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Herbert Rosenfeld(1910-1986)の生涯と活動――あるいは転向

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International Forum of Psychoanalysisでの特集
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Frank, C. (2016). Herbert Rosenfeld in Germany: On the seductive/corruptive effect of idealizing destructive elements then and now. Int. Forum Psychoanal., 25(4):229-240
De Masi, F. (2016). Herbert Rosenfeld in Italy, 1978–1985. Int. Forum Psychoanal., 25(4):241-248
Borgogno, F. (2016). Narcissism, psychic recognition, and affective validation: A homage to the “later Rosenfeld”. Int. Forum Psychoanal., 25(4):249-256

はじめに
ローゼンフェルトは1986年に、脳卒中のために分析者としてはまだ若い76歳で亡くなった。晩年の彼に関しては、イギリス国内のクライン派では批判的な評価があり、筆者も直接ジョン・スタイナーが語るのを聞いたことがある。彼は患者の側に立って理解しようとするあまり、それに至らない若手の治療者をnaggingした、病理があるのは患者なのに、と。これは内輪での話ではなく、『新・クライン派事典』のハーバート・ローゼンフェルトの項にもはっきりと書かれている。ジョン・スタイナー(1989)による彼の業績の総括では、1971年の「破壊的自己愛」論文がローゼンフェルトの頂点とされており、彼は訓練上の問題に触れる代わりに、「もしもわれわれがバランスを保ち、患者のより深いニーズに触れていたいのであれば、患者の素材に現れる陽性の転移と陰性の転移の両方を取り上げなければならない。ローゼンフェルトと私を含む一部の同僚との間に意見の相違が生じたのは、このバランスの問題に関してである」と指摘して、患者による治療者の理想化を十分に取り上げないことを問題視している。
リカルド・スタイナー(2001)”Herbert Rosenfeld at work. The Italian seminars”(『イタリア・セミナー』)への英語版「序文」ではっきりと、後期のローゼンフェルトに対して反対意見を述べている。「私は個人的には、イタリアの同僚によるローゼンフェルトの熱意enthusiasmに関する表明には、必ずしも同意していない。彼の熱意は、時には、特に彼の人生の晩年には、患者の何人かの扱いに関して、本当にかなり行き過ぎで楽観的すぎることがあった。私はまた、ローゼンフェルトの最晩年の、患者による治療者としての彼の理想化を尊重することの必要性に関する見解にも、かなり疑問をはっきりと感じている。時には、私には彼の見解が行き過ぎに見える――確かにメラニー・クラインは、赤ん坊が母親の乳房を理想化する必要性の重要性を、或る程度まで強調してはいたが。ここイギリスの他の多くの人たちと同じく、私もまた、ローゼンフェルトが行なった『リビドー的な防衛的ナルシシズム』と彼が「破壊的ナルシシズム」と呼んだものの区別に関しも、少し保留がある。結局のところ、どちらのナルシシズムも防衛的であると言えるし、時には、『リビドー的な防衛的ナルシシズム』の背後にあるものは非常に扱いにくいものでありうる。なぜなら、リビドー的なナルシシズムの場合でさえ、羨望の存在を決して排除できないからである」。2008年には”Rosenfeld in Retrospect: Essays on His Clinical Influence"(『ローゼンフェルト回顧:彼の臨床的影響についての論集』)が出版され、彼の論文も四本選出されているが、いずれも1971年までのものである。
また、ローゼンフェルトは70歳を過ぎてから幾つもの大病をしたにもかかわらず精力的に活動を続け、遂に回復不能に倒れて、混乱を招いたようにも聞いたことがある。その一部には、訓練を引き受け過ぎた(さまざまな意味で・・)ことも言われていた。
それを遡れば、イギリスでの彼の立場からナチスの迫害と亡命経験、更には彼の生い立ちにまで源が求められるだろうか。そのようなこともありうるだろうが、彼の経験の最大の源は、患者たちとの関わりである。リカルド・スタイナー(1986)は追悼文で、「ローゼンフェルト博士は多くの未発表論文や草稿を残しており、私たちは遺作の『論文集』を出版したいと考えている」と書いたが、実現されていない。ただ、未発表論文や草稿は、アーカイヴが公開されない限り、見ることはできないが、刊行されていても単著の二冊に入っていないものは、確認することができる。また、各地のセミナーからの報告もある。ロンドン・クライン派の外からは、ローゼンフェルトはどのように映るのだろうか。

イタリアから・ドイツから
後期のローゼンフェルトについて、彼のイタリアでのグループスーパーヴィジョンに参加していたボルゴーニョ(2016)は、彼がその特質を発揮しているさまを報告している。その日に提出された患者は、重度の自己愛と精神病的な特徴を持っており、真面目で鈍く不器用で型に嵌まっていて、いかにも障害者だった。患者はセッションの冒頭で、バスと地下鉄を乗り継いでやってきた道程での経験を話した。乗客たちはみな彼に嫌な顔をし、彼のゆっくりとした硬い話し方や姿勢を揶揄する者もいて、まるで彼を陥れようとしているかのようだった。
「ローゼンフェルトは、この『勇敢な』分析者――彼がそう定義したのは、これほど困難で混沌とした素材を彼に提出することを選んだからである――に、患者が犠牲者となっている『筋書き』についてもっと詳しく説明するように、患者に頼んだかどうかを尋ねた。彼は、自分ならばそうしただろう、なぜなら彼は、患者の観点と経験には深い意義があると感じるからであり、また、早朝のラッシュアワーで人々が急いでいるときには、他の人の不活発さや遅さに対する思いやりを欠くことがあり、結果としてその人が邪魔になりそうな時には、からかったり酷い扱いをしたりすることがあることを理解するのに必要な道具を、患者に提供していただろうからである。ローゼンフェルトならば同時に、それに続く患者の家族やずっと年上の兄たちについての発言を取り上げて、バスの中での出来事と患者が引き合いに出した過去の記憶との間に類似性があることを認識し、いかに患者の情動反応が理解可能であるかを強調していたことだろう。その時患者は、既に働きに出ていて親から敏腕で有能だと見做されていたや姉と比較されて、自分が『愚かな末っ子で、役に立つどころか邪魔者』だと改めて感じている。この時点で彼は、こう付け加えた。『患者が示していることは自然です。彼の病理は疑いなく一因となる因子ですが、この反応は彼の個人史と、彼を取り巻く世界の現実的でありふれた日常的な残酷さにも関係しています。そこでは誰もが自分の目的地に注意を集中させており、他の人たちの特定の欠損やニーズのための時間はありません。特に、そのような特定の欠損やニーズを持つ他人が異邦人であれば、なおさらです』」。
このような患者に集中した同一化による共感的な理解はローゼンフェルトに特徴的で、それは彼の精神分析の訓練以前から一貫していると思われる。彼は、患者が夢を語るとまず当人に自分の言葉で自分や自分の人生との結びつきを述べてもらい、彼はその登場人物を劇的に演じて、聞き手に「想像の中で身を浸す」ように促したという。
患者の中に身を浸すこの治療者の作業は、ビオンが言う「夢想reverie」に近いだろうか。ビオンは、患者が対象=治療者に投影同一化してそこに「滞在sojourn」するのを許容することを、「包容containing」と呼んだ。「滞在」するのは、理想的には、健全な内的対象との協働による思考の自由と表現の自由が保障されている場である。しかし持続的な実現の困難さから、それはユートピアの相を帯びる。ローゼンフェルトは、そこにドラマ化を加えて、患者の世界の諸側面の表出を助けているように見える。グロットスタイン編集のビオン追悼論文集に寄稿したローゼンフェルト(1981)は、ビオンの精神病論に異論なく同意しているが、持ち味はかなり異なる。
ところで、おそらくこのスーパーヴィジョン・グループの参加者たちの中には、面接報告を聞いて患者の様子を思い浮かべ、むしろ乗客と同じ心境になった者もいたことだろう。それが投影同一化の集団への威力である。セラピストが通行客と同じ反応をしていてはセラピストとして機能していることにならないが、患者への共感のあまり、逆の半面を軽視したら、なぜ変わりにくいのかを理解し難いことになるだろう。そこにはセラピストとの魔術的な一体感のリスクさえあるかもしれない。もっとも、それは治療の一時期に不可欠なものかもしれない。
クロ―ディア・フランク(2016)は、ドイツにおけるローゼンフェルト受容の調査と訓練生時代の経験を報告している。これはナチスについての総括抜きに論じられない複雑な問題であり、別の機会に触れることにする。

