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岐路にある精神分析 国際的視点1

3年1クールの精神分析臨床セミナー「基礎理論を学ぶ」https://kodomo-psychoanalysis-sg.com/seminar/y2023/1495/

も、2月11日が最終回となる。そこでは、「終結」とともに、21世紀の精神分析を主題としている。その由来は、Alessandra Lemma著Introduction to the Practice of Psychoanalytic Psychotherapyの第1章、「すばらしい新世界:21世紀にBrave New Worlds: A Psychoanalysis Fit for the Twenty-First Centuryである。21世紀も既に四分の一ほど経て、精神分析の課題とその傾向は見えてきているだろう。ではその対応も?
Lemmaは21世紀の精神分析を、どう見ているのだろうか。第1章の小見出しは、以下の通り。
では…それは有効か? 精神分析的心理療法の実証基盤の吟味
So…Does It Work? Examining the Evidence Base for Psychoanalytic Psychotherapy

何よりも、エビデンスが問題になる。当然、比較対象のCBTがあり、RCTを用いる必要があるという評価方法の問題がある。
応用された精神分析の成果:力動的対人関係療法(DIT)の発展
Applied Psychoanalytic Work: The Development of Dynamic Interpersonal Therapy (DIT)

それから応用である。言い換えれば、精神分析はそのままで使えるのか?これは、考えるまでもないかもしれない。
神経科学は精神分析と関係があるのか?
Is Neuroscience Relevant to Psychoanalysis?

そして科学的基盤である。Lemmaは単純な脳神経と心の力動の間の対応を考えていないが、無関係なはずはなく、続く章では実際に「記憶」の理解など、脳科学の知見が頻出する。
テクノカルチャーの時代における精神分析
Psychoanalysis in Times of Technoculture

最後に、21世紀を特徴づけるtechnocultureは、少し古い英和辞典には載っていない合成語である。インターネットそしてSNSの普及やAIの登場が、人の心とその理解にどう影響を及ぼしているか、といったことは、既にさまざまに論じられている。
これらは、Lemmaの言うBrave New Worlds、新しい世界のさまざまな側面あるいはさまざまな世界なのだろう。

ところで、『すばらしい新世界Brave New World』と言えばもちろん最終戦争後の管理社会を描いたハックスリーによるディストピア小説の題である。

このような未来は、精神分析にとって好環境とは言い難い。しかしLemmaの本に全体として、そうした逆説的なトーンはない。もはや現実である。ただ、一つの統一された世界でもない。

以上は序論であり、それらを多少詳しく辿ったとしても、2時間分の内容はない。また、環境や手段・媒体の変化のみを述べていて、肝心の心性の変化について触れていない点は、楽観的に見える。
同類の主題を扱った、さまざまな著者の寄稿からなる、PSYCHOANALYSIS AT THE CROSSROADSを資料として参照しよう。
以下は目次一覧である。

PART I 精神分析の技法と理論における基本とは何か What is basic in psychoanalytic technique and theory?
1 コーデリア・シュミット・ヘロー 眠れる美女を目覚めさせる
2 ステファノ・ボロニーニ 変化する世界における精神病理学の新たな形態:21世紀の精神分析への挑戦
3 デヴィッド・タケット 進む転回か、背く転回か?分析者の存在の中で喚起される耐え難い観念への抵抗が、精神分析作業の礎石でなければならない理由とその方法
4 サミュエル・ガーソン 関係的無意識:間主観性・第三者性・臨床過程における中核要素
5 フレッド・ブッシュ 精神分析の森をどう育てるか:今後の課題
6 レイチェル・ブラス 「それは精神分析ではない!」と断言すること:私たちの分野の限界を定義しようとする、政治的に正しくない行為の価値について
7 アーサー・レオノフ 精神分析とその未来:岐路に立つ運命
8 セシリオ・パニアグア 岐路に立つ技法
9 ハーヴィー・シュワルツ 傾聴する人たち
10 アラナー・ファーロング 岐路、クローバー型の陸橋、あるいは桛:いくつかの神経認知研究と無意識的な心の発達との間の関係
PART II  精神分析と社会問題 Psychoanalysis and social issues
11 ハリエット・ウルフ 差異:私たちの遺産と未来
12 ルーズベルト・カソーラ 確信、嘘、否認主義:精神分析的考察
13 デヴィッド・ベル まず害をなさないこと
14 ジョン・ミルズ 白人性、人種的レトリック、アイデンティティ政治、批判的人種理論:アメリカ精神分析における決定的瞬間
PART III  精神分析インスティチュートの役割 The role of psychoanalytic institutes
15 エリック・R・マーカス アメリカにおける分析者の養成とスーパーヴィジョン制度:現在の問題点
16 アラン・シュガーマン 精神分析教育はなぜこのような不和を引き起こすのか?
17 シュムエル・エーリッヒ 精神分析インスティチュートとその不満
18 アーベル・フェンスタイン ブエノスアイレスからの視点
PART IV  新たな方向性 New directions
9 ワーナー・ボーレバー 精神的主体としての自己:長い間無視されてきた概念の探求
20 ステファノ・ボロニーニ 夢に関するもう一つの視点:経験としての夢
21 ヴァージニア・ウンガ― 女性的なものと幼児的なものとの交錯

