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二十代の遺言

「人が死ぬ」という原理原則は、頭では理解していても、心で理解することが未だに出来ていないと思う。

蟻地獄のようにジワジワと躙り寄ってくる死もあれば、青天の霹靂のように降ってくる死もある。

先日、大学の後輩が亡くなった。かつて一緒にゼミのメンバーをしていた後輩だ。険悪な間柄でもなく、かと言って親密な間柄とも言い難い関係。ただ、良い奴だったと思う。リアル垢でTwitterも相互フォローしていた。

これまで生きてきて、同じ学校の顔見知りが他界するということが初めての出来事だった私にとって、その報せを受けた時は頭がまず事実を理解出来なかった。

報せの中に鎮座する「なくなった」という言葉が暫く脳内変換されず、フワフワと身体の中を漂っていた。にわかには信じられない、けれど、報せを運んできた友人を見るに、どうも嘘をついている様子もない。そんな理由もない。

まさに青天の霹靂だった。最近、日常生活に「生」が溶け込みすぎていて忘れていたが、すぐ隣にも「死」は佇んでいる。平等に残酷な事実だ。

親も、友人も、恋人も。憧れの目標も嫌いな奴、どっちでもない中途半端な人も。大学教授も、志望企業の面接官も、よくいくカフェのオーナーも。

そして自分も。誰しもが「死」の隣で生きている事実から、ある程度の距離を置いて生活しているのだ。

大学の後輩の死因は心臓発作らしい。若者にも1000人に1人は起こりうる不整脈が原因だ。もちろんストレスや睡眠不足、過労でリスクが高まるが、健康に自信があっても起こる可能性がある。

20代。就活生。そんな私も、もれなく可能性に満ちている。だからこそ、高齢者だけでなく、誰しもが「終活」という概念を意識することは、あながち間違っていないのかもしれない。

私が死ねば、ここに残る全ての文は遺言になるだろう。樹木希林さんのような含蓄があるかはさておき、遺言であることには代わりない。

だから、恥ずかしげもなく、「遺言」として、今も、これからも文章を書き綴っていければと思う。

いつ死ぬか分からない。そんな事実は恐怖であれ、代わりに「生」の質を高くする。六文銭を携えて戦場に向かった真田軍のように。

「生」の濃度を高めていけば、遂に最期の瞬間が訪れた時にも、心残りなく逝くことが出来る、そんな根拠の無い自信がある。

二十代の遺言。それは、未来への宣言でもあり、過去の清算。ほとんどの人は、それをしようとしないけれど、私は二十代の遺言を引き続き溜めていきたい。

大学の後輩の御冥福をお祈りします。いつか、あっちで呑もうな。

#コラム


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ライター/イラストレーター。エッセイ/コラム/イラスト/マンガなどの制作物をポートフォリオとしてマガジンにまとめながら、販売もしています。長野県出身在住。Mail:yamaoide@gmail.com
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