デ・マッシ(2016)による紹介
ローゼンフェルトのイタリアでのセミナーは、デ・マッシによって『イタリア・セミナー』として纏められている。彼は後期ローゼンフェルトの独創性を高く評価して、彼の熱意は楽天主義ではなかったと反駁している。この論文でマッシは、自分が編集した本からローゼンフェルトの発言を、幾つかの見出しとともに引用しているので、その箇所をそのまま紹介することにする。前期のローゼンフェルトへの評価は共通である。彼は「メラニー・クラインの熱烈で献身的な信奉者」であり、「彼女の理論的概念を自分の臨床実践に極めて首尾一貫して適用」した。精神病状態の精神分析治療・投影同一化の諸使用・破壊的ナルシシズムなどの研究の意義については、衆目の一致するところである。それらの病理の破壊性は、生の欲動を上回る死の本能の力に由来するとされていた。
しかし、1978年論文『ある種の境界例患者たちの精神病理と精神分析的治療についての覚書』で、ローゼンフェルトは臨床的・理論的見解を改めて、早期の二者関係における外傷の重要性を強調し始める。境界例患者たちの中には、絶滅不安に対する「共感的母性的反応」を得られなかった、早期の外傷の影響の強い者がいる。その混乱した不安や病的分裂の過程を破壊的ナルシシズムとして解釈すると、過酷な超自我の存在によって、転移精神病を招きうる。「これ以降ローゼンフェルトは転移精神病を、あるいはそれほど重症ではない患者では行き詰まりや陰性治療反応を、患者の攻撃性の結果ではなく、分析者によるコミュニケーションにおける反復的かつ系統的な誤解の結果とみなしている」。
イタリアでローゼンフェルトが強調したのは、分析者が患者の過去について、患者がどう葛藤を扱ってきたか、根本的な関係を与えられなかったかについて、仮説を持たなければならないということである。「ローゼンフェルトは、過去がどのように影響を及ぼし続けているかを念頭に置かなければ、『今ここで』を理解することができないことがある、と強く主張した。過去についての仮説は、行き詰まりが生じる際に、その性質を理解することを助ける」。
ここで赤ん坊の不安に対する母親の機能を重視することになるのは、当然の成り行きだろう。しかしローゼンフェルトがビオンと異なるのは、彼がそのような発達の素地を分析的関係と呼んで、それを転移-逆転移の力動と区別したことである。この点の仕分け方が、おそらく彼が他のクライン派から離れていったところのように思われる。つまり一般論として、個人個人の空想の他に両者の関係性は存在するし、治療関係においても、治療者/分析者と患者/クライエントが相互に影響して、成長や発達と呼んでもよいことが起こりるのも、長期的には自然である。ただ、それを転移-逆転移の力動から独立させて理解しようとすると、「治療同盟」の議論に似てくるか、場合によっては、精神分析以前に戻ってしまう恐れがあるだろう。また、この「分析的関係」概念から出発して、治療の「行き詰まり」について考えるならば、母親の養育の限界に平行するものや、恒久的ダメージ・後遺症については考えないのか、疑問が湧く。
ともあれ、環境の重要性・患者の歴史の重要性・空想の使用と濫用・転移と分析関係という興味深い題を付けられて引用されている、ローゼンフェルトの発言を参照しよう。
・環境の重要性
「乳時期早期やそれ以降の、ある種の外傷的経験は、たびたび患者によって語られたり、分析の過程で明らかにされたりします。それらはしばしば、母親が生まれたばかりの子供と適切に関係を築くことに困難があることと関係しています。言い換えれば、「保ち」「包容する」母親の能力が著しく損なわれているか、全く欠けているのを見出す可能性があります。両親ともに問題を抱えていて、それを子供に押し付けているために、子供の本当の欲求に耳を傾け注意することができないこともあります。このような環境が及ぼす圧力があまりにも強く、子供は屈服してそれに完全に順応してしまうことがありますが、この過程をウィニコットは、「偽りの自己」と呼んでいます。ビオンは、思考し機能する正常な能力を発達させるために必要な過程――彼はこれを「アルファ機能」と呼んでいます――を叙述しています。彼は、生まれたばかりの赤ん坊が、自分では対処できない衝動や心的内容を母親に投影し排泄する様子を述べています。そして母親の直観的機能(ビオンはこれを夢想と呼んでいます)を通して、これらの理解できない衝動は、子供にとって理解可能なものになることができます――もしも子供が何らかの仕方で、自分が受け入れられており受け入れられる存在であると感じ始めるならば。この状況は、子供が安全でしっかり抱えられていると感じることができる、心的な空間を作り出します。この空間の取り入れによって、乳児が考えたり観察したり、その結果として自分の心的空間を構築したりし始めることができる、内的空間が作られます。子供は徐々に自分の良い衝動と悪い衝動を受け入れることを学ぶにつれて、内的・外的な葛藤に対処できる自己を発達させます。
発達に必要なこの空間が、もしも外的環境によって否定されると、生まれたばかりの赤ん坊やその後の子供の中に、激しく暴れ回る怒りを引き起こすことがありえます。それは子供が、自分の心の問題への解決の可能性がないまま、その心的内容を絶えず排泄するように強いられていると感じるからです」。
・患者の歴史の重要性
「何年も前には、私たちは概略の理解なしで、セッションの中に現れた素材がそれ自身の秩序で展開するのを許容するように、事例と作業をすることが時折あったものです。私たちは、何かが出てくることを期待して、素材から作業を始めたものでした。分析者の中には、これから会う患者に関する詳細なしで、分析を始める人さえいました。今回の事例で、日常生活の中で起こる出来事に大きく巻き込まれていて、すべてを過去のある出来事や状況と結びつける患者たちのいることが、はっきりと見られるかもしれません。彼らはかなり意識的に、自分がある状況で本当に苦しんだことを、分析者に心に留めてもらいたいと思っています・・・それはそれとして、作業が進むにつれて、患者の歴史についての考えをモデルとして背景に置いておくことは、有益であると思います。そして必要なときにはこのモデルを全く改訂する覚悟があるべきです。このモデルは、理解できない状況に直面し、何をすべきかわからない場合に非常に役立ちます。しばしばこのモデルは、患者が他の方法では伝えることができない状況の理解を提供します」。
「私が言いたいのは、私たちに考える時間が十分になく、患者が深刻な自殺の危機のような「どうしようもない」状況を提示してくる時に、危機的時期に反応して対処できるように、予備的なモデルを心に留めておくことが適切だということです。そのような場合、私たちは既に獲得している情報を活用しなければなりません。私たちが不安になるときに考えるのは大変であり、患者の歴史から活用する十分な要素を私たちが持っていなければ、危機を乗り越えるように導くことは困難です」。
・空想の使用と濫用
「重篤な症例の治療では、逆転移の建設的な利用に到達するために、いかにワークスルーするかが問題となります。これは、自分自身の情動生活をそれが現れるままに注意深く観察することです、患者の中で起こっていることを理解するのに役立つ内情を伝える要素を用いながら。それは、自分自身の内的共鳴を通してでなければ理解できなかったであろうものです。これは、非言語的な言葉を使って、投影同一化を多用する患者や、言葉よりも行為に近い傾向のある患者に当てはまります。最後に付け加えておきたいのは、分析者の空想は、実際に起こっていることとの関連でのみ有効に使えるということです。空想の使用は、実際に現れた何か、素材に含まれている何かと関連していなければなりません。空想は、閉塞に見えるもの、他の方法では解決できない閉塞を解明するために使われるべきです」。
「私が伝えようとしているのは、野放しの空想を使うべきではないという根本的な点です。私たちに必要なのは、データによって制御され実際の事実によって確認された空想です。私たちが自問すべき本質的な問いは、こうです:私がこの瞬間に考えていることは、この患者について知られているすべてのことと比較して、意味があるだろうか?もしもそれが他の要素と矛盾していなければ、それを使ってもいいでしょう。もしもそれが合わなかったり、盲点に基づいていたり、矛盾の上に成り立っていたりする場合は、使用してはなりません。実際、思考が特に深刻に混乱している患者を対象としたこの種の仕事では、空想と思考は、決して切り離されずに一体となって使用されなければなりません。空想は決して単独ではなく、常に思考と結び付いて使用されなければなりません」。
・転移と分析的関係
「もしも分析者がすべてを転移の中で解釈するならば、彼は患者を、彼との関係だけに還元してしまう。その結果、私たちは第一/主要対象との強い陽性・陰性の関係へと常に引き戻されることになります」。
「精神分析にはいくつかの規則があることを知っておくことはとても重要です。しかし、常識を用いなければなりません。常識を無視すれば、どんな感覚も捨ててしまうからです。もし分析者が間違いを犯したら、その間違いから学ばなければならないし、患者がある種の解釈を許容しないことを理解しなければならないし、その時には少し常識を働かせなければなりません......患者と同僚との関係を振り返ってみましょう(患者はこの女性との間の強い両価的な感情について語っていた)。もしも、そのような羨望と嫉妬を引き起こすことができるこの女性に対する、患者の独占欲ばかりでなく愛情や情愛の感情について詳しく立ち入るならば、分析的関係にはどのような害があるでしょうか。彼女がこの友人を嫌っていることばかりでなく、とても大切に思っていることも、明示されなければなりません。分析者の中には、このアプローチでは患者を包容することに失敗していると考える人がいるかもしれませんが、実際には、このアプローチは患者に、以前には耐えられないと感じられた感情について考える余地を提供します。この目標を達成すれば、特に境界例患者とでは、大きな成果を得ています」。
「私たちが、患者には他に何の結びつきがないかのように、分析者と患者の間の状況のみを見るのを止めるまで、ここに進歩はないでしょう」。

