセイはさまざまな面で実用的なのだという実感が僕の拾得物です。拙作エッセイ『ファーストタッチであるということ』と『転じ、転がり込んだ大学生』でも〈この文章にどういう意義があるか〉という文をちょっとずつ書いていますが、それに今回で決着をつけたつもりです。結論は冒頭で述べた通りになります。結局、実用性は自ずからエッセイの後ろをついてきてくれるのだから、あまりあれこれ考えすぎずに最善を尽くすことだけに集中して書いていくのが一番だと認識した次第です。最初から分かりきっていたことといいますか、そう、〈初心忘るべからず〉ですね。最後には原点に戻るのです。落語や漫才にもこういうオチのものがありますから、不出来ですがここは一つオチがついたということでお願いします。厳しいでしょうか?

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