熊野の旅 三たび
この12月、7日から10日まで、主人と和歌山県に行きました。
熊野の聖地と、高野山です。
目的は2つあり、
1つは、婆の願解き。
もう1つは、【主人が熊野の神々様を参拝できる】というご縁を、
家内である私、婆が、ぜひいただきたかったからです。
婆自身は以前、すでに参拝していました。
『 参拝できる 』と、あえて『する』と書かず、
『できる』と書いたのには、次回のnoteで後述しますが、婆の思い込みによる理由がありました。
それと、願解きの方は、今回はお礼参りではなく、
叶わなかった願いをお伝えして解いていただく為です。
お伝えしなくても、願掛けをした神々様方は知っていらっしゃるでしょうが、叶わなかったのには理由があるということなので、
この願いを解いてもらいに行きました。
今回の熊野の旅は、三度目で、
一度目は、急遽主人が行けなくなり、
思いがけずのひとり旅。
二度目は、娘の願掛け。
婆も自分の願いを、前回の旅以来、再度お伝えさせていただきましたが、
この時は、娘と、婆と、娘の娘(婆の孫・1歳前)の三人道中となりました。
そしてこの度、三度目。
この3つの旅で、感じたことを、時系列に書きたいと思います。
毎回、ほぼ同じ所に行きましたので、
"お勧めスポットの紹介” という感じにはなりそうもない気がします。
備忘録と、【嬉しかった・楽しかった・ありがたかった】というような、極々パーソナルな自己満の記事に多分なってしまうと思います。
それで、行く所が行く所なだけに、
ここからいきなり、ちょっとだけスピリチュアルっぽい話になりますが、
スピリチュアルっぽい話と言っても、
婆は、見えない存在が視えるというような特殊な能力は持っておらず、
何か特定の宗教だけを信じているというのでもなく、
クリスマスにはキリスト様マリア様の歌をうたい、
結婚式は、結婚式場内の神前で、三三九度を行い、
主人のお父さんの葬儀の前は、何宗?だっけ?え?曹洞宗?などと親戚皆なで、あたふたし、
自分の親の時は、南無妙法蓮華経というお経が流れ・・・、
というような環境に生きてまいりましたが、
(今こそ改めて実感する、ありがたき日本)
昨今、ブログや、SNSというものが出てきて、
今まで、表に出なかった能力者の方々のお話などが、匿名であっても読めたりするようになり、
その中でも、何となく自分的にしっくり腑に落ちる発言をされている方や、
自分目線で、信頼出来るように感じる方の話をチョイスして読んでいるうちに、神様はいらっしゃる! という確信になっていきました。
昔から幽霊系の話というのは、巷でよく話題になったり、
昭和時代からテレビ等でも、よく取り上げられて、
宜保愛子さんのテレビなどは、超怖💦リアルで、
あれは演技じゃないよ、あの表情は。ほんとに怖がってる・・・。
あの部屋に入りたくないんだなー、何が見えるんだろう。と、
こっちも、怖いっ💦と、すぐ目をつぶれる用意をしながらも、
多分、そういう存在はあるんだろうな、と漠然と思い、見ていたものでした。
でも、神仏に関しては、
神社仏閣に行けば手を合わせ、何かお願いしたりはしていましたが、
本当にいるのかなあ・・・?と確信は持てませんでした。
今は、『存在される』と思っています。
知覚できないものは、多く存在します。
若者しか聞こえない音という『モスキート音』。
それが聞こえるのか、聞こえないのか、どんな音なのか、
試してないので婆にはわかりませんが、
今年の夏の夜、自宅にいて、婆には聞こえて、主人には聞こえないという音がありました。
虫の鳴き声のような・・・?ジーッという結構大きな音だったんですが、
主人は聞こえないと言うのです。
外から聞こえてきて、窓を閉めると聞こえなくなるので、婆の耳鳴りや空耳ではないと思います。
年齢差はそれ程なく、日常こんなことは初めてで、え?なんで?なんで聞こえないの?とあわてました。
主人の聴力は、普段まったく問題なく、婆と同等です。
自分が聞こえているので、その時は不思議・・・、と思いました。
電気も電波も存在し、江戸時代の人にしてみれば、現代は信じられないことが実現し、恩恵を受けていますが、
電気も電波も、江戸時代の人が歩いていてすぐ見えるものではありません。
(現代人も)
そもそも電気という概念、言葉は、
日本においていつから生まれ、いつから伝わってき、いつから使われ、いつから一般化日常化したのか?