これらの意見表明は、どのような事例にも程度の違いを除けば当てはまる見識のようであり、役立てることができそうに見える。それでも、クライン派の立場の原則およびアプローチには合致しない、それに対する批判を含んでいる。クライン派からの彼に対する批判は、既に引用紹介したが、ローゼンフェルトの見解および態度に関わっている。だが、それは問題にしていることが一致した上での不一致なのだろうか。ローゼンフェルトは外傷を強調した。クライン派は、新旧『事典』でのその項目の欠如を見ても分かる通り、外傷を特に取り上げていない(精神分析的な外傷論で著名なキャロライン・ガーランドは、独立学派である)。
問題の在処は、大きく二つ考えられる。一つは治療者側つまりローゼンフェルトの態度の変容に、もう一つは患者側の精神病理にあるだろう。これまでのところ、前者がさまざまな意味で「行き過ぎ」となったのか、それとも後者が特別な対応を要するものなのか、が問われている。内在的破壊性か外傷由来か――前者を研究してきたローゼンフェルトは、1978年論文で、問題が後者にある一群がいる、と主張し始めた。デ・マッシはそれを引き継いで、このような患者のことだと書く――「非常に重症の患者たちは、乳児期の情動的外傷のために、自分自身および他者を理解する能力を発達できなかったことが多い。[・・・]彼らは、私たちが意識化を助ける必要のある、抑圧された耐え難い心的内容を持ってはいない。彼らは情動を理解するのに必要な道具を欠いているので、それらを経験したことがないのである」。こうした患者たちは、確かに存在するだろう。しかしそれは、何を根拠に「早期の外傷のため」と言えるのだろうか。ここで内在的な破壊性を言うのも、不適当かもしれない。どちらも、事実関係を辿り難いと言うより論理的な筋が通り難いという意味で、検証困難な仮説である。むしろ第三の道を考えた方が、より妥当ではないだろうか。外傷を強調すると同時に、”壊れたものには直る可能性がある”といった驚くべき推論をするなら、それは「行き過ぎ」である。
実際にローゼンフェルト(1978)の症例記述を、長くなるが引用して、検討材料を提供しておく。
最初にローゼンフェルトは、カーンバーグの境界パーソナリティ構造論を紹介して、「ほとんどの」論点に完全に同意すると言う。相違として彼が強調するのは、以下の点である。「混乱している不安と病理的な分裂過程によって支配されている境界例患者は、破壊的な自己愛患者からはっきりと区別されなければならない。なぜなら、たとえ夢の中でははっきりと露わになっていても、患者は破壊的な自己の解釈に直面することには耐えられないからである」。これは、自己-対象、良い-悪いなどの分裂が、一旦成立したけれども羨望などの力によって破壊されたのではなく、そうした分裂が成り立つ水準まで患者が発達していないことを意味する。あるいは、もっと別の発達経路を辿っていることを意味しうる。以下の記述には、極端な情緒的結びつき・偏った記憶・具象性・過敏性・・が見られないだろうか。だがパーソナリティ障害の特徴とその治療的展開に一致するところもあるようである。