出版社のホームページに行くと、各章の要旨まで上がっている(Psychoanalysis at the Crossroads | An International Perspective | Fred (taylorfrancis.com)ただそれはあくまで要旨なので、細かい検討には不十分である。この中から幾つかのテクストの素訳を、資料として挙げておく。
最初は、ボロニーニがIPA会長時代(2015)にまとめたことの再掲である。

ステファノ・ボロニーニ 変化する世界における精神病理の新たな形態:21世紀の精神分析への挑戦

ボロニーニが各国を訪問調査して確認したのは、精神分析実践が衰退したのは、経済的な理由にのみよるのではない、ということである。
「私たちが生きている変化し続ける世界は、紛れもなく私たちの仕事に影響を及ぼしており、人間関係の領域に関する限り「人間は常に同じである」と断言することは不可能である、 と私は信じる。それは、大部分正しいかもしれないが、ある特定の側面においては、もはやそうではない。
実際、今日多くの患者が、はっきりと強く誰かに依存するという考えを拒絶している。
 複合的だが必ずしも神秘的ではない理由で、彼らは対象の存在と恒常性、その根本的な信頼性、結果としてそれに依存することに対して、根本的に不信を向け放棄する兆候を示していると思われる。
 主体を対象へとつなげる理想的な線において、備給の重心は今日の多くの事例で、優先的に暗黙のうちに主体自体に移動したままのようである。主体は、そのリビドー的・自己愛的な資本を、他者の手に委ねないように注意している。少なくとも他者が(時間とともに)不信と〈自己〉保護の障壁を克服するまでは、そうである。それらは早期に築かれたとわれわれは推定する。
 われわれが母と子の間に必要な一次的融合性と、それに続く家族組織における強力な継続性の必要性を考えるならば――このような「政治的に正しくない」可能性のある問いのリスクを十分に承知した上で、我々はこう自問するかもしれない:分析者たちは面接室で、われわれの同時代に典型的な一連の状況の結果の少なくとも一部を、継承していないだろうか、と。すなわち、 仕事上の理由による早期の母親育児の中断。法律や過度に厳しい企業環境によって、母親は直ちに職場に呼び戻される。祖父母は非常に離れたところに住んでいることが多く、祖父母のいない「核家族」では、非常に幼い子どもの養育に際して、交代制の私的・制度的世話役に頼ることが生む混乱;別居と離婚による、至るところにある家族の断絶。特に、受け入れられ「なければならない」新しい家族の一員が入って来る際の、時には拒絶の雰囲気や、少なくともその困難の否認。現代の主に個人主義的な文化モデルに好まれる、自己愛的な自己中心の子育て組織;「拡大家族」という大きな容器の喪失、そして一般的に、今日の子どもの成長における精神的環境に影響を与えるあらゆる状況。 現代の、そして個人主義的な文化モデルが好む、自己中心的な子育て組織、「拡大家族」という大きな入れ物の喪失、そして一般的に、今日の子どもの成長において精神的環境に影響を与えるあらゆる状況。それは今、食料の観点から見ると過去より良いが、現実の本物の関係ではおそらくそうは言えない。
 我々は少なくとも今のところ、大規模で壊滅的な世界大戦はもうない。代わりにあるのは、最初の母子関係や家族における無数の微小な亀裂であり、それは主体に、「関係に身をゆだねる」ことを本能的に躊躇させる可能性がある。ここで私は、私のイタリア人の同僚の一人が治療した、子供の極端かつ象徴的な臨床例に触れずにはいられない。その子はテレビに抱きついてキスをするために、一緒に遊んでいた他の子どもたちから離れてしまった。
 はっきりさせておきたいのは、私がここで、母親は仕事に戻るべきではないとか、家族は祖父母と暮らすべきだとか、不幸な夫婦が別れることができるべきでないなどと言っているのではない、ということである。私が言いたいのは、精神分析者たちはこうした大きな変化がもたらす重大な結果を否認するべきではないということであり、また、「週4回のセッション」という言葉を聞いた患者が何の交渉もなしにすぐに消えてしまうような、この新しい人間性の関係スタイルや可能性への影響に驚くべきではないということである。 (ボロニーニ、2015)

