善と罪について
今回より投稿させていただきます。
記念すべき一回目のテーマは哲学的なお話になります。何かためになったり考える機会になれば幸いです。
さて、本題ですが皆さん、善というのは当然知ってますよね。では善の定義ってなんでしょうか?何が善なのか。罪とは何か。そこを掘り下げていこうと思います。なお、当noteはただ哲学的なお話と私の考えを書いて整理したいだけであり人の考えを否定したりするものではありません。
【善人について】
善人の定義を考えましょう。一般的な定義では善人とは人に優しいとか良いことをする。だと思います。これは行動と結果が結びついたものですね。しかしそれが本当に善人の定義なのでしょうか。行動と結果は別に分けて考えた方が良いと思うのです。その理由についても後で述べます。私の考えですが、本当に良かれと思って行動したのなら善人と呼べるのだと思います。しかし結果は別です。良かれと思ってテロを働いてようが良かれと思ってやってるなら善人だと思うのです。じゃあ許されるのか?当然違います。善人である前にこの場合は罪人です。善とは行動についてるタグのようなもので罪とは生まれた結果に対して付くものだと思っております。
【なぜ行動と結果を分けて考えるべきなのか】
これは簡単な話で「良かれと思ってやったんだから〜」がまかり通るからです。私の中では良かれと思ったやったならなんでも許されるのか?となるからです。しかし良かれと思ってやってしまった事に対する許しも当然どれくらいかによってはあるでしょう。では許しの範囲についても話します。
【善人の罪の許される範囲】
一度良かれと思ってやった事が罪だった場合のことです。基本的に倫理と道徳から外れない範囲だと私は思います。補完として例え話をしますとじゃあ間違えた薬を打って患者を殺してしまった医者はどうなるのか。というのですが、これも罪です。何故なら立場というものがあるからです。そしてこの場合で言う立場とは自身の責任との同意で立ってる場所と定義します。責任がある以上はわざとではない、知らなかったが許されない立場もある訳です。それとここまで読み進めているとこんな疑問が湧くかもしれません。「倫理と道徳は最初から誰もが知ってる持ってる前提で進んでる話じゃないか」という疑問です。これに関しては私が思うに倫理や道徳は人が人として生きていく以上弁えなければならないものだと思っております。倫理や道徳がなければそれは人ではなくヒトという動物に過ぎません。つまりは獣と変わりないというです。それについては次章で話します。
【獣と罰の必要性】
獣に対して倫理や道徳を解いても意味はないですがここで出てくるのが罰です。罰とは痛みや苦しみを与えるここでは定義します。獣でも痛みや苦しみはわかります。罪に罰が必要なのは規律のある社会を成り立たせるという意味でも必要です。罰なくして罪は意味を成さず罪なくして罰は形を成さずという事であります。獣は倫理や道徳が分からなくても罰は分かります。そうなれば避けるのは当然ですから社会にはめ込むことができるということなのです。
【最後に偽善について】
偽善の定義についてです。やらない善よりやる偽善とは聞きますが、偽善とは善意を偽ったものと書きます。しかし善を偽ったところで結果的に益をもたらせるものならば罪ではないと思います。上で話した通り罪とは結果に対してつく物ですからね。
今回は善についてお話しさせていただきました。初めてであまり慣れないものかもしれませんがご容赦を。
ここまで読んでくださった方ありがとうございます。
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