「私がその患者に予備面接で会ったとき、私は彼には暖かいパーソナリティがあると感じ、私と良好な接触をした。早期に深刻なトラウマを抱えた私の患者のほとんどがスキゾイド的で引きこもっていたので、これは驚きだった。私は、彼のパーソナリティーの中の何らかの正常な構造が発達して、彼が生き延びるのを助けたに違いないと感じた。患者自身は最初の面接で私について理想化した像を描いたようで、それは治療を私が開始できるまでの非常に長い待ち時間に対処するのに役立った。分析は、患者がすぐに自分の非常に早期の不安状況ばかりでなく自分の防衛を私に投影することから始まった。後に彼は、最初のセッションで彼は母親を探している生まれたての赤ん坊のように感じたと話した。彼が最も望んでいたのは(私は後からしか気づかなかったが)、私が静かで落ち着いていることで、母親よりも私の方が彼によく対処できると安心できることだった。彼は最初の週末を迎える前にひどく怖く感じて、悪い結果になるとわかっているのに、自殺願望のある若い女性との関係に引き込まれるのを抑えられない、と訴えた。そのとき私は、彼が自分を小さくて無力だと感じているので、私は彼を週末に一人にするべきではないと感じていることを、私は分かっていると言ったが、彼が無力であるばかりでなく、待てずに自己破壊的感情に従わざるをえない怒った子供でもある、と付け加えた。患者はこの出来事において、私を非常に脅迫的な超自我として経験したが、私の方では、患者は自分の危険な行動化を防ぐために、私を保護的な超自我として必要としていると感じていた。分析を始めてから2年半後、それまで外見上は非常に友好的だった患者は、次第に敵対的で批判的になった。彼は私が過去に言ったこと、特に治療の最初の週に言ったことを攻撃したばかりでなく、私の声の調子や身体の動きを批判したが、それらは彼に、私の言葉よりも私自身についての情報を与えているようだった。彼は、私がよく声を荒げるので、彼はそれで恐ろしくなり、興奮して頭が働かなくなると言った。私の発言の多くは、文脈を無視して記憶され、引用で私に返されたが、それらはいつも私には非常に批判的に聞こえた。彼は私の言葉が、彼は悪くて受け入れ難くそれについてどうしようもないという声明として、経験されると感じた。この期間に患者の批判と非難は次第にもっと乱暴になり、彼は私が彼に批判的だと非難する一方で、私が口を開くとすぐに彼自身が激しく繰り返し批判するので、私は逆転移状況の中では、彼の容赦のない非難によって打ちのめされて、無力に憤怒している小さな子供のように感じた。数ヶ月間悪戦苦闘した末、彼が2週間のうちには辞めると決めたとき、われわれは分析の行き詰まりに行き着いた。そこで私は、患者に着席するように頼み、彼が私に対して感じているあらゆる批判と恨みをすべて洗い出すように促した。彼はまだ批判的で不機嫌だったが、分析中にわれわれが経験してきた問題の多くを私に説明した。このような説明的な審議の間、私は何の解釈もせず、完全に受容的で共感的で傾聴的な態度を彼にとった。私はまた、可能な限り自分の逆転移を吟味した。というのも彼は、私の中の何らかの緊張が彼を掻き乱す、と絶えず訴えたからである。私は、自分が失敗にそれほど掻き乱されていないが、彼が期待していたものを私から受け取ることができないでいた患者に罪悪感と申し訳なさを感じていることに気づいた。私は、別れは辛いだろうと感じていたが、彼が去ることになっている前の最後の日に、彼は私との治療に残るつもりだと言い、とても気持ちの良い暖かい笑顔が、彼の不機嫌な顔を一変させた。この経験から私には、患者は自分自身の感情と衝動ばかりでなく、彼を抱えることができなかった母親の知覚と内的イメージを私の中に投影し、それが私を彼の厳しい超自我に変えたのだと思われた。患者は私に、拒絶的で批判的な母親ではなく、共感的で包容的な母親になってほしいと絶えず頼んでいたが、私は彼が、私は彼の母親に似ているけれども同一ではないと確信していることを、疑っていなかった。この患者の態度は、私がこの論文の冒頭で引用した転移精神病の間の患者についての、カーンバーグの記述と同じだった。しかしながら当時の私は、患者の連想や報告の中には、私を刺激して患者が後で拒否するような解釈をさせるような特徴もあると感じていた。私がただ仮定できたのは、患者は私および私の解釈に惹かれて興奮し、それによって私との投影同一化に引き込まれたが、その直後、私が話し続けるとき、彼は批判され私の心から追い出されたと感じるということだった。加えて、彼のコミュニケーションには混乱を招く要素が常にあった。 例えば、患者が羨望による破壊的な攻撃を私の心に加えていて、それがコミュニケーションの投影的過程や、彼を理解して「抱える」私の能力を妨げているのか、それとも、私が彼の不安を解釈して処理するのに失敗したのかを区別することは、困難だった。彼はまだ、私が彼の抱えられたいように「抱えていない」ことに苦情を言うことがあり、私は自分が理解していない要因があり、それが時折私が彼を拒絶しているという感覚を生み出していると感じた。転移精神病後の2年間、患者は非常に協力的だった。彼は前より強くなったように見え、分析をより居心地よく感じていた。彼は非常に制限された環境で生活していたので、より良い生活条件を手に入れることで自分の人生を広げようと決意した。そうすると、彼は将来の飢餓に脅かされているかのような徐々に不安を感じるようになった。彼はまた、罪悪感によって内面を攻撃されているように感じ、それが彼を混乱させ、何のことでも決断するのを妨げた。なぜなら彼は、自分のどんな決断のことも、批判し疑問視したからだった。その後彼は、一連の夢を見て、自分が助けを求めていると感じた。そして彼は再び私にひどく失望させられたと感じ、私が彼を見捨てたと判断した。夢の一つの中では、4人の盗賊が捕まって地面に倒れており、数人の警官が銃で彼らを押さえつけていた。患者自身が彼らにつばを吐きかけたが、彼らは「殺したことは否定しないが、飢えていたので殺さざるをえなかったのだ」と言って弁明しようとした。私が患者に、盗賊や唾を吐いたことについて質問すると、彼は、私が山賊を憎んでいるから唾を吐いただけだと言った。彼は、彼らは私が信じたいほど悪い人たちではないと強調し、彼のことを助けを求めて無力な怒りの中で絶叫している、怒った泣いている赤ん坊としてではなく、山賊としてしか見ない私の暴力的な攻撃には耐えられなかった。彼は、私が何かを話す自体が、単に厳しい批判と感じられ、これには耐えられない、殺される、と訴えた。後になって彼は、これらの夢全部の中には私が見落としていた肯定的/陽性の要素があり、私がその肯定的な部分を解釈しなかったので、彼が考えられないときや、私の考え方を力尽くで変えたいと思う激しく断固とした憤怒状態になっていると感じるときに、彼の頭の中に恐ろしい感情が作り出された、と言った。彼が超自我の位置にいたとき、彼は私が彼のパーソナリティの肯定的部分を解釈していることに気づかなかった。彼は、彼のしたいことすべてに私が批判的だと主張した。言い換えれば、原始的で矛盾した超自我が彼によって引き継がれ、急速に私に再び投影されたのだった。ごく短い期間、患者と私がサドマゾヒスティックな関係にあり、主として私が犠牲者である関係に陥っているように見えたとき、また別の転移精神病が発展した。彼は、状況が絶望的であると判断し、私の彼との関係には何も肯定的なものを見出せないので、辞めたいと考えた。今回の転移の精神病的な再燃は、それほど長く続かなかった。私は、パーソナリティのどんな成長も妨げ、混乱を生む攻撃を自己に向ける、原始的で混乱した矛盾する超自我の意義を、徐々にもっと知るようになっていた。そこでは自己の良い部分と悪い部分が混同され、悪い自己へと変えられている。転移関係におけるこの過程の経験は、私と患者が膠着状態からより容易に抜け出す助けとなるようだった。徐々に、患者は私が、彼は常にひどく悪くて攻撃的だと思っていると確信しており、何であれ私の間違いは、私が彼のパーソナリティを彼に不利なように歪めているという彼の確信を強めることが、明らかになった。それから彼は、思考が完全に途絶したように感じて、考えられなかった。だがその下で彼は、圧倒する憤怒と、私が彼に押し付けている自分の悪い部分に反抗したいという強烈な欲望を経験した。彼は次第に、幼少期の母親との経験やその後の寄宿学校での経験が、彼は自分を愛する力のある人間でありたかったのに、彼をそうではない人間に変えてしまったことに、これまでの人生でどれほどの怒りと憤りを感じていたかを、はっきりと表現した。これらのことはすべて、主に転移-逆転移状況の中で明確にされなければならなかった。彼は特に、私が彼を欲求不満にさせたり、彼を理解しなかったりしたときに、彼が私に怒るのは当然だということを、私が受け入れることを必要とした」。

