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Hinshelwood, R. D. (2012). Who wants to be a scientist?他――今月のクライン系4本

Hinshelwood, R. D. (2012). Who wants to be a scientist? The historical and psychoanalytic context at the start of Klein’s career: circa 1918–1921. In Mills, J.(Ed.) Other Banalities: Melanie Klein Revisited, pp.8-24, Routledge.
ミーラ・リカーマン『新釈 メラニー・クライン』第 1 章 「クライン論文の衝撃」――はじめに、岩崎学術出版社、2014。Likierman, M. (2001). 1. 'Her writing gave me a shock' -- Introduction. In Melanie Klein: Her Work in Context, pp.1-13, Continuum.
Segal, H. (1979). 1. Introduction. In Klein, pp.11-26, The Harvester Press.
Sherwin-White, S. (2017). 1 Early background. In Melanie Klein Revisited, Pioneer and Revolutionary in the Psychoanalysis of Young Children. pp.5-19, Karnac Books.

4年1サイクルの文献講読の開始に当たって、以下のレビュー1本と序論3本を選んだ。『クライン派事典』でも集団に関する仕事でもよく知られているヒンシェルウッドは、その後も、クライン派の分析概念の成立過程に立ち入ったり、クライン・ビオンの展開を諸学派の理論、更には他の学問領域の脈絡に遡ったり、と視界を広げ研究を深めている。"Who wants to be a scientist? The historical and psychoanalytic context at the start of Klein’s career: circa 1918–1921."は、そうした「歴史的・精神分析的文脈」を描き出したもので、要点を軽快に述べている。前から取り上げる機会を見ていたが、フロイト系文献講読の初年度と具合よく同期することになった。フロイトが元は精神物理学と進化論を信奉した大学院卒の神経解剖学者で、自然科学志向を概ね維持し続ける一方で欲動を説いては改訂を続けたのに対して、時代の教養とも哲学的思考とも縁が薄く、大学は公開講座くらいしか出ていないクラインは、今なお多くの者が惹きつけられる世界を切り開いた。
他の3本は、いずれもクラインについてのモノグラフの第1章である。シーガルが1979年、リカーマンが2001年、シャーウィン-ホワイトが2017年と、大体20年ずつ離れている。それぞれ、発表された時期だけでなくクラインに対して違う立場と切り口のものを見てみようという趣向。
シーガルはクラインから分析を受けた直系のクライン派の精神科医であり、既に1964年に、精神分析訓練生に向けた講義をまとめたものを、『メラニー・クライン入門』として出している。これはクラインの仕事を俯瞰して、理論的に体系化して整理し、シーガル自身の例も含めて主要概念を解説したものである。クラインの1979年物は、最初の10冊が1970年に出発されたFontana Modern Mastersの内の1冊で、1970年に出版された最初の10冊は、ファノン、カミュ、ゲバラ、マルクーゼ、と革命の機運が残っているかの選択である。他のレヴィ‐ストロース、チョムスキー、ヴィトゲンシュタインも、或る種革命的か。フロイトは第二弾でウォルハイムが書いていて、確か新潮社から、『現代の思想家』というシリーズ名で出ていた。結局邦訳されているのは五十数冊のうちの10冊で、シリーズの終わり頃に出版されたシーガルの『クライン』は、訳されていない。
リカーマンはおそらく独立学派のサイコセラピストで、2019年に亡くなっている。紹介は、訳者がしている以上のことはできないので、そちらを参照してもらいたい(https://jwa.org/encyclopedia/author/likierman-meira)。
シャーウィン-ホワイトは40代半ばまで古代ギリシア史の専門家だったタヴィストック出身の子どものサイコセラピストである。この方は、闘病の末2016年に亡くなった。本書は文字通り遺作である。obituaryは歴史研究者としてしか見当たらない(https://www.csad.ox.ac.uk/susan-sherwin-white)。出版社のもの:https://www.karnacbooks.com/Author.asp?AID=19933。

シーガル『クライン』(1979)は、生涯を辿りつつ仕事を紹介していく、というおそらくシリーズ共通の構成で書かれている。その思想の潜在的な社会的インパクトを強調して説くものではない。クラインは創造性に関心があったし、シーガルもあったわけだが、ほとんど触れていない。そういうわけで、クラインの仕事を俯瞰するには便利だが、関心と教養のある読者への啓蒙的・教育的な著作である。つまり特定の問題提起や意識がある研究書ではない(これはリカーマン(2001)を書評したヒンシェルウッドの分類でもある)。以下、イギリスだったら礼儀上誰もわざわざ言わないことだろうが――これは教科書としては役立ち、基本事項を抑えるのに適している。ただ、出来事の叙述としては、山の稜線をつなげた登山図のようなもので、位置関係を知るのに価値はあるが、〈現場〉を抜いた水準での要約なので、実際の作業からはフィクションに近いくらいの距離がある。
一例だけ見ると、この序論の序論には、「メラニー・クラインは、子どもの臨床を通じて、生得的な攻撃性の重要性を確信するようになった、死の本能というフロイトの理論を全面的に受け継いでその臨床的な含みを論じ尽くした、唯一の主要な支持者だった」とある。ウォルハイムも校閲しているし、何も問題ないかのようだが、ヒンシェルウッドの留意点を辿っていくと、それはメラニー・クラインの元々の問題意識ではないし、そもそも全体としてこう要約してよいのか、怪しくなってくる。結局、どういう狙いでそうした要約をするのかが重要だろう。惰性の思考を避けるのならば、一々、改めて発見しなければ価値が付いて来ないということだ。