ボロニーニは、養育環境の変化をより詳しく述べているけれども、焦点が精神病理の新たな形態にあることが分かるだろう。続いて彼は、以下の項目を立てて詳述していく。
社会・文化・政治・宗教で親に相当する存在への信頼喪失の進行 The progressive loss of trust in the social, cultural, political, and religious equivalents of the parental figures
「今日では、超自我を僅かにでも垣間見させるようなものは何であれ、危険で恐ろしいばかりでなく、人の自己愛的な主権の感覚を傷つけるものとして、拒絶されるか避けられる傾向にある」。
「我々が主張できるのは、50年前まで精神分析の伝統的な歴史的課題(押し潰してくる超自我と、弱くて形成不全であることの多い自我と自己の力関係を修正すること) は、部分的には正反対の--そして、それにも劣らず困難な--「境界病理」の治療が要求する課題へと変容した。それは、調節欠損、万能幻想の自己愛的保存、アンチ対象の自律主義、そしてもうひとつの現代的な革新、すなわち、潜伏期間の期間と機能の、明らかな短縮である。それは、興奮性の性的刺激に、いたるところで、時期尚早に、執拗にさらされることでもたらされている。」
「分析への一時的で成熟のための依存は、恐れられるばかりでなく、満ち溢れる自己を正統とする感覚で、自我親和的に軽蔑される。主体は明らかに、自分自身の深い欲求や、対象との関係の問題のある状態に気づいていない。」
あらゆる種類の情緒的備給において、相対性と「流動性のある遊びの可能性」の経験が広範囲に及ぶこと The widespread experience of relativity and “fluid playability” in every kind of affective investment
「この自己愛的で原初的な防衛方向の直接的な結果、その方向性は後に安定した自己確認的な方法で組織化され構造化され、多くの個人が、恋愛や仕事・親子関係など、複数の設定で、対象との結びつかないという強い能力を発達させる。」
「私の考えでは、根本的な対象への依存に対して組織化された新たな防衛というこの心理社会的なマクロ現象は、少なくとも部分的には、――「モデルの取入れの失敗」という信頼性の低い仮説よりもはるかに――低水準の愛着を、最初はほとんど避けることができないが、治療関係が耐えられるにつれて次第にもっとインテンシブとなり、最終的に、患者が信頼そして自信を獲得するにつれて受け入れられる(そして事例によっては求められる)ようになるという、ますます広まりつつある臨床現象を説明するものである。」
インターネットによって引き起こされる個人を超えた万能感 The sense of trans-individual omnipotence induced by the Internet
「インターネットは、素晴らしい便利さがあるばかりでなく、主体を自己愛的に欺いて、本物/現実の対象をなしで済ませられると信じさせるものである(例:オンラインでの自己診断で医学的診察を常習的に代用すること、現実の人間関係を回避してオンライン上の性的興奮を無制限に提供されること、ニュース配信によって世界規模の現実を認知的に支配しているという誇大妄想など)。」
メディアそして一般に現代の心性において、自己愛的理想や性向に文化的(広い意味で)価値を置くこと The cultural (in a broad sense) valorisation of narcissistic ideals and dispositions in the media, and generally in the current mentality
「ウェンゲとキャンベル(2009)は、病的な自己愛の氾濫を「世代の流行病」と叙述した。1982年以降に生まれた人たち(ミレニアル世代)は、「いいね!」(自尊心を高めるための定量的なツール)の自己言及的なネットワークの中で育ち、史上最も多く撮影され、写真に撮られた子どもたちであり、自分が特別な存在という考えのもとに、すべては権利上自分のものであるという確信とともに育てられた。その結果、手の届くところにあると思っていた目標を達成できなかったとき、彼らは危機に陥る。事実は、彼らの現実/本物の対象関係への準備は、以前の世代よりも劣っているのである。」
「私は、これは現代の精神病理学における特別な変容だと考えている。かつては、悲しみ・悲嘆・荒涼・傷つけられ屈辱を感じる自己の貧困化した感覚を見ていたところに、我々は今日、根底にある深刻な苦痛をまさに示している特徴を、満足げに誇示する、強い自己愛的備給に触れるようになっている。」
薬物乱用の事実上の合法化 The de facto legitimising of substance abuse
精神医学の大部分と精神分析との距離化 The distancing of vast sectors of psychiatry from psychoanalysis