晩年のローゼンフェルトに対する批判には、彼が外傷問題に向かい続けて万能的になったのではないかという含みがある。フェレンツィに向けられたような批判が向けらた彼が、30年後のInternational Forum of Psychoanalysisによる特集――ということは、まだかなり遠巻きだということだが――では、フェレンツィのように評価されている。30年も経つと、そこにあったかもしれない個人的因子も蒸留されて、評価されるべきところが精製されるのだろうか。問題はまだ混沌としており、区別されるべきことが区別のないまま論じられている印象が残っている。

彼の個人史については、それを知ることにどのような積極的な意義があるのかは分からないけれども、ほとんど本人が公表していることばかりなので、セイヤーズの整理に従って簡単に紹介する(一部は素訳)。

ニュルンベルクからロンドンへ
ハーバート
(写真左端奥)は1910年7月2日に、ドイツのニュルンベルクで、同胞四名の第二子長男として生まれた。二歳上に姉エーディットEdith(写真右端)、四歳下に妹マリオンMarion、八歳下に妹インゲInge(写真左手前の二人)がいる。彼の長女アンゲラAngelaによれば、ローゼンフェルト家は1560年にまで遡られるという。祖先には軍人・ユダヤ教学者がいる。父親アーサーArthurは、第一次世界大戦で高位の叙勲を受けていたが、ホップの取引を営んで成功していた。母親リリーLiliは夫の十二歳年下で、孫たちにとても思いやりのある人として記憶されている。母親は神秘主義を好み、子どもたちが小さい頃には、ヨハネス・ミュラーJohannes Müllerの考えに惹かれていたという。
他方彼は、神秘主義に疑いの目を向け、人生へのより外向的で科学的な態度を好んだ。(では、彼は母親のことをどう思っていたのか?距離を置くために科学を必要としたのか?後年の患者への同一化は、病的に扱わずに特殊な信念として理解しようとしたことに由来するのか?――などなど、推測の余地はある)
彼は、お祭りで出会う異邦人やよそ者と話すのが好きだと家族から言われ、家業よりも心理学に関心を向けた。セイヤーズは、彼が父親の支持を受けてミュンヘン大の医学課程に進んだと書いているが、その点を長女は、「父親は落胆した」と訂正し、それが二人の関係にどう影響したかは分からないけれども「父はこの決断を成功させることができるのを証明するために、特別に激しく働かなければならないと感じた」と記して、彼の過労傾向の一つの由来を示唆している。
彼は後に回想して、大学での心理学には、外向的な行動に焦点を置いていて内側で起きていることを無視しているので失望した、と言う。また、精神医学の反フロイト派でクレペリン流のアプローチにも失望した。(セイヤーズは、彼がフロイトに対しても、分析者への性的感情を性急に解釈することには反対したと加えた。これはミュンヘン時代に実践して患者を悪化させた、彼の失敗経験に基づいているという。)
1933年にヒトラーが権力を掌握し、ユダヤ人は多くの専門職から締め出された。ユダヤ人である彼は、臨床実践を行なうことが許されなかったが、ミュンヘンの近くで小さな個人病院を経営していた教授の一人ベンジャミンの援助で研究と仕事を続け、1934年に卒業、1935年には「幼少期の多数の欠神発作について」で医学博士号を授与された。
だが臨床の場はいよいよなくなり、反ユダヤ主義の中で彼はドイツを離れてイギリスに移住する決断をする(セイヤーズでは1935年、長女によれば1936年)。彼は一年かけてイギリスでの医師資格を取り直したが、外国人医師は有経験者か専門医でない限り、英国内では就労できないという規制によって阻まれ、滞在許可が取り消されて、オーストラリアかインドでの仕事を提示された。しかし調べてみると、タヴィストック・クリニックでサイコセラピストの訓練を受ければ滞在できることが分かり、彼は直ちに応募した。
『行き詰まりと解釈』では個人的事情に触れていないが、当時彼は、将来の妻である19歳のロッティLottie Kupferと出会っていていた。彼女はフランクフルト出身で、音楽家志望だったが、両親はロンドンに移住し、彼女自身ハムステッドの学校を卒業して理学療法士として訓練を受けていた。ローゼンフェルトの両親も家業を売却してロンドンに移住してきたという。しかし彼の姉妹たちは1938年までニュルンベルクに残っていて、脱出したのは国境閉鎖の三日前だったという。また、エーディットはスイスへ、マリオンはアメリカへ、インゲはスウェーデンへ、と家族は離散し、再びともに過ごすことはなかったという。長女は、この外傷的で破滅的な経験が語られるのを聞かなかったが、両親はそれを分かち合っていただろう、と推測している。

