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「或るヒステリー患者の分析の断片」(ドーラ)を巡って

フロイト「或るヒステリー患者の分析の断片」(ドーラ)(SE Ⅶ, 1-122; 全6、1-160)
Balsam, R.H. (2015). Eyes, Ears, Lips, Fingertips, Secrets: Dora, Psychoanalysis, and the Body. Psychoanal. Rev., 102(1):33-58.
Civitarese, G. (2016). Dora: The Postscripts. The Italian Psychoanalytic
Annual, 10:79-95.

バルサムが引用するところによれば、1990年代には「ドーラ」を取り上げた論考は350本以上になったという。PEPの仕様が変わって、Who quoted this?がまだ見当たらないので、Doraを論文名に含むものを検索すると、86本(英語で絞ると63本)になる。これは多いのか少ないのか。それより、どのような主題と焦点の変遷があるのか。「ドーラ」症例は時代と文化の産物だが、その読解は、事象を特定の観点から抽出しているだけに理論による整理が入り、更に時代と文化の産物である。1960年代に5本、70年代には15本、80年代が14本、90年代に23本、2000年代で20本と、1970年代から増えていることが分かる。60年代の1本は、マーティらが心身症の観点からこの症例を論じている(よく見ると、60年代の5本には箱庭療法のDora M. Kalffが、70年代にはマーティらの同じ論文の独訳が入っており、この数値は見直さないと当てにならない)。
――問い合わせへの返事が来て、やはりWho quoted this?はアップデートの際に機能として残さなかったという。この件では希望が多いので、対応検討中だが代わりのやり方を教示された。それに従い、著者(S. Freud)と論文名(A Fragment of an Analysis of a Case of Hysteria)・キーワード(Doraを本文中どこでも)をReferencesにして英語限定で検索した(ここでタイトルにDoraと指定すると、先の63本は14本にまで絞り込まれる.今回読むものは、いずれもそこに含まれている)。すると294本となった。その内訳は、1960年代に7本、70年代に24本、80年代に39本、90年代に63本、2000年代に69本と、同じ時期からの、もっと大きな増加傾向が認められる。2010年代には93本を数えている。が、これもよく見ると、Glossaryが10以上入っていたり本文がスペイン語だったりと、うまく絞り込まれていない。「ドーラ」にどこまでどのように立ち入った論評をしているかは不明である。いずれにせよ1970年代から増加しており、これは精神分析の後退と多元化の始まり、すなわち一元論的な精神分析の退潮に一致している可能性がある。
特に確認抜きで思い返してみると、「ドーラ」症例は、発表時にはプライバシーの侵害と性的露出が非難されたのに対して、精神分析の隆盛期には、訓練の一例は女性のヒステリー、もう一例は男性の強迫という対の中で教本と化していた。フェミニズムによる外からの批判はともかく、精神分析の中からも疑問が出て、1980年代には盛んに、ドーラの思春期心性を理解していないとか、彼の知的野心が男性的だったとか、男性中心の大人の世界の共謀とか、家族力動と病理の観点がないとか、知人の身内の依頼を引き受けた出発点に無理があるとか、ドーラの治療を巡ってフロイトの理論と臨床のさまざまな問題点が挙げられるようになった。それはこの症例に限らず、フロイトの仕事全般に関して広がっていく。

それらの新たな理解にはどれも尤もなところがあるように感じられる一方で、似たようなことを言っている観がある。フロイトに批判を加えているが、その観点自体は、その時期によく言われていたことだからである。
その意味ではWomen's Bodies in Psychoanalysisの著者バルサムによる論考は、ドーラ論としてはepoch-makingだろう(精神分析における女性の身体という主題としては、著者の一貫した主張である)。
論文の前半は、1905年のフロイトが、男性の発達観と女性観が固まっていった後年のフロイトとどう違うのか、すぐに明言しないのが読み難く、後年に女性観が固定化してしまったというよりも、元々の考えがそういうふうに明確化したと見る方が、常識的に思われる。何か契機があったとすれば、娘アナ・フロイトの分析だろうか?バルサムが行なうのは、1905年版テクストを通じた分析である。それは、そこではドーラに「去勢された存在としての女性」ではなく、身体を通じて性的快楽を経験する女性が想定されていたが、その身体の主人は女性本人とされていなかった、という読みである。後者には、時代と文化において共有されていたものがあるだろう。
Mrs. Humphry(1904)の引用は唐突に見えるが、その確認の役を果たしている。著者は、そうした空気の中でフロイトがドーラの夢に解剖学を当て嵌めた態度を、「驚くほど優しくも端的で自由」としている。そこに、「正常な去勢コンプレックス」の探究や「ペニス=赤ん坊」といった予断は、確かに入っていない。ただ・・著者はフロイトがここでボッティチェリの絵『ヴィーナスの誕生』のイメージを喚起したことを、「女性的な美と性的魅力の、説得力があり真価を理解した象徴」としているが、男性によるこうした美化は、さまざまな時代と文化で現れる普遍的なもので、催眠術を出自とする精神分析による女性支配の傾向と、対をなしていないのだろうか?ついでに言えば、どちらも女性恐怖を隠している可能性のある・・
ドーラと彼女の母親」という章に至って、娘の発達に関するドーラに内在していた――これが従来、明示されてこなかったものなのだろうか――精神分析固有の主題が見えてくる。それは、「思春期後期の娘が内的な母親を探し求める」というものである。ドーラの秘密はK氏やフロイトへの性愛感情ではなく、そうした母親との深い情動的関係がなければ、性的成熟も危機に晒されるということだった。娘が父親の不倫に嫌悪を示すのは、それ自体プラス母親への侮蔑行為が危機をもたらすからだろう。フロイトもまた、「娘は通常、母親の恋愛物語を自分のモデルとする」ことは知っていた。
それがどこかへ行ってしまったのはどうしてか?バルサムは、男性の身体像が今でも滑稽なことを挙げていく。彼女が強調していない、従来から言われていることも、すべてが外れではないだろう。内的母親の拒絶がヒステリーの本質だとしたら、それはさまざまな経路から生じうる。それにしても、フロイトがこの母娘のつながりを保持しなかったのは、生家の家庭事情も無関係ではないかもしれない。彼の母親アマーリエが九十幾つかで亡くなったときに、既に七十代で、自分の人生がどれほど残っていた怪しい妹たちがいた。

チヴィタレーゼのドーラ論は、どことなく『アーカイヴの病』を想起させる書き方をしている。彼が実際に師事して用いているのは、ビオンの諸概念であり、「頂点vertex」はその一つである。論文の狙いは、フロイトの論文に対してありうる幾つかの「後記」を提起することにあるようである。その記述には、未来を指向するものを展開させるかなり高度に修辞的なところと、下世話なところ(「遂に俺はウィーン大学の員外教授になったぞ!」とか)が入り混じっている。


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