現代の疑似文化への精神分析の「忍び寄る同化」 The “creeping assimilation” of psychoanalysis into contemporary pseudo-culture
「したがって「同化」とは、少なくともメディアでしばしば紹介されるように、結局のところ精神分析を、難題にあまり挑戦しない心理療法のほとんどと「よく似た」治療法に還元することである。そのバージョン自体、その潜在力も困難さも、利用する可能性のあるユーザーたちによって事前に消化され、中和されたものである。」
「もちろん、このような精神分析のイメージの歪曲/改竄は、自分たちの療法を「精神分析」と呼んでいる資格のない専門家や、分析を瞑想や健康法、自尊心を一般的に高めるコースであるかのように紹介する情報源などによって、さらに悪化している。」

こうした抜粋からも、現在の状況とそれについての問題意識、若干の処方箋が窺われる。しかし、現実/本物の対象関係の代替物での置き換えや、自己愛・万能感の強さという旧来の基準と尺度に基づく評価が、「精神病理の新たな形態」を描写するのに十分なのか?という点と、そもそも精神分析はどういったもので、どういう挑戦があるのかに関して、馴化の過程が必須ということだけなのか、という点は、論じられるべき余地があるように見える。更に、変化している世界で患者自体が変化している中で、そのままでは精神分析が成り立たないのではないか、しかし成り立つように順応すると、それは精神分析ではなくなるのではないか、という諸刃の剣の問題には、どのような答えがあるだろうか。
別の論考を見ていこう。

デヴィッド・タケット 進む転回か、背く転回か?分析者の存在の中で喚起される耐え難い観念への抵抗が、精神分析作業の礎石でなければならない理由とその方法 A turn towards or a turn away? Why and how resistance to unbearable ideas evoked in the analyst’s presence must be the cornerstone of psychoanalytic work

タケットは独立学派の分析者で、ながらく『国際精神分析誌』の編集長を務めた。ここで取り上げられる「転回turn」は、いわゆる「関係論的展開relational turn」のことである。
予め言ってしまうと、彼は関係精神分析に批判的で、それの前提は精神分析の本質を毀損して、人生へのコーチングに変えてしまう、としている。
彼はまず、フロイト(1923)の辞書項目から、次の一節を引用する。
無意識的な心の出来事という想定、抵抗説と抑圧説についての承認、性とエディプスコンプレックスの評価、これらが精神分析の主となる内容であり、その理論の基礎である。これらすべてを是認することができない者は、自分を精神分析者のうちに数え入れてはならない。
そして次のように言う。
「本章の目的は、精神分析が歩んできた方向について問いかけることである。特にその「関係論的転回」に焦点を当てよう。 これは特に北米の現象であるが、より広い一般化の可能性を持っている。本章は、精神分析者たちがその創始者の根本的な貢献を見失っていないかどうかを問う、予備的な試みである。関係論者たちは、「分析者」であるという主要なやや受動的な焦点から、人生のコーチやカウンセラーになるという、より能動的な役割へと足を踏み外してしまったのだろうか、それはフロイトが上記の引用で発見の礎として挙げた仮定から続く中心的な課題を、回避しているのだろうか?もしそうならば、それはどのような結果をもたらすのだろうか?」
フロイトに基づく限り、無意識の心的過程を把握しようとするには「意味の能動的な構築に先立つ経験の受動的観察」のために、技法として「自由連想」と「平等に漂う注意」が必要である。
タケットは、伝統的精神分析には四つの仮定が認められる、とする。