精神療法の訓練と精神病患者
ローゼンフェルトは受理され、1937年秋からの2年間の訓練コースが始まるまでの間、オックスフォード近くの精神科病院で代診医として働いた。「私は患者総数の半分、350人を担当しなければならなかった。そこではわずか3人の医師、病院を運営し管理する院長と先輩医師と私で、約700名の患者を診ていた」。先輩医師は彼に、ほとんど仕事はない、たまに新入院患者を診る以外は午前中に回診して1時間半働けば、後は好きにしていればよい、と説明した。
ローゼンフェルトは、新患の中から精神療法に適しているかもしれない患者を探す決心をして、緊張型統合失調症と診断されたエドガーを選んだ。「彼には緊張病性興奮の激しい発作が4週に1度あり、それはいつも1週間続いた。この 患者エドガーは1年以上入院していて、スタッフは彼が非協力的でどんな病棟仕事もせず、時には暴力的であると訴えていた。しかしながら、彼は私にはとても友好的なようだった。私は院長に、私がエドガーに何らかの単純な心理療法をしてもいいかと聞いてみた。それと同時に、もしも改善が見られたならば、そのような結果が心理療法によって得られたことに同意するかどうかを尋ねた。英国では、心理療法にはっきりと分かる効果があると考える人はほとんどおらず、そのため、どんな改善も『寛解』と呼ばれていた」(p5)。(『行き詰まりと解釈』では、彼がエドガーの混乱を性的感情への無知に由来すると判断して、その理解を伝えたことで、エドガーの周期的な興奮は次第に収まっていった、と述べられている。事態がそうなったという説明への疑いはないが、この記述は、同書が不十分な推敲/編集で出版されたことを示唆しているように見える。新患の中から探すと書いた同じ段落で、1年以上入院しているエドガーを選んだと続けるのは、矛盾でないならば説明不足だろう。あるいは、記憶違い。いずれにせよ、周囲の無理解と精神療法の意義を対比的に強調する結果になっている。)
ローゼンフェルトは、続いて数ヶ月働いたモーズレー病院でも、同じような経験をした――精神病状態への精神療法の可能性と、それに対する精神療法の無理解である。 「私が観察した患者のエリザは、統合失調症の16歳の少女で、引きこもりが激しく、誰かと話すことも何かの活動に参加することも拒んだ。彼女は私に、自分には恐ろしいことが起きている世界の一部になることは不可能だと説明した。彼女は、自分が母親の身体の穴から生まれてきたことに、人生を受け入れられないと感じるほど嫌悪感を覚える、と言った。エリザは、病気が始まる直前にその事実を知り、そのことで母親に激しく反発するようになった、と言った。エリザは私には若い緊張病のエドガーに似た症例のように思われた。彼は、彼の性欲を話し合うという非常に単純な心理学的接近方法に反応していた。私はそれを、オックスフォード近くの病院で試みていた。だが残念ながら、私は彼女を治療することを許されなかった」。1982年に行なわれたグロスカス(1987)との対話では、彼はこの時期について何も触れておらず、タヴィストック・クリニックの訓練コース卒業後も、「全く何も知らずに働いていた」と述べている。ただ、それは「転移について何も知らなかった」という意味で、精神科医療一般に対する彼の評価と態度に、変動はないのかもしれない。
精神分析の本格的な訓練以前にローゼンフェルトが経験したもう一人の重要な患者は、エドワードである。エドワードは被害的妄想を患っていて、モーズレー病院時代には彼に関心を払わず、それほど改善した様子ではなかった。しかし、その後彼は父親に頼んでローゼンフェルトを探し、面接を依頼した。ローゼンフェルトは彼と週2回の面接をして話を聞き、象徴的な意味を説明した。「当時の私は転移分析について何も知らず、それを検討することは殆どなかっただろう」。「しかしながら、6ヶ月ほどすると」エドワードはきちんとした身なりで現れ、何年も働いていなかったが何かしたいと言い始め、彼の出身校である寮制の学校で働き始めさえした。しかしながら、その頃から彼はローゼンフェルトに会うのを嫌がるようになり、父親が彼の改善を報告するに留まったという。
ローゼンフェルトはこの経過を『行き詰まりと解釈』で総括して、精神病的過程、特に分裂機制がワークスルーされなかったために、治療者との関係は統合失調症を想起させるものとして分裂排除され、そこから援助を得ることができたものでもあることを患者は経験しなかった、としている。だからそれは転移性治癒だが、通常そのイメージが理想化を維持して悪い対象関係を否認して治療を終えることを指すのに対して、彼は良い対象関係が認められない方を取り上げている。
しかし、この精神分析以前の患者たちとの経験は、その後の彼にとっての基本を確立した。「私のエドガー、イライザ、エドワードとの経験はどれも、統合失調症患者の治療について――少なくとも彼らとコミュニケーションをとることについて、私を楽観的にさせた。そしてこのことは、私の職業選択に相当な影響を与えた。当時の私の接近方法は非常に単純だったが、それは私に、精神療法や精神分析の知識も、患者と治療者の間の転移関係を分析する知識もほとんどなかったからだった。しかしながら、当時私が行なっていたことの幾つかの特徴は、今も私の接近方法の中核として残っている。私はいつも、患者は何かを伝えようとしているという考えに安心感があるので、非常にオープンな態度をとるように心掛けて、それが患者が何かを伝えるのを助けることになるのを期待した。私はこれに、ほぼいつも成功し、長く緘黙の患者でさえ、しばしば私に口を開いた。また、私は共感的な態度をとるように努め、自分自身を可能な限り患者の心の状態に置こうとした」。
タヴィストック・クリニックでの訓練の前後に戻ると、『行き詰まりと解釈』の回想で彼が述べていることは、ほとんどが反面教師としてである。彼はベルリン出身の分析者から分析を受けていた。しかしその分析はエディプス葛藤や去勢葛藤に焦点が置かれ、転移が無視されている限りで、役に立たないと判明した。
強迫神経症と診断されていたトーマスは、ガス栓で危険なことを行なっている精神病的な患者と分かり、先輩医師たちはローゼンフェルトに治療を中断するように言った。ローゼンフェルトは患者に、精神科病院に行くように説得した。トーマスは入院したが、病院から、自分が良くなっておらず、見捨てられたと感じたことを書いた手紙を送ってきた。ローゼンフェルトは、統合失調症患者との治療を可能な限り続ける決意をしたという。
タヴィストックの訓練を終えた翌年、1941年2月25日に彼はロッティと結婚した。ロッティは当時、ポーラ・ハイマンの分析を受けていた。ローゼンフェルドはロッティから治療の話を聞いて、それが彼の求めているものだと感じた。彼は、疎開先からロンドンに戻って来るメラニー・クラインに問い合わせて、1942年5月に訓練分析を申し込み、7月から分析を開始した。
1943年1月27日には、第一子のロバートが生まれた。その1月、スーザン・アイザックスのスーパーヴィジョンの下で最初の訓練患者の分析を始め、それから2人目の訓練の患者であるミルドレッドMildredと会い始めた。次の、メラニー・クラインとの時代である。