五感で知覚できないことだけでなく、知覚出来てもわからないことも世の中にはごまんとありますし、
って言うか、宇宙や人体や、宇宙の果てまで、何から何までわからないものだらけです。
わからないけど、存在しています。
その中のいくつかは、この先いくつか、わかっていくのかもしれません。
その時までは解らなかったけれど、解らなかった期間にでさえも、
確かに存在していたのです。
それで、婆は密かに個人的に
【伝線ストッキングの法則】と名付けた考え方がありまして、
ある女性が、膝丈ぐらいのスカートをはいていたとして、
ストッキングが結構目立つ伝線をしていたとします。しかも、ふくらはぎ側!
電車に乗っていて、混んではいないんだけど、席はいっぱいで空いていない。
女性はつり革につかまって立ちます。
すると、背中側の座席に座った人達からは、ストッキングの伝線に気づかれてしまう可能性が大、なわけです。
でも、ふくらはぎ側の伝線だから、女性は気が付かない、気が付けない。
で、気が付かない女性の心は穏やかで気分も上々です。
一言で言えば、諺 『知らぬが仏』。
そこで、何かの理由でうっかり気付いてしまったとか、
または、乗っていた高齢の女性の方が、その方の降り際に、親切にそっと耳打ちしてくれて、伝線を教えてくれたり、とか。
そうなったら最後、瞬間、女性の気持ちは暗転します。
恥ずかしくていたたまれなくなり、伝線を見えないように工夫して立とうと試みますが、どうしようもありません。
座れれば、一先ず人目から避けられて、しばしの安泰ですが、それも叶いそうにありません。
女性の頭は、いろいろな事をグルグル考えます。
どうしよう、次の駅で降りて、ストッキングを買うか?
でも降りたことのない駅で、どこで売っているのか探すのも・・・。
しかも、伝線ストッキングの身で!
それに、遅刻にはならない時間だけど、万が一遅れたくない。
どこで買って、どこで履き替える?
もう何とか凌いで、長いけど降車予定の駅まで我慢しよう。
モジモジ・・・。
目的地でトイレを探して・・・。
でも、この時間だと、コンビニしかない。
コンビニあるかな?
予備を持ってくれば良かった。
いつ伝線したんだろう?
あ”ー、恥ずかしー!
・・・と、ズドーンと気持ちが落ちます。
で、最後までとは言わなくても、せめて降りる駅まででも気がつかなければ、女性の心はハッピー♪だったわけです。
事実はどうあれ、知らぬが仏で、幸せ。
心を乱されずに、過ごせた。
実際問題としては、早く気がつけた方がもちろん良いので、
教えていただけたことや、早く気がつけたこと、
それによって、対処できて、身だしなみも整えられ、自分も後で家に帰ってギャァー😱💦!とならないで済んだことは◎なのです。
ですから、これはあくまで心理状態面だけの例えとしての話です。
この心理、法則は、いろいろ応用できて、
神仏が好きで、参拝に行くのも嬉しい♪
神仏がいると信じている。
それで、それを信じたまま生涯を終えたとして、
仮に、ですが、実際は神仏は存在していなかったとしても、
幸せに心穏やかにハッピー♪に生きたその人は幸せなのではないでしょうか。
その人が、別の誰かに、自分の考えを押しつけたり、
別の誰かに何かを強要したり、
不安感を駆り立たてて同調に導いたりとかは
いくら根っこのところは親切心からでも、それは、ちょっと・・・⤵、となりますが、
自分の中だけで完結していて、幸せなら、
誰の迷惑にもならず、幸せなら、
神仏が本当に存在するか、しないかにかかわらず、
信じているその人が、それによって心穏やかハッピーなら、
良いんじゃないかと・・・。
それで、そんな人が、今回婆なのですが、
そういう訳で、参拝に行って、何か嬉しいことがあると、
すぐ「これって、きっと、ご加護!♡」と、
芸能人のIKKOさんの、「どんだけ~」みたいなノリですぐ言ってしまうので、
息子や娘がいたりすると、口の前に即座に一本指を立てられ、
「しぃ~~!ひとに聞こえるよ!!!」
と焦って慌ててたしなめられ・・・。
・・・ですから、この後の文章中にも「これってご加護?♡」が頻出してしまい、
😒←こんな気持ちにさせてしまうかもしれません🙏
次のnoteは、最初の熊野ひとり旅です。