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建築の先に見える感情『アルド・ロッシ 記憶の幾何学』『メランコリーと建築 — アルド・ロッシ──アルド・ロッシ』【読書記録】

最近は4時半頃に一度叩き起こされて、薄明るくなった窓の外を見ながら、再び少ない時間二度寝する睡眠不足の日々を送っています。
最近、建築家アルド・ロッシに関する著作を読んだので、備忘録。

『メランコリーと建築 — アルド・ロッシ』(ディオゴ・セイシャス・ロペス 著、服部さおり、佐伯達也 翻訳、片桐悠自 監修、2023年、フリックスタジオ)

アルド・ロッシ研究の決定版 待望の翻訳本!
「ロッシの今日における詩性を見事に捉えた〈メランコリー〉という用語を、歴史を遡って探査する」――ポルトガルの建築家ディオゴ・セイシャス・ロペス(1972-2016)による、ポストモダニズム以降の建築に新たな視点を投げかける建築論。〈メランコリー〉と建築の連関を通じて、20世紀でもっとも重要な建築家・建築理論家のひとりであるアルド・ロッシに再び光を当てる。
 本書は、著者がスイス連邦工科大学チューリッヒ校で執筆した博士論文をもとに、2015年に英語版が書籍化された。2019年にはポルトガル語版が刊行され、国際的な注目を集めており、なかでも建築史家ケネス・フランプトンは「我々のロッシに対する理解を変容させる、非常に繊細で洗練された研究」と評価している。
 ロッシのキャリアの全容を辿り、熱狂と幻滅の間を揺れ動く建築家としての生を、代表作「サン・カタルドの墓地」が表象する詩性のなかで描き出す。さらに作品に反響する参照の数々――ジョルジョ・デ・キリコの形而上学的な眼差し、アドルフ・ロースの文化的懐疑論、エティエンヌ=ルイ・ブレの高揚した合理主義、アルブレヒト・デューラーの視覚的迷宮――や、タイポロジーや類推による形態の生成過程を解き明かしていく。
「建築理論と実践を結びつける」という著者の言葉が示すように、現代の建築家にとっての手がかりとなる一冊である。

『アルド・ロッシ 記憶の幾何学』(片桐悠自 著、2024年、鹿島出版会)

アルド・ロッシの建築に特徴的な円形、正方形、三角形からなる「幾何学」の設計思想と、共有された「テンデンツァ」運動の理念とは。

20世紀後半に活躍したイタリアの建築家、アルド・ロッシ(1931-1997)のプロジェクトを参照しながら、その設計思想を軸に、理論・建築・ドローイングの3つを対象として論じる。今なおポストモダン時代の建築家として括られることの多いアルド・ロッシ。本書では、ロッシを中心に形成された「合理主義建築」を標榜する1973年の「テンデンツァ」運動と、その背景にある「幾何学」の設計思想を、同時代の建築家たち――カルロ・アイモニーノ、マンフレッド・タフーリ、ジョルジョ・グラッシ、ジャンウーゴ・ポレゼッロらとの協働を通して読み解く。ここから、イタリア戦後建築と社会思想が辿った道筋について新たな見方を提示する。ロッシの手記やドローイング、著者による実作写真、図面・立体モデルの豊富な資料を盛り込み、被覆材の貧しさ、幾何学形態の理論的なアプローチ、それらをつなぐ「記憶」の在り方に着目し、理論とイメージが抱合される場を見出す。ロッシ/テンデンツァ研究書として、既存の一面的な理解ではないロッシ像を現代によみがえらせる。理論のみならず、創造的活動の端緒ともなる設計者必読の書。

1990年に建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞し、世界的にも知られるイタリアの建築家アルド・ロッシ。
幾何学的な形状や四つ割り窓を繰り返し利用した建築は、言い知れぬ魅力を持つ。『都市の建築』のような建築理論書を執筆した人物でもあり、実践・理論の双方から建築界に大きな影響力を持つ。

しかしながら、彼が生み出す建築は、ジョルジョ・デ・キリコの絵画のよう、と評されることもあり、単純に「良い建築」とは言い難い不思議な魅力(それはどこか不穏さも孕むような)を備えていることが多い。
そうした建築に惹かれてか、ルイジ・ギッリのような写真家も盛んにロッシの建築を写真におさめようとしてきた。

かくいう自分も学生時代からアルド・ロッシが好きで、ドローイング集などを集めていた。特に四つ割り窓が並ぶ外観は強く記憶に残り、何度も何度も頭の中をリフレインしている。と言っても、ロッシの建築を実際に体験したのはホテル イル・パラッツォや門司港ホテルなど国内のものに限られ、しかもどちらかというと後期の作品なので、お世辞にも豊饒なロッシの建築体験をしているとは言えないかもしれない。
それでも、門司港ホテルの四つ割り窓から見た海や門司港ホテルの街路は忘れることのない記憶と化している。

構成としては非常にシンプル(かのよう)に見えるのに、何かものすごく感情を動かしてくれる感覚(そして、それは「強く」動かされるというものでもない)。そうした不思議な感覚を与えてくれるロッシの建築について、改めて解き明かそうとするのがこの2冊の本である。

