1920年代初頭のクライン:「子どもの発達 Ⅰ性的啓蒙と権威の弱まりが子どもの知的発達に及ぼす影響」(1923)+2章
メラニー・クライン(1923)「子どもの発達 Ⅰ性的啓蒙と権威の弱まりが子どもの知的発達に及ぼす影響」(平井正三訳)。Klein, M. (1923). The Development of a Child. In The Writings of Melanie Klein, Vol. 1, London: Hogarth Press, 1975, p. 1-25.
ミーラ・リカーマン『新釈 メラニー・クライン』第 2 章 「微妙な批判の兆しに気づく必要性」─フェレンツィ,フロイト,そして精神分析との出会い、岩崎学術出版社、2014。Likierman, M. (2001). 2. 'The necessity of noticing the delicate indications of criticism' -- Ferenczi, Freud and Klein's Encounter with Psychoanalysis. In Melanie Klein: Her Work in Context, pp.14-23, Continuum.
Sherwin-White, S. (2017). 2 Controversy and challenges in pioneering the analysis of very young children in the 1920s. In Melanie Klein Revisited, pp.21-38, Karnac Books.
メラニーは1882年3月30日生まれで、1903年3月31日にアーサー・クラインと結婚している(兄エマニュエルは前年12月1日に亡くなった)。翌1904年1月19日には長女メリッタ、1907年3月2日長男ハンスを出産したが、その妊娠期から鬱状態が強まり、子どもたちと離れて転地療養もした。1914年7月1日次男エーリヒが誕生。その頃から彼女は、フェレンツィの分析を受け始めた。1915年11月6日、母親リブッサが亡くなった。1916年、夫アーサーは足を負傷して戦地から戻った。第一次世界大戦は、1918年11月11日に終わりを迎える。その後、ハンガリーでは反ユダヤ主義が高まり、夫は1919年秋ブダペストを去ってスウェーデンへ、メラニーと3人の子供は、夫の両親が住むローゼンベルクへと向かった。
今回のクラインの論文は、彼女の最初の仕事として著作集に登場するが、二部立てになっていて、後半ではまた初めから同じような話を改めてしている印象がある。というのも、論文は実際には、二つの講演を束ねたものだからである。
IJPに掲載され、英語版著作集に収載されたKlein, M. (1923)は、独語発表のKlein, M. (1921). Eine Kinderentwicklung. Imago, 7(3):251-309.の英訳である。前半「Ⅰ性的啓蒙と権威の弱まりが子どもの知的発達に及ぼす影響」は、英訳(The influence of sexual enlightenment and relaxation of authority on the intellectual development of children)では1919年7月にハンガリー精神分析協会で、独語版(Sexualaufklärung und Autoritätsmilderung in ihrem Einfluß auf die intellektuelle Entwicklung des Kindes)では同じ時期にブダペスト精神分析協会で発表されたとされている。後半の「Ⅱ早期の分析 啓蒙への子どもの抵抗」は、英訳(Early Analysis The child's resistance to enlightenment.)でも独語版(Zur Frühanalyse. Der Widerstand der Kinder gegen die Aufklärung)でも、1921年2月にベルリン精神分析協会で発表されたものである。
ややこしくしている事情は、他にも幾つかある。
第一に、前半部は1919年の発表そのものではない。それに近いのは、1920年の”Aus dem infantilen Seelenleben. 1. Der Familienroman in statu nascendi.”である(noteの「メラニー・クラインの最初の論文:Aus dem infantilen Seelenleben. 1. Der Familienroman in statu nascendi.」を参照)。
第二に、後半部には、独語で同じ題名の論文がある:Klein, M. (1923). ZUR FRÜHANALYSE. Imago, 9(2):222-259. だが、これは発表の時期と場所が異なる。曰く、「この著作は、1922年9月にベルリンで開催された国際精神分析会議での講演『諸能力の発達と制止』と、同じく1922年3月にベルリン精神分析協会で発表された論文『幼児期の不安とその人格形成に対する意義』、また、1921年5月にベルリン協会で発表された『方向感覚の制止と発達について』に基づいている」。
このかなり長い独語版『早期の分析』(1923)は別物であり、英訳は"Love, Guilt and Reparation and Other Works 1921-1945"の第4章に収められている。メラニー・クライン著作集第1巻第4章がそれに対応している。そこに登場するのはほぼ7歳の「フリッツ」と13歳の少年フェリックスである。フリッツはもはや観察の対象ではなく、分析の患者である。議論は制止・昇華・抑圧・固着・・と、リビドー論の枠内で展開されている。それにしても、ブダペストにいた少年に引き続きベルリンでも会っているのは、本当にあればかなりの偶然だが・・