ミーラ・リカーマン『新釈 メラニー・クライン』(Likierman, M. (2001). Melanie Klein: Her Work in Context)は、明確に研究書である。それがどのような問題提起と意識に基づいているのかは、これから読んでいくことであり、予め一つ二つに限定しなければならないものではないが、特徴的なのは、クライン原文の読み難さを認めた上で、それを解読しようとしていることである。その補助線に、メラニー・クライン・アーカイブから面接記録や未定稿を参照したり、ということはほぼ行なわない。これは、課題の半面が受容史であることから、或る意味で当然の選択である。当時の人たちには、彼女の発表を直接聞く機会はあったけれども、面接記録の類は目にしてはいないだろう。だから、第1章はこう始まる――'Her writing gave me a shock'(ジェイムズ・ストレイチー「彼女の論文は衝撃的だった」)。
もう半面は、フロイト以来の精神分析の射程をおよそ整然とした学説の一つに収まったものに見えさせる、彼女が描いた乳幼児の早期生活における「洗練され高度に複雑な心の働き」と「複雑で奇妙な性質に呆然とさせるような乳児の志向性」(Klein's thinking, though ostensibly building on Freud's, seemed to do no more than subvert its method and reason. It led her right back to early life, where she hypothesized sophisticated and highly complex mental operations in very young children, as well as highlighting an infantile intentionality that seemed stupefying in its complexity and bizarre nature. pp10)を捉えることである。しかしこれは、クラインを賛美しようということではない。クラインのテクストに留まりつつどうしていくのかは、これから読んでいくこと。

シャーウィン-ホワイト『メラニー・クラインの再検討』(2017)(Sherwin-White, S. (2017). Melanie Klein Revisited, Pioneer and Revolutionary in the Psychoanalysis of Young Children. )は、クラインがベルリンを離れてからも持ち続けた何万ページかの面接記録(のフランクによる研究)を活用している。
最初、グロスカス(1986)の伝記への批判が続き、伝記への初期の書評(Ingleby, 1987; O’Shaughnessy, 1987; Segal, 1986, p. 50)クライン擁護に与するならどうなの・・・と思わせられないでもないが、クラインが公刊した論文と著作(Hogarth版全集の第1巻”Love, Guilt and Reparation” and Other Works前半と第2巻The Psychoanalysis of Children)を読んでいては分からない経緯と詳細が、現代の理解とともに提供されていく。
そうした初期のクラインの足跡は、『ヒステリー研究』の位置に似ている。フロイトが患者にマッサージをしたり催眠術を掛けたりしているうちに、寝椅子と後背部の分析者、自由連想法と精神分析の治療設定を見出していったように、クラインは、自分の子供を見たり相手の家庭訪問をしたり、と今日ではありえない試行錯誤を経て、プレイ技法を見出していった、と言えるだろう。