後者の本では、ロッシの「幾何学」を使った設計アプローチに注目しつつ、同時代の動きと絡ませながら、理論と実践の接続を試みる。その時に「記憶」というキーワードが現れるのもロッシならではの特徴だろう。先に述べたようにロッシは建築を「都市」と結びつけて考えていた。建築はそれ自体がそこで完結することはなく、過去の都市、つまり記憶と作用しながら存在する。

都市の記憶/イメージは建築形態と不可分である。この論点は、ロッシが同時期の『都市の建築』の第二章で、「パリ市民がバスティーユを破壊したとき、彼らは数世紀にわたる非道と悲しみを消し去ったのであり、それは同時にパリにおいて、具体的な形態であったバスティーユという悲しみを消し去ったということである」と述べた箇所と呼応する。
建築形態は、過去の悲しみや悲惨さ、窮乏の経験など、人間の否定的な感情と結びつき、逆説的に「雰囲気が美しいという感覚」に至るのである。都市において人間が抱く感情こそが、建築形態に複合される本質的なものであり、塗り替えられたしっくいが呼び起こす建築に内在する過去の記憶である。

『アルド・ロッシ 記憶の幾何学』62頁

建築は何もポジティブな感情を生み出すだけではなく、ある種の否定的な感情も生み出す。

この「否定的な感情」とは何だろうか?と考えるときに、それを「メランコリー」という観点で分析するのが前者の本だ。歴史上で、メランコリーはギリシャ時代から言及されていたものの、その用法はあいまいで、歴史ごとに捉えられ方が変化していったが、それは喪失感など、どちらかというと後ろ向きな感覚と繋がった。しかし、メランコリーは人間の思索を深めるひとつの要素として機能することも語られていた。

「メランコリー性格の人間は死につきまとわれるがゆえに、世界の読み方をもっともよく理解する。いな、むしろ、世界のほうがメランコリー気質の人間の視線の前に、ほかのどんな場合にもまして、自らを提示するのである」。
この気質を正当化する根拠がついに神々や星から切り離されたとき、それは人間の意識のうちに場所を得た。中世にはびこっていた神秘的な土壌ではなく、理性的な自己のうちに悲しみが見出され、慰めが求められたのだ。ここに来てメランコリーは、個人の行為、すなわち現実を形づくることに関連付けられることになる。

『メランコリーと建築 — アルド・ロッシ』21頁

建築もそうした感情を生みだすことができるのは人間のスケールや時間スパンをある点では超越した生成物であることも起因するのであろう。例えば、廃墟は人間のスケールを超えているし、長い時間を感じさせるから、メランコリーのような感情を湧きたたせる。
人間は自らの礎をモニュメントなどの造形物に込め、未来に託そうとする。しかし、それは能動的なものに限らず、都市の中には意図せず、そうした記憶が内在されるようになっている。
そのように建築は、形態によって、ある認識を与える効果を持つ。

ロッシにとっての「建築の自律性」は、外部のコンテクストをいったん保留した。オブジェクティブな記号として自律する。いわば、”生きられた記号”である。それは、自己参照的(または自己撞着的に)断片として働き、人間の都市認識を変容させる。こうした自律性の生成の場が、記憶であり、都市である。

『アルド・ロッシ 記憶の幾何学』93頁

実践と理論の両方において、彼の作品には喪失感が漂い、不完全であることへの自覚が表れている。このアプローチには、ごく当然に、建築を分裂的行為よりも構築的行為として位置付けるイデオロギー的立場がある。ゆえに建築は、主にアレゴリーという手段によってメランコリーを伝達する。つまり、オルタナティブな意味を、形式的・物質的構造のうちに埋め込むのだ。その内容は形態と構築によって、思考の描写として表象される。

『メランコリーと建築 — アルド・ロッシ』23頁

ここでロッシが形態をこねくり回したり、有機的な形状を多用したかというとそうでもない。先に述べたように、彼は非常に限定的な幾何学を多用して、そうした感覚を湧きたたせる建築を生み出したのだ。ここにロッシの建築を理解しようとする時の難しさがある。
ここまで自分も備忘録を書いてきたが、この2冊のことをしっかり読めているかというとまったくそうではないので、何度も読み返すことになるだろう。

ところで、近年SNS上でアップされる建築的イメージを集めた書籍『DREAMSCAPES & ARTIFICIAL ARCHITECTURE』やリミナルスペース、The Poolrooms、バックルームスなどデジタル空間上に偏在する空間イメージには球や円をはじめとしたプリミティブな幾何学的なイメージが多く見られる。

これらの空間には、外部は存在しておらず内部的なイメージしか存在していない。つまり、「都市」のようなものは存在しない。にもかかわらず、都市との関係を重視したロッシのように幾何学モチーフが多く登場するのは、考えてみると面白い状況に思える。ロッシがドローイングを多く描いていたことからも、現代で色々思考するためには、こうしたデジタル空間上のイメージを通して得られることもあるのではないかと考えたりしました。


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