  1. 無意識的な推論。接近できないもの(すなわち、知ることへの抵抗を呼び起こす無意識的な考え)をどのように知ろうと探究あるいは主張するかについての分析者の仮定。

  2. 無意識的な反復。患者にとって接近できないものが、どのように患者の問題を反復的に発生させているかについての分析者の仮定。

  3. 分析状況。探究している二人の間にある状況の、接近できない力動についての分析者の仮定(すなわち、転移と逆転移の理論)。

  4. プロセスの促進。セッションがどのように変化を生み出すのか、またその変化をそれぞれにおいて生み出すためには何がなされるべきなのかについての分析者の仮定。

関係精神分析は、伝統的な精神分析に対して、「中立性」「転移」「抵抗」「解釈」の理解に関して挑戦する。これらに内在する限界から、関係精神分析は治療作業のための素材として患者の「自由連想」の代わりに、「間主観的領野におけるエナクトメントとリエナクトメント」を焦点として、治療者と患者がともに解釈しようとする(デイヴィス、2018)。タケットは、これらの概念の吟味を通じて、何が精神分析かを再定義しようとしているようである。
ただ、フロイトの通りにやっていない、それでは精神分析ではない、という批判は、現代では、あまり堪えない学派の方が多いように見える。フロイト自身が言動不一致だったばかりでなく、患者の実情に合わせていたところが多分にあり、更に違うタイプの現代の患者に、元々厳密にはしていないことを適用させようとしても、かなりずれたことになる。すべての学派は、フロイトの論述のうちで適切と思われる点のみを採用して、そうではない点を自分の経験知で補っている。しかし原理として抽出されるものを比較して、学派それぞれの自己認識を確認することは重要だろう。そしてそれは、そもそも観察対象やポイントの違いを明らかにしないだろうか?
タケットは、推論の意義の原理をこう説明している。
患者にとって接近できない考えも、浮かび上がることができるようにされる。なぜなら、自由連想の中で、そうした考えは抵抗の徴候を通じて(露わにされverraten)、するとそのことが推測される(erraten)を可能にするからである。言い換えれば、抵抗は無意識的な考えの実在を示している。
これはかなり自然に見えるが、この「抵抗」概念は、神経症的な葛藤の構造を前提しているのではないだろうか。
私は個人的に関係精神分析に親しみを覚えないが、そのような理解の仕方や心のモデルの方が実態に即していることになると想定するのは、難しいことではない。実際、意識の視界にないものが「抑圧」されていると捉えても「分裂排除」されていると捉えても実情を表している感じがしない、「乖離」されているのか、そもそも「生じていない」のではないか、と思われることがあるからである。

サミュエル・ガーソン 関係的無意識:間主観性・第三者性・臨床過程における中核要素 The relational unconscious A core element of intersubjectivity, thirdness, and clinical process

この著者は「関係精神分析」の中にいると言ってよく、ここでは総説を提供している。
「私は 間相互主観性のこれらの要素について、3つの目的を念頭に置いて詳しく説明したい。第一は、無意識の概念とその過程を、人間の発達と知識の伝達に関する間主観的な見方と一致するように拡張することである。この点に関して、私は関係的無意識という概念が、間主観性の理論的・臨床的意味を最もよく捉えていると示唆したい。第二に、私は関係的無意識の概念を第三者性の概念を含む無意識と対比させて、第三者性の概念の3つの異なる用法を描き出したい――すなわち発達的第三者、文化的第三者、関係的第三者である。私の第三の目的は、精神分析の実践における関係的無意識の作用に注目を促すことである。ここでは、間主観的な抵抗の結果として、作業が一時的に停滞している2つの臨床ヴィネットを考察する。」
どの論文でも、それが提供している一定の枠組みがあり、一定の推敲を経たものであればそれに沿って読み進む限り、舗装された道路を通るように、その論点から見えるものは理解できる。ただ、通常は違う見方をしている者からすると、何のことを論じているのかは、具体例がないと分かり難い。そこで、この臨床ヴィネットに当たりたいと思うが・・該当する記述が見当たらない。
「関係的無意識が、意識的な振り返りの試みを許容しないか応じない内容を含んでいるとき、転移と逆転移のマトリックスは、停滞したり破壊的だったりする形の相互作用へと進展するかもしれない。以前の報告(Gerson, 1996)で私はそのような状態を、次のような意味として言及した。」

他者と関係に影響を与え、想像する新しい様式の発達を中断するように計画された共同事業である。このような相互に動機づけられた状態は、間主観的な抵抗と考えることができる。なぜなら、それは、馴染みのある転移-逆転移の布置の中に他者を維持しようとする、それぞれの努力によって支えられているからである。間主観的抵抗と絡まり/エンメシュメントは、患者と分析者の無意識的動機の相互影響によって形成され、分析ペアの関係的無意識の構成要素である。

(Gerson, 1996)

これはヴィネットではない・・Gerson, S. (1996) Neutrality, resistance, and self-disclosure in an intersubjective psychoanalysis. Psychoanalytic Dialogues. 6: 623–647.を参照するように、という指示だろうか。
どのようなパラダイム転換も、それを促す個別の患者の実例があってのことであるはずである。「関係精神分析」の登場と展開もそうしたものの一つであり、実際に事例を現代クライン派が批判的に検討しているものを読むと、ADHD特性が窺われる(例えば、Sapisochin, G. (2019) Enactment: Listening to psychic gestures. International Journal of Psychoanalysis 100:877-897)。

そういうわけで、「関係精神分析」の興隆は、発達特性の一つの顕在化への応答ではないかと私は以前から思っているが、ここでは検証の素材がないようである。

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