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クライン「幼児分析の心理学的原理」(1926)から「児童分析の心理学的基礎」(1932)へ+2章

メラニー・クライン「幼児分析の心理学的原理」(1927)、著1第 6 章、151-163.Klein, M. (1927). The Psychological Principles of Infant Analysis. Int. J. Psycho-Anal.,8:25-37.
ミーラ・リカーマン『新釈 メラニー・クライン』第 4 章 「ただの奔放さにあらず」─初めてやってきた子どもの患者たち、岩崎学術出版社、2014。Likierman, M. (2001). 4. 'Not simply a case of uninhibited gratification' -- The First Child Patients. In Melanie Klein: Her Work in Context, pp.44-64, Continuum.
Sherwin-White, S. (2017). 4 Restoring Klein’s concept of reparation in her early work. In Melanie Klein Revisited, pp.59-68, Karnac Books.
Frank, C. (2013). Melanie Klein's Discovery of Reparation. https://melanie-klein-trust.org.uk/wp-content/uploads/2019/07/Claudia_Frank___Reparation___Prague_2013.pdf

クライの「幼児分析の心理学的原理」(1926)は、加筆訂正されて『子供の精神分析』(1932)の第1章「児童分析の心理学的基礎」となっている。前者では、プレイ技法という主題と早期超自我という発達論の両方に触れられているが、単行本は二部構成となり、超自我形成の問題は第二部に送られている。第一部は、プレイ技法を主題としているばかりでなく、子供の分析についてほぼ年齢順に論じている。単行本で最初にリタについて述べているのは、そうした整理の影響によるかもしれない。
振り返って見ると1926年論文は羅列的だが、クラインの基本理解を盛り込んでいる。その十全な展開を知るには、単行本を参照する必要がある。しかしそれでも、事例記述が詰まり過ぎていて、論述の骨格は分かりやすいものではない。
1926年論文は、あくまで「幼児と大人の心的生活の間の差異」を論じていると捉える必要がある。「プレイ技法」は、その差異に見合った技法である。論文の前半は、差異を巡る「心理学的諸原理」を論じ、後半でプレイ技法を論じるという構成である。しかし、前半は事例がどういう原理の例示となっているのか見て取り難く、後半は論文タイトルに反映しておらず、技法と平行して発達についてのクライン独自の見解を述べ、治療効果にまで触れているので、「原理」はどこに行ったのか、捉え難くなっている。
クラインが考えたと思われる諸原理を列挙すると:
・幼児の現実との関係の自己愛的性質ーートゥルードの例
・生後2年目初期からのエディプス傾向ーーリタの例
・神経症状態の原因としての強い罪悪感ーートゥルードの例
・原始的で激しい欲望と内在化された厳しい親ーーリタの例
・さまざまな同一化への分離
・幼児的な超自我
・解釈への反応の違い
続いて、話題はプレイ技法に移行していき、ルースとエルナが例に挙げられる。そこから治療の成果へと更に話題は移るが、それは「抑圧」「抵抗」といった神経症機制で論じられ、投影や象徴/具象の水準の違いに触れていない。最後の議論は、精神分析の「原理」に関わるので、論文の主題と混同されそうである。