付:ローゼンフェルト著作一覧
ローゼンフェルトの著作は、彼の二冊の単著にほぼ収録されている。特に、1964年までの論文は、『精神病状態』(1965)で読むことができる。Rosenfeld, H. (1965). Psychotic States. A Psychoanalytical Approach. 
1. Analysis of a Schizophrenic State with Depersonalization. Int. J. Psycho-Anal., 28:130-139, 1947.
2. Remarks on the Relation of Male Homosexuality to Paranoia, Paranoid Anxiety and Narcissism. Int. J. Psycho-Anal., 30:36-47, 1949.
3. Note on the Psychopathology of Confusional States in Chronic Schizophrenias. Int. J. Psycho-Anal., 31:132-137, 1950.
4. Notes on the Psycho-Analysis of the Super-Ego Conflict of an Acute Schizophrenic Patient. Int. J. Psycho-Anal., 33:111-131, 1952.
5. Transference-Phenomena and Transference-Analysis in an Acute Catatonic Schizophrenic Patient. Int. J. Psycho-Anal., 33:457-464, 1952.
6. Considerations Regarding the Psycho-Analytic Approach to Acute and Chronic Schizophrenia. Int. J. Psycho-Anal., 35:135-140, 1954.
7. On Drug Addiction. Int. J. Psycho-Anal., 41:467-475, 1960.
8. The Superego and the Ego-Ideal. Int. J. Psycho-Anal., 43:258-263, 1962.
9. Notes on the Psychopathology and Psycho-Analytic Treatment of Schizophrenia (1963) 出典不明
10. On the Psychopathology of Narcissism a Clinical Approach. Int. J. Psycho-Anal., 45:332-337, 1964.
11. The Psychopathology of Hypochondriasis (1964) 出典不明
12. An Investigation into the Need of Neurotic and Psychotic Patients to Act Out during Analysis (1964) 出典不明
13. The Psychopathology of Drug Addiction and Alcoholism: A Critical Review of the Psycho-Analytic Literature (1964) 出典不明

それぞれ、PS1(ミルドレッド)、PS2・PS3(40歳の芸術家、同性愛男性、セイヤーズはピーターと命名)、PS4・5(21歳男性、セイヤーズはデイヴィッドと命名)、PS6・12(アンネ、慢性統合失調症の女性患者)、PS11(ジョゼフ、心気症患者)といった症例の報告を含んでいる。

ローゼンフェルトの後期の論考は、『行き詰まりと解釈』にまとめられている。その各章は、付録を除くと80年代に入ってから書かれたように思われるが、その間の論文や発表も、以下のようにそれなりの数がある。発表はうつ病・躁うつ病・統合失調症の精神病理と精神分析治療から、投影同一化・自己愛・境界例患者についてと、主題と強調の移行がある。
1958 Rosenfeld, H. Some Observations on the Psychopathology of Hypochondriacal States. Int. J. Psycho-Anal., 39:121-124. (シンポジウム発表)
1959
Rosenfeld, H. An Investigation Into the Psycho-Analytic Theory of Depression. Int. J. Psycho-Anal., 40:105-129.
1963a Rosenfeld, H. Notes on the psychopathology and psychoanalytical treatment of depressive and manic-depressive patients. Psychiatric Research Reports of the American Psychiatric Association, November.
1963b Rosenfeld, H. Notes on the psychopathology and psychoanalytical treatment of schizophrenia. Psychiatric Research Reports of the American
Psychiatric Association, November.
1964a Rosenfeld, H. Object relationships of the acute schizophrenic patient in the transference situation. Psychiatric Research Reports of the American
Psychiatric Association, December.
1968 Rosenfeld, H. Notes on the negative therapeutic reaction. Paper read to the British Psycho-Analytical Society and to the Menninger Clinic, Topeka.
1970 Rosenfeld, H. On projective identification. Paper read to the British Psycho-Analytical Society.
1971a Rosenfeld, H. A Clinical Approach to the Psychoanalytic Theory of the Life and Death Instincts: An Investigation Into the Aggressive Aspects of Narcissism. Int. J. Psycho-Anal., 52:169-178.
1971b Rosenfeld, H. 'Contribution to the psychopathology of psychotic states: The importance of projective identification in the ego structure and the object relations of the psychotic patient', in P. Doucet and C. Laurin (eds.) Problems of Psychosis. Amsterdam: Excerpta Medica.
1972 Rosenfeld, H. A Critical Appreciation of James Strachey's Paper on the Nature of the Therapeutic Action of Psychoanalysis. Int. J. Psycho-Anal., 53:455-461.
1974 Rosenfeld, H. A Discussion of the Paper by Ralph R. Greenson on 'Transference: Freud or Klein'. Int. J. Psycho-Anal., 55:49-51. (討論)
1976 Rosenfeld, H. The Treatment of Psychotic States particularly Schizophrenia by Psychoanalysis in Schizophrenia Today (ed. by D. Kernali et al., the Pergamon Press.
1977 Rosenfeld, H. Personal experiences in treating psychotic patients. In Frank, K.A. (Ed.) The Human Dimension in Psychoanalytic Practice, Grune & Stratton.
1978 Rosenfeld, H. Notes on the Psychopathology and Psychoanalytic Treatment of Some Borderline Patients. Int. J. Psycho-Anal., 59:215-221. 
1978 Rosenfeld, H. Psychosomatic Symptoms and Latent Psychotic States, Ch 21, Yearbook of Psychoanalysis and Psychotherapy 1, p. 381-398
1981 Rosenfeld, H. On the Psychopathology and Treatment of Psychotic Patients (Historical and Comparative Reflections). In Grotstein, J. (Ed.) Do I Dare Disturb the Universe: A Memorial to W. R. Bion, Karnac Books.
1983 Rosenfeld, H. Primitive Object Relations and Mechanisms. Int. J. Psycho-Anal., 64:261-267.
1988 Rosenfeld, H.  On Masochism: A Theoretical and Clinical Approach, in R. A. Glick and D. I. Meyers (eds), Masochism: Current Psychoanalytic Perspectives, Hillsdale, London, Hove: The Analytic Press, 151-74.

