御正忌報恩講に参詣 三年ぶり

浄土真宗本願寺派の本山である龍谷山本願寺は、京都市下京区の七条通りと堀川通りの交差点を北へ少し上がったところにある。その本山で今年も1月9日から16日までの七日間、親鸞聖人の御命日を偲ぶ、御正忌報恩講が行われているので、わたしは三年ぶりに参詣した。それは参詣というよりむしろ、厳密に言えば僧侶としての務めである読経、讃嘆、奏楽をするためでもある。行けるようになったのは本山の感染症対策が少しだけ緩和されたからでもある。県境をまたぐ移動を自粛するよう、国から要請があったことは記憶に新しい。国からの要請を聞き入れ、本山の参詣を控えてきたものの、正しく言えば参詣を禁じられているわけではなく、年間を通していつでも参詣できるが、御正忌報恩講に読経し、仏を讃嘆し、奏楽するというかなり狭い枠に限って言えば、2021年、2022年は全く行けなかったし、恐れから行く気にもなれなかったので2020年以来、つまり三年ぶりである。

「三年ぶり」か。

自分の口のなかで小声で言ってみると、何か感慨めいたものが少しだけ湧いてくる。たった数年だがわたしは何かにつけ毎年来ている。とても長い時間、ここへ来なかった。ここは本山。親鸞聖人が生きておられた頃より、「来る」「行く」という行為が、特別の意味を持っているのだと思う。聖地巡礼に似ているなと、アニメブームで仄聞する昨今の若者たちの行為を見て思う。行きたいのである。実際に見たいのである。実際に感じたいのである。「巡る」という行為は、人類が最初にした文明的な行為ではなかろうか。行って、見て、聞いて、においを嗅いで、触るのである。五感を満たすには行くという行為より高度なものは、これだけネット社会になっても存在しない。

宗教はこうした五感をくすぐるようにできていると思う。それは、人間の生と性を語るうえで、五感を抜きにしてはならないという思いから肉付けされているからではないか。御正忌報恩講に参詣し、読経し、仏を讃嘆し、奏楽したが、それは全身で仏を浴びる行為である。三年ぶりにそれが許された。その期間はとても長かったように感じられたが、終えた後の充足感はそれすら忘れさせるに十分だった。


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