ベルリン時代のクラインの患者たちの治療を面接記録から再構成したクラウディア・フランクの仕事は、ドイツ語では既に1999年に発表されていた。スピリウスの校閲を経た英語版は、2009年に刊行されている。
以下は、英語版第一部の結論から:
「分析者たちが20世紀の最初の20年に出版された子供の事例史を調べたところによれば、子供たちは主に、成人の分析から引き出された諸結論を例証するための対象として用いられていた。私は、子供たちを実際に直接分析することを妨げていたのは、子供たちの陰性転移とそれに対する分析者たちの態度だったと考えている。意識的および無意識的な逆転移反応は、子供への分析的なアプローチを妨げた。そしてこの困難は各分析者に、そのようなものとして意識的に知覚されることも、認識されることもなかった。逆転移と陰性転移の諸現象は、当時発見されたばかりだったのである。私は子供の精神分析的な研究への、当時の理論的・技法的なアプローチを記述した。ここでの主な焦点は、フロイトによるハンス少年についての仕事と、彼がフーク=ヘルムートによる「治療的・教育的分析therapeutic educational analysis」の試みを奨励したことだった。私は、アナ・フロイトとメラニー・クラインが1926年・1927年までの初期の出版物の中で、陰性転移によって課せられた難題にどう取り組んだかを記述した。
私はクラインによる子供それぞれの治療の研究への背景として、1921年から1926年のベルリンにおける、彼女の精神分析的な臨床の仕事の範囲を再構成した。この期間にクラインは、確実に2人の成人女性患者と、少なくとも22人の子供と思春期の若者を治療した。クライン自身は、ベルリン時代から少なくとも16人の子供と思春期の若者についての仕事を出版した。私はいくつかの基準に基づいて、最初の三人の子供たち、つまりグレーテ、リタ、インゲを私が記述する対象として選んだ。基準とは、第一に、私は出版物の中に描写された子供を、未刊の文書および臨床的覚書の中の同じ子供と、自信を持って正確に結び付けることができなければならなかった。第二に、私はクラインの理論的なアイデアと技法の発展を、特に陰性転移への彼女のアプローチの発展を、年代順に示したかった。それに加えて、二番目の子供は、クラインが治療した子供の中で最も幼く(2歳9ヶ月)、子供の自宅で治療した最後の例だったので重要である。三番目の子供インゲは、クラインが「プレイ技法play technique」のアイデアを思いついたのが彼女の治療の間だったので、特に重要だった。
最後に私は、少し後のもので、より発展しているエルナとの仕事を記述する。それはこの時期の、最も徹底した子供の分析である。私はクラインの最初の臨床的覚書を吟味して転移-逆転移の力動を再構成し、それによって、クラインが既存の概念化の仕方を(最初は直観的にだが)変えることになった、経験の性質をいくらか伝えようとした。
1921年にはクラインは、すべての子供と思春期の若者に、成人の設定(カウチと自由連想の勧め)を提供した。それがある程度、陰性転移の結晶化する点となった。クラインの最早期の子供の治療(1921年2月から1922年5月)の一人である、9歳のグレーテの治療覚書には、既に「陰性転移」という鍵概念が現われており、クラインがこれを最初から、分析的に扱われる必要がある因子として、すなわち理解され解釈されなければならないものとして、理解していたことが明らかになる。しかしながら、臨床的覚書を調べると、最初クラインは潜在的な陰性転移を十分には分析しそこなったこと、そしてある程度子供をなだめることによって顕在的な陰性転移を中和せざるをえなかったことが、露わになる。同時に、いかにしてクラインの分析的な方法への意識的な固守が、彼女の遭遇したあらゆる経験と相俟って、幾つかの誤りにもかかわらず、長期的には彼女が子供たちから学ぶことを、そして適切な技法と対応する諸概念の形成を発展させることを可能にしたかを、見ることができる。このようにクラインは、例えばグレーテが、空想は男性性器にばかりでなくグレーテ自身の女性性器にも関連していると思ったのを、真剣に扱うことができた。これは、フロイトによる女性の発展の概念について、最初の拡張をもたらしたものである。
次の段階では、2歳9ヶ月のリタの治療(1923年3月から10月)を描写した。彼女はクラインの最も幼い患者で、その年齢のために成人の設定を維持することは不可能だった。リタはいつも二次文献では、クラインが陰性転移を解釈で取り扱う能力が示された範例として、特に部屋を去る場面で提示されているけれども、治療覚書に基づくと、そうした見解をそこまで確定的に維持することはできない。そうした状況ではクラインは、彼女の幼い患者をなだめるか気分を晴れさせようとした。リタについての出版物の吟味によって私は、メランコリー的な様式がその力動を特徴づけており、クラインはそれをこの短い分析で効果的に取り扱うことが難しくなった、という仮説に導かれた。このことは、クラインの臨床的覚書で確認できる。しかしながら、クラインのリタとの経験は、十分な理解を求める持続的な勢いを彼女の中に作り出したように思われる。早期の圧制的で厳格な超自我の発見は、クラインが何よりも先にまさにリタの分析のおかげで見出したものだった。
クラインは、リタが自発的に彼女の玩具を用いたことを子供の表現手段として真面目に扱い、それをリタの言語的な連想と同じように解釈したけれども、休暇を含めて1923年9月から1926年5月まで続いた7歳のインゲの分析になって初めて、玩具を用いる彼女の技法がたまたまの(リタの)ものではなく、子供たちにとっての設定の標準的な構成要素へと発展した。治療覚書と出版物から再構成しうる範囲では、パラメーター〔助変数〕としての玩具の導入は、インゲの乏しい言語的コミュニケーションのために解釈を通じて陰性転移を十分に正確な把握することができなかったので、分析を開始するために必要となっていた」。
各事例の詳細はまたの機会としよう。

リカーマンは、ウェルカム財団の恩恵に敢えて与ろうとしなかったので、クラインの子供の患者たちについて分かるのは、出版物から見て取られる限りの、「時系列や内訳など、漠然としたこと」ばかりだった。これは実際の読後感として、誰しもが思うことだろう。
クラインがベルリン時代の子供の患者で言及したのは17人で、詳しめに論じたのは13歳のフェリックスと6歳のエルナのみである。この章でリカーマンは、他にピーター(3歳)・グレーテ(9歳)・リタ(2歳)・トゥルード(3歳半)の印象的な場面を素描すると、大半をアナ・フロイトとの論争の話題に割いている。アナ・フロイトは、フロイトの実娘であることによる優越性によってクラインを排除しようとしたように見えるが、彼女が固有の臨床領域を見出したのは、第二次世界大戦後と思われる。

シャーウィンーホワイトは、章題の通り、“reparation”の概念を、クラインの初期の仕事にまで遡って復元させている。その方法は単純で、ドイツ語版に当たって原語を確認するというものである。すると、reparationの原語はWiedergutmachungだが、アリックス・ストレーチーの翻訳ではほとんどがrestitutionと訳されたことによって隠れてしまったという。restitutionの方のドイツ語原語はWiederherstellungで、こうした対比をするのならば、これらの間にどういうニュアンスや用法の違いがあるのかも書いておいて欲しいところだったが、polyglotには自明なのだろう。後者は物理的・工学的に聞こえるのに対して、前者は価値的ー道徳的に見えるが、定かではない。reparation/Wiedergutmachungがクラインの初期から用いられてきたにしても、「抑鬱ポジション」が概念化されて初めて特定の用語としての意義を獲得した点には、変わりがないように思われる。

フランク(2013)は、1921年のグレーテの分析の頃から、'broken' [kaput]と'good again' [wieder gut]が登場していることを指摘している。また、1923年からのリタには具象的な修復が認められること、最も長期間のエルナの治療過程には、破壊衝動と償いの衝動の葛藤を辿ることができると論じている。

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