『行き詰まりと解釈』(1987)は五部から構成されており、各部の副題に「分析者の寄与」「分析者の機能」「分析者の課題」と掲げられているように、そこには明らかな技法や態度の変化がある。
Rosenfeld, H. (1987). Impasse and Interpretation: Therapeutic and anti-therapeutic factors in the psychoanalytic treatment of psychotic, borderline, and neurotic patients.
Part One: Introduction
1. A Psychoanalytic Approach to the Treatment of Psychosis
Part Two: the Analyst's Contribution to Successful and Unsuccessful Treatment
2. Some Therapeutic and Anti-Therapeutic Factors in the Functioning of the Analyst
3. Breakdown of Communication between Patient and Analyst
Part Three: the Influence of Narcissism on the Analyst's Task
4. The Narcissistic Omnipotent Character Structure: A Case Of Chronic Hypochondriasis
5. Narcissistic Patients with Negative Therapeutic Reactions
6. Destructive Narcissism and the Death Instinct
7. The Problem of Impasse in Psychoanalytic Treatment
Part Four: The Influence of Projective Identification on the Analyst's Task
8. Projective Identification in Clinical Practice
9. Projective Identification and the Problem of Containment in a Borderline Psychotic Patient
10. Further Difficulties in Containing Projective Identification
11. Projective Identification and the Psychotic Transference in Schizophrenia
12. Projective Identification and Counter-Transference Difficulties in the Course of an Analysis with a Schizophrenic Patient
Part Five: Conclusion
13. Afterthought: Changing Theories and Changing Techniques in Psychoanalysis
Appendix on the Treatment of Psychotic States by Psychoanalysis – an Historical Approach (Rosenfeld, H. (1969). On the Treatment of Psychotic States by Psychoanalysis: An Historical Approach. Int. J. Psycho-Anal., 50:615-631.)

これら以外にも、PEPで何語かを問わずにRosenfeld, H.で検索すると、52本がヒットする(同姓同名は除く)。しかし独語版・伊語版・仏語版は同じ論文の翻訳のようであり、それらを除くと、下記のような書評・パネルディスカッションでのフロアからの発言・追悼文・IPAの活動報告などが残っている。
1948 Rosenfeld, H. The Objective Method of Dream Interpretation. By Satya-Nand, M.B., B.S., I.M.S. (rtd.), P.C.M.S. (Lahore: Northern India Printing and Publishing Co. Pp. iv + 251. No price given.). Int. J. Psycho-Anal., 29:256-257. (書評)
1949 Rosenfeld, H. Clinical Psychology: A Case Book of the Neuroses and their Treatment: By Charles Berg, M.D., D.P.M. (London: George Allen and Unwin Limited. Pp. xxxiv + 503. Price 25 s.). Int. J. Psycho-Anal., 30:62-64. (書評)
1957 Rosenfeld, H. Dr. Charles Anderson. Int. J. Psycho-Anal., 38:279-280.(追悼文)
1958 Rosenfeld, H. Contribution to the Discussion on Variations in Classical Technique. Int. J. Psycho-Anal., 39:238-239.(発言)
1958 Rosenfeld, H. Discussion on Ego Distortion. Int. J. Psycho-Anal., 39:274-275. (発言)
1959 Rosenfeld, H. Envy and Gratitude: A Study of Unconscious Forces: By Melanie Klein. (London: Tavistock Publications, 1957. Pp. 91. 12s. 6d. New York: Basic Books.). Int. J. Psycho-Anal., 40:64-66. (書評)
1960 Rosenfeld, H.A. Symposium on 'Depressive Illness'—Vi. a Note on the Precipitating Factor. Int. J. Psycho-Anal., 41:512-513.(シンポジウム発言)
1961 Rosenfeld, H. Ego Structure in Paranoid Schizophrenia. A New Method of Evaluating Projective Material: By Luise J. Zucker, Ph.D. (Oxford: Blackwell, 1958. Pp. 181. 42s.). Int. J. Psycho-Anal., 42:127.(書評)
1961 Rosenfeld, H. Schizophrenia. A Review of the Syndrome: Ed. by Leopold Bellak with the collaboration of Paul K. Benedict. (New York: Logos Press, 1958. Pp. 1010. $14.75.). Int. J. Psycho-Anal., 42:126-127.(書評)
1961 Bion, W.R. Rosenfeld, H. Segal, H. Melanie Klein. Int. J. Psycho-Anal., 42:4-8. (追悼文)
1962 Rosenfeld, H. Psychotherapy of the Psychoses: Edited by Arthur Burton. (New York: Basic Books, 1961. Pp. 376. $7.50.). Int. J. Psycho-Anal., 43:184-188.(書評)
1969 Rosenfeld, H. Psychotic Conflict and Reality: By Edith Jacobson. New York: Int. Univ. Press; London: Hogarth Press and Institute of Psycho-Analysis. 1967. Pp. 80.. Int. J. Psycho-Anal., 50:405-408. (書評)
1977 Rosenfeld, H. Clinical Essay Prize. Int. J. Psycho-Anal., 58:379-380.(報告)
1979 Rosenfeld, H. Clinical Essay Prize 1978. Int. J. Psycho-Anal., 60:266-266.(報告)






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