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アナ・フロイトとの最初の論争

メラニー・クライン「児童分析に関するシンポジウム」(1927)、著1第7章、165-204.Klein, M. (1927). Symposium on Child-Analysis. Int. J. Psycho-Anal., 8: 339-370.
Sherwin-White, S. (2017). 5 The negative transference and young children in
analysis: new dimensions. In Melanie Klein Revisited, pp.69-91, Karnac Books.
Freeman, T. (1987). On the Clinical Foundations of Melanie Klein's Developmental Concepts. Bul. Anna Freud Centre, 10(4):289-305

クラインがこのシンポジウムでアナ・フロイトを批判した、支持的技法の限界や陰性転移の解釈の必要性、親から自立した精神構造などの点は、臨床上の技法に関しても発達論的な理解に関しても、実際にはその後、アナ・フロイトのやり方にも或る程度は取り入れられた――という理解が一般的だと思われる。クラインの方でも、基本的な点がアナ・フロイトの説くところと掛け離れていたかと言うと、最初にクラインにとって親への説得や子供への導入が不要だったのは自分の息子だったからだし、その後も、大人の患者の分析の場合を引き合いに出せるほど、1920年代後半に入っても成人の臨床経験が豊富だったとは思われない。
だがクラインの「児童分析に関するシンポジウム」(1927)を読み直すと、そういった個別的な点よりも、精神分析に対する根本的な姿勢に違いが見える。手短に言うと、クラインには「無意識」への信念が強く表れており、アナ・フロイトは非常に現実的である。ベルリン時代の経験に基づいて、クラインはアナ・フロイトとの違いを端的にこう述べている。「アナ・フロイトは、まさに子供の母親に対する憎しみを分析しなければならなかったところで、すなわちエディプス状況全体をまず解明することをまさに意味したところで、分析を終わりにして、それを更に進めることを止めたのである」。だから、後年になって、二つのどちらかは精神分析ではないのではないか、と大論争が再び起こったのは、必然的でもあった。

シャーウィン=ホワイトは、アナ・フロイトと異なる彼女の主張がどのような臨床経験に基づいているのかを、主に『児童の精神分析』(1932)の症例を用いて述べている。クラインが子供たちの”精神分析”からの逸脱に、どう対処していったかを見ることができる。
彼女が引用しているクライン(PP/KLE/C.49)の事例は、「ジョンと呼ぶことにしよう」とされているが12歳で、「知性の制止についての理論的寄与」(1931)に登場する7歳のジョンとは別人と思われる。年齢的には、5年後の1936年にチェルトナムでのカンファレンスで発表されたので、数字は合うが、12歳のジョンは、セッションに花火を持ち込んだりクラインにヨーヨーを投げつけたりと行為優位であり、その性格的な問題も記されている。早期に母親を亡くしていることが少なからず彼の問題に寄与していることに、クラインも同意しているが、良い対象がどう現れてジョンが関わりを保つことができるのかどうかに、関心を向けている。

1987年のアナ・フロイト・センターの会誌に掲載されたトマス・フリーマンの論評「メラニー・クラインの発達概念の臨床基盤について」は、今から見ると古色蒼然としている。彼が「臨床基盤」と言うとき、症状や記述的な特徴を指している。「部分対象」に関する議論でも、クライン派ではそれが(無意識的な)空想に関わる限りでの話であることが、留意されていないようである。逆に、躁病とも鬱病とも一対一の対応はないのに、「躁的防衛」「抑鬱ポジション」と命名したので、こうした批判も生まれたのだろう。提唱当時は、それがあると思っていたからそうしたのだろうが・・アナ・フロイト(1895年12月3日 - 1982年10月9日)存命時代のクライン派についての理解は、こうしたものだったのだろう。
クライン派とは関係のないことだが、この時期、マッソン編の完全版フリース宛書簡集(1985)が既に刊行されていた。マッソンへの最近のインタビュー記事によれば、アナ・フロイトが検閲除外していた163通の書簡とそれらについての解釈を発表した結果、アナ・フロイトもアメリカ中の分析者も動揺したという(https://news.isst-d.org/an-interview-with-jeffrey-masson-part-2-writing-the-assault-on-truth/)。大半の分析者が性的虐待の存在を認めていなかった中で、グリーンソンは、マリリン・モンローに申し訳ないことをしたと述べたという。病因としての性的虐待を巡って、アメリカでは騒然としていたが、イギリスではそこまでではなかったかもしれない。
フリーマンに戻ると、共著『慢性分裂症』(医学書院、1968。原著は1958年刊)(http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/203975.html)から、日本ではおそらく、彼は精神科医として精神医療の中で、古典的なフロイト派の枠組みを用いて精神病を理解し治療しようとしてきたことで知られている。これはグラスゴー時代の仕事のようで、その後彼は、ロイヤルダンディーリフ病院に移るとともにハムステッド・クリニックのコンサルタントとして、アナ・フロイトが開発した発達図式を、成人精神病患者向けに発展させた。また彼は1968年以降、北アイルランド唯一の分析者として、精神分析的心理療法の訓練を立ち上げた(クリフォード・ヨークの追悼文より:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1123403/bin/bmj_324_7351_1458_a_index.html)。
彼はBut Facts Exist: An Enquiry into Psychoanalytic Theorizing (Karnac, 1998)でも、クラインおよびフェアベーンに対して同様の批判をしているが、そもそもの彼の主張は、フロイト自身の構造論的な改訂が不要だったというものである。

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