ヒンシェルウッド(2012)(Hinshelwood, R. D. (2012). Who wants to be a scientist? The historical and psychoanalytic context at the start of Klein’s career: circa 1918–1921.)が今回のメインだが、時間がなくなったので、とりあえず項目の頭出しをしておく。彼は5節に分けて論じており、どれも卓見と問題提起を含んでいる。
「子供の発達」から:
●フロイトの「ハンス少年症例」(1909)に対して、フェレンツィは「雄鶏少年症例」(1916 [1913])を寄せている。――ヒンシェルウッドが書いているのは、フェレンツィが諦めたところでクラインは進んだ、ということだが、この症例は大変奇妙で、とても定型発達とは思えない。では、クラインのベルリンの子供たちはどうだっただろうか?フェレンツィと無関係に想を進めると、そもそもクラインが見出した「被害的不安」は、どれほど「精神病性不安」なのだろうか?彼女がディックを最終的に統合失調症としたのは、他に分類しようがなかったからである。
○クラインの観察における知的発達とその制止の強調、観察の焦点としての不安―特に自己の攻撃性への不安――これは教科書の事項。
○フーク-ヘルムートとの対比:H-Hが行なったのは、「精神分析的志向の養育の一形式a form of psychoanalytically oriented upbringing」である。これはどの程度「精神分析的」でありうるだろうか?そもそも精神分析の中核も輪郭も不明のときに。圧倒的に主たる関係性は、養子と養母の間柄である。その生活全般に及ぶ因襲的な力が羽織袴ならば、「精神分析」という観念は、山高帽程度のものだろう。その結末が養子による養母の殺人だったとは、通常の養育関係がそこでは成り立っていなかったということである。
○次にヒンシェルウッドが挙げているのは、アイヒホン(1925)とアナ・フロイトによる、子供への「精神分析的志向の」教育的な仕事である。――こうして精神分析的アプローチは、両親による「養育」とも、教師による「教育」とも異なる関わりであり、もう一つ、――メルツァーは何と言っていたか、「発達心理学」?の三つの円が重なり合うところに、と?
●この頃のクラインは、時折"prophylaxis"(予防法)として行なう、と書いている。これは一体どのような症例の何をどう予防するのだろうか、これから読むうえで注目すべき点だろう。
「経済論的モデル」から:
○19世紀の自然科学モデルはフロイトに、心的エネルギーの場所と流れを擬似計量化された説明を与えた。1913年に至っても、彼は分析者の役割を、「これらの諸力を、ほとんど軍の大将のように制御することto handle these forces almost like a military general」と規定している。
他方、ドーラはフロイトに個人的に会っていて、彼はドーラにとって誘惑者であり、拒絶すべき対象となった。フロイトはこの水準を「転移」として見出しつつあったが、対象の主体性は類型的で、個別性はしばらく、ほとんど認められない。
○フロイトは「ナルシシズム」概念を導入した時も、心的エネルギーの総和が一定と考えていたことだろう。ただ、開放系として全体が増えていくことも書かれていたと思う。クラインは、こうした擬似物理学的な恒常性を遵守されるものとして理解せず、情動の論理を持ち出した。――そこでは片方が増えればもう片方が減らざるをえないわけではなく、憎しみがいつまでも強さを更新し続けることもあれば、愛情が上回ることもありうる。――だが、長期的には、総量は頭打ちだろうし、以上に出るのは精神病状態であろう。精神病理学の概算は侮れない。
「対象関係と主観性」から
○ここでヒンシェルウッドが強調するのは、クラインでは、患者自身による自分の心理の説明が、治療者による精神分析の理論的構造としてのメタ心理学に優先している、と。――無学でいたおかげである。ただ、それは結局「無意識的空想」のことであり、その解読には治療者の助力が必要だろう。治療者は解釈の形で、誤っていて修正を要する取入れと投影を行なうかもしれない。
「愛」から
○クラインのそれは、もはやリビドーの脱性愛化されたものではない。
「不安と攻撃性」から:
○ここでは「報復としての攻撃」が書かれ、「攻撃性を対象に帰属させる投影の機制」について述べられている。これは、後の「投影同一化」とは異なる。自分の一部を分裂排除するのではない点が、ヒステリーの機制に近い。
死の本能について――アブラハムは何も言っていない。クラインが言い出すのも、あとからである。総括として――
○「本能・エネルギー・機制という抽象的概念への本当の関心はどれも、彼女の元に留まらなかった。Any real interest in the abstract notions of instinct, energy and mechanism continued to pass her by.」。「彼女は私が思うに、フロイトが心的エネルギーで何を意味したのか、ほとんど知らなかった。She was, I think, hardly aware of what Freud really meant by psychic energy.

●だから、これから山ほど具象的な臨床記述を読んでいくのだが、あいにく、おかしな方向にずれた魚の骨のように、抽象的用語が混ざっている。
そうした素材に、どのように精神分析的な観察を行なうかが今期の課題である。

余談。クラインと娘メリッタの悪い関係については、何処にでも書いてあるが同じようなエピソードの紹介を超えていないことが多い。以下は、濃淡があるが、メリッタの学術的主張の一部を抑えている。
Spillius, E. (2009). Melitta and Her Mother. Psychoanal. Q., 78(4):1147-1166
Cassullo, G. (2016). The Psychoanalytic Contributions of Melitta Schmideberg Klein. More than Melanie Klein's Rebel Daughter. Am. J. Psychoanal., 76(1):18-34
「再保証」や「支持」の意義を主張するものは、浅くてクライン精神分析の真意を理解していないとか、彼女の個人的立場に由来するとか取られるだろう。自己心理学を経た現在読むと、どうだろうか?実際に最も有名なのは、カプランの精神医学教科書に彼女が書いた「境界例患者」についての記述に、自画像らしいものが含まれていることだろう。

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こちらは、メラニー・クラインではなく娘のメリッタ。そっくり。


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