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エッセイ|転じ、転がり込んだ大学生

 1枚の真っ白な紙とペンを机に置き、その前の椅子に座って頭を抱えている。まだ2作目なのにエッセイとして何を書けばいいのか浮かんでこないからだ。自分の人生はこの紙以上に薄っぺらなのかもしれない。所詮僕は中産階級の家庭で育った中肉中背の万年暗中模索人間だ。エッセイ挑戦はどうも見切り発車すぎた。こうなる予想はついたし覚悟もしていたけれど、案外何とかなるとも正直どこかで思っていた。見通しが砂糖のように甘い。
 だけど、ふと1つ話の種が思い浮かぶ。大学において転学をした体験は文章にしてみてもいいかもしれない。卒業して数年が経ち、過去のものになったその話題を掘り返すのも気が引けるが、記憶が残っているうちにとにかく書けることを書きたい。 大学に限らず何か進路で迷っている人のヒントになれば嬉しい。回顧録寄りの文章になるけれど、当時はもちろん了見があっての行動だったためエッセイらしさも自然と醸し出されてくれるはず。 

 僕は生まれも育ちも長崎県だが、高校を卒業した2013年には宮崎県の宮崎大学に進学した。正確に書くと長くなるけれど、宮崎大学教育文化学部学校教育課程初等教育コース小学校主専攻美術副専攻に籍を置くことになった。大学に進学した理由ははっきりしていて教員免許が欲しかったからだ。学校の先生になるのが昔からの夢だった。
 しかし入学して約半年のうちに、ひしひしと自分が教育に携わるべきではない人間であることを思い知らされた。その多くは同じ夢を持つ学友との出会いによってだ。手紙を書いて投函した瞬間やメールを書いて送信ボタンを押した瞬間に、書いた内容に不行き届きがあることに思い至ることがあるが、そのように瞬間的に考えが回った。自身にあまりに大きな瑕疵があることに気づいてしまったのだ。教育者には当然備わっているべきなのに僕には欠けている性質。ここではそれが何かという具体的な言及は避けたい。あまりに冗長になってしまうし、進んで軽蔑されようとも思わないからだ。僕に限らず、自分に最もふさわしくない道をそうとは知らずに選んでしまうのは、不思議なことによくあることなのではないかと思う。
 僕が所属したコースは〈非〉ゼロ免課程だった。教員免許を取得しないことには卒業できないのだ。流されやすい僕は教員免許を取ったらそのままずるずると教員になってしまいそうで、それだけは避けなければならず、これが決定的な理由となり転出を余儀なくされた。その道を選んだのは僕だから僕が悪いのは間違いないが。
 話が前後するけれど、籍を置いたのが〈美術副専攻〉であることにも触れたい。修了すれば中学校で美術を教えるための資格が得られるというもの。両親や高校の担任の先生にも言っていなかったが、僕は大学で美術を学びたいとも考えていた。実は宮崎大学の初等教育コースは、副専攻だけは入学した〈後〉に〈無試験〉で選ぶことができた。選考として美術の試験を受けることなく、つまり知識や経験がゼロの状態からでも美術の専門教育を受けることができたのだ。美術を学ぶハードルが概して高いものである中、このシステムは素晴らしいと思う。僕自身の学力と大学のレベルを比べた場合に適切だったというのもあるが、宮崎大学を選んだ決め手となったのはこれだった。在学中は基本の一点透視図法や菊練りから学んだ。時にはキャンパスをツナギ姿で歩いていた。学びたいことを学ぶという前々からの願い通りにはなったものの、惜しくもそれを手放すことになった。

 それで同志社大学社会学部教育文化学科の転入試験を受けた。2年次転入を実施していた大学は少なかったのだが、ちょうど同じような専攻の学科があったのは僥倖と言える。3年次転入の方が一般的というか単純に数が多いけれど、僕が2年次転入を選んだのは転入時に行われる単位の互換を早めに済ませたかったからだ。前に所属した大学で取得した単位のうち、どれを認定するかを次に所属する大学で審査されるわけだ。これがかなりシビアで、当然のことながらいくつかは不認定になって溢れるから、4年生の終わりまでに取るべき単位をすべて満たせない人も多いと聞く。先ほど少し触れたが、特に僕は1年生の時に宮崎大学において美術の講義や実技で単位を取っていて、またもう1年在学すれば同様に美術の単位を取ることになるだろうが、それらは認定される可能性が低かった。そういったことを危惧して早めに転学することにした(結果的に合計4年で卒業することができた)。
 同志社大学の方はゼロ免課程で、社会学部ということもあり教員養成ではなく文字通りより社会的見地から教育を捉えようとする学科だったように感じた。例えば野球の同じ試合でもバックネット、内野席、外野席、あるいはテレビ中継で観戦するのでは味わいが異なるように、大学、学部が変わると同じ〈教育について学ぶ〉でもその体験は別物だ。さまざまな分野の講義がある中で、教育文化学科だったため教育問題史とか教育行政学の講義もあって、それを選んで受けていた。しかし矛盾するようだが、それは自分がいかに教育を遠ざけるべき存在であるかを確認する作業でもあった。

 転入試験の内容について記したい。まず志望動機書、在学中の大学の成績書、英語力を証明する書類(英検とかTOEFLとか。僕の場合は前者)を前もって提出する。それから同志社大学のキャンパスがある京都市に行き、試験として小論文を書き、口頭試問を含む面接を受ける。それ以外はともかく小論文が難所だった。僕はそれで「教育と文化は同義です」という文章を答案用紙1枚分びっしりと書いた記憶がある(こういうのは記述するのが2~3行で構わなければ労せずして乗り切れそうな気がするが、実際はある程度まとまった文量を記述することを期待されるものだから脂汗が出る)。ということは逆に考えると問題文は「教育と文化の違いは何か?」とかだったのだろうか? 「違いは何か」と問われているのに「同義です」と答えていたら変かな。どうも記憶が定かではない。もしそういう問題であれば、あなたはどのようなことを答えとして書いてだだっ広い答案用紙を埋めますか?

 今にして思えば転学したため先述のように単位を満たすのは多少厳しくはありましたが、その分だけ得られるものもありました。厳しくも充実した、という感じです。駆け足になりましたけれど、転じ、転がり込んだ大学生の頃の話は以上です。
 学生の方がいらっしゃいましたら、転学という選択も検討してみてはいかがでしょうか? また差し出がましいことを言うようですが、学生の方に限らず、人生においては転職、転居と転がり込むかたちをとる機会が時折あるものです。その時にもしこのエッセイを思い出していただけるならば喜ばしい限りです。
 と、ここまで書いてふと気づいたのですが、転学とか転職、転居は現状ではまずいと思うところがあってする場合が多い行為なのかもしれませんね。このエッセイが頭をよぎらない方が幸せだったりして。

人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