自然神との対話の足跡⑰
Before: 現地探索前
平成になって山あいで発見された岩屋岩陰遺跡の『巨石群』、これらは数千年前に使われたもののようです。
巨石群は数千年前にこの場所に配置され、暦を読むための天文台として使用されていたといわれています。
岩屋岩陰遺跡は岐阜県下呂市金山町岩瀬にあり、縄文時代早期から江戸時代の遺物が出土しています。この遺跡は、1997年以降、在野の研究者により天体観測に使用された可能性が指摘されています。
具体的には、太陽の年周運動によって太陽黄経が210° (霜降)、および黄経330° (雨水)の日の昼過ぎに、巨石の隙間から射し込んだ太陽光が洞窟状遺跡内部の石面に当たるとされています。また、同じ隙間から射し込む光は、雨水の9日後、および霜降の9日前の午前に、測定石と呼ぶ石面に当たるとされています。測定石に当たる光の位置で、4年ごとの閏年が判読できると市民団体は主張しています。さらに、岩屋岩陰遺跡巨石群を含む周辺の金山巨石群では、巨石の隙間や巨石面の角度などから春分・夏至・秋分・冬至の二至二分を含む12の中気を太陽の赤緯から測定することができると市民団体は主張しています。
こちら記事前半(Before)は、冬至(2023/12/23)が近づくこのタイミングで現地訪れて確認するための下調べになります。岩屋岩蔭遺跡は「自然神との対話の足跡(今の結論)、2023/07/19」の記事でも触れていましたが、これまで現地赴く機会を逸してしまっていました。もう少し遅いかもしれませんが、下呂温泉南西部の金山町岩屋ダムの近くにあるので、道中の紅葉狩りも楽しみです。
参照サイト
(1) 岩屋岩蔭遺跡 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/岩屋岩蔭遺跡
(2) 一体どこから運ばれてきたのか
https://www.tokai-tv.com/tokainews/feature/article_20210831_11070
(3) 下呂市金山町の岩屋岩蔭遺跡は6000年前に作られた! https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12317414617.html
After: 現地確認後(第一報)
冬至に近づくこの時候に、どうしても現地観ておきたかった岩屋岩蔭遺跡まで、2日かけてようやく辿り着きました。
高い山脈に切り込んだ深い谷ではなく、山といっても見通しが効き開放感のある金山町岩瀬・己原という地域は、日の出から日の入りまでのどの時間でも、少し移動すれば日差しを意識することのできる土地になります。
自然に向き合う意識と遊び心を持った縄文人は、きっとこの自然と太陽に戯れて、まるで「かくれんぼ」を楽しんでいるかのように、太陽の日差しを捕らえる装置を発明したのだと思います。
山の稜線をなぞるように命の恵みを供給してくれる太陽光に愛を込めて、わたし達の祖先は縄文の時代より、コミュニティの仲間と話し合って多くの巨石からなる作品を後世に残してくださいました。
稜線をなぞる太陽
2日目は焼石駅から、ささゆり峠を越えて岩屋岩蔭遺跡を目指しました(冒頭画像のルート)。山道を登りはじめたころに南中刻(12時ちょっと前)を向かえましたが、太陽☀️は山の頂(いただき)からすこしだけ顔を出す位置でした(写真の鉄塔の真ん中あたり)。
およそ25キロのかけ足の旅、どこでお弁当広げても絶品の自然に覚醒し続けさせられました。山の稜線と共に柔らかい日差しを常に意識する一日になりました。
岩屋岩陰遺跡は峠の下方の谷
実は前日には飛騨金山駅から馬瀬川沿いに上る道を模索しました。金山街中は複雑な路地が入り組んでいますが、街道は川沿いにシンプルな一本道です。午後の遅い時間に現地入りしたため、遺跡を目指すも日没過ぎてしまい遺跡への到達を断念しました。
巨石の存在と意味を探るには、やはり山に分け入る必要がありました。ここを訪れるまで山道の状態を心配していましたが、思っていたよりも広い道で整備されていました。
ささゆり峠を抜けると道はほぼ下り続けました。岩屋岩陰遺跡は峠の下方の谷あいに位置していました。
落ち葉を蹴飛ばしながら滑るように遺跡に近づいていけます。
散策ルートの変更が思考の転換となり、巨石群の成立を紐解くヒントを得ることができました。巨石がどこから来たか、なぜこの地で巨石群が構成されたのかなど、基本的な謎については自分の中に納得した回答を見つけることができました。この謎解き遊びは、これから訪れる人たちそれぞれが楽しんで欲しいと思います。
この地域に住む人たちがいかに石に親しんでいるかが建造物、道路などの作り方や配置の様子を見ればよく理解できます。それは縄文の時代からずっと受け継がれている私たちの誇るべき伝統です。
私たちの祖先(縄文人)は現代人よりも密に自然と戯れ、山と川と太陽を意識して暮らしていたのだと思います。そして、生身の喜怒哀楽、発見、感動などのメッセージをやはり後世に伝承したかった、その成果が巨石群アートになったと理解しました。
人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……