第三に、観察対象の偽装がこの論文から始まっている。「私の5歳になる息子エーリヒ」は、以後一貫してフリッツである。クラインは通常の母親とは異なる関わりをエーリヒに対して続け、それは観察的・教育的関与から、彼女が考える分析的な立場へと移行していく。ただ、それを実際に突き詰めていくと、自宅で自分の子供に会うといった設定は、放棄することになったのだろう。
第四に、偽装が維持され続けて、不自然なことになっている。クラインの記憶錯誤は、同じ論文で30年以上前の他の事例を回顧した際にも認められるが、彼女が「フリッツ」の「母親に提案した」とは、いかにも苦し紛れの説明だろう。そのように書かなくても済むところで、わざわざ他人だと明示するのは、どういう因果だろうか。
「私の最初の患者は、五歳の少年だった。私は彼を、最早期の論文では『フリッツ』という名前で呼んだ。はじめ私は、母親の態度に影響を与えれば十分だろうと考えた。私は母親に対して、子供が多くの話していなかった質問を、自由に母親と話し合うように子供を励ますべきだと提案した。そうした質問は、明らかに子供の心に隠れていて、その知的発達を妨げてきた。これには良い効果があったが、彼の神経症的な問題は十分に緩和されず、私が彼を精神分析するべきだと程なく判断された。分析をしていて、私はこれまでに確立されていた規則の幾つかから逸脱した。というのも、私は子供が私に提示する素材の中で、非常に切迫していると私が思ったものを解釈して、自分の関心が子供の不安とそれに対する防衛に集中していたからである。この新たな接近方法は、やがて私を深刻な問題に直面させた。私がこの最初の症例を分析している時に遭遇した不安は非常に強く、私は自分の解釈によって不安が解消されるのを何度も目撃したので、自分は正しい方向に進んでいるという確信に励まされていたが、明るみに出される新たな不安の強さに混乱させられることもあった。そのような或る時、私はカール・アブラハム博士に助言を求めた」(「精神分析的プレイ技法:その歴史と意義」(1955))。
リカーマン「微妙な批判の兆しに気づく必要性」─フェレンツィ,フロイト,そして精神分析との出会い」は、クラインの仕事を多軸的に検討している。その主軸の一つは、これまで必ずしも強調されてこなかったフェレンツィとの関係であり、もう一つは彼らの背後にあるフェレンツィとフロイトとの関係である。
その詳細は本文を読んでもらうとして、もう一つあるいは二つの軸があったはずだということがある。それは、クラインが自分の治療を求めてフェレンツィに辿り着いたということであり、今度は、発達の遅れている息子エーリヒへの懸念が、特にこの息子への観察と関与に結びついたのではないか、ということである。
エーリヒがほぼ言葉を発しなかった時期は、クラインの鬱状態そして母親喪失の時期と重なる。「彼は2歳になるまで話し始めず、3歳半過ぎまで、まとまって言い表すことができなかった」――これは、特性の表れだろうか、それとも、そうした環境が作用しているのだろうか。由来が何であれ、クラインは精神分析への探求精神からばかりでなく、息子に過度の抑圧や制止の影響を免れさせたい気持ちはなかっただろうか。
一方、クラインの書き方は、『性理論三編』の問題意識と『ハンス症例』のアプローチに寄っているように見える。
しかしながら、クライン(1920)でクラインが行なっていることは、子供の空想に寄り添いつつその疑問や不安に応えているのではなく、性的啓蒙という名の下に、子供の空想を否定してかかっているように見える。彼女は、例えば「悪魔」の存在という子供の空想に、それが存在しない合理的な説明を与える。「悪魔」も「コウノトリ」も、後の無意識的空想に通じる空想ではなく、白昼夢のような空想産物である。その下層にある無意識的空想に届く必要がある。1919年にクラインの発表を聞いたアントン・フォン・フロイントは、無意識を扱っていないという指摘をしたという。
それにしても空想という自分の住み処を否定されたエーリヒは、隣の家庭にそこの子として迎え入れてもらうくらいしかないのだろうか。
クライン(1923)では、彼女はこう書いている。
「彼は私の家の近所に住んでいる親類の息子であった。したがって、私はその子と,自由に一緒の時間を過ごす機会をもつことができた。さらに,彼の母親は私の勧めることには何でも従ったので,私はこの男の子の養育に大いに影響を与えることができた」。この隣の母親の服従性は、不気味なほどである。何かを思い出すとすれば、クライン自身の母親リブッサに対するクラインである。この一人二役は、クラインにとっては、祖母との(むしろ祖母である)時間なのかもしれない。
シャーウィン-ホワイト「1920年代における非常に幼い子どもたちの分析を切り拓いた際の論争と難題」(『メラニー・クラインの再検討』第2章(2017))は、はっきりとクラインその人と業績を擁護する立場から、グロスカスの伝記をなお否定し、1920年代にアナ・フロイトの間に以下いかに大きな問題があったかを述べている。或る意味でそれは、「大論争」へと発展せざるを得ないものを含んでいた。著者は、クラインの独創的な考えが排除されたことについて考えるように注意を促している。しかし今回読む分は、まだ事態がそこまで進んでいない。
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