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シフトしないパラダイム、「アガペー」目の前の人を大事にするということ

 「地下鉄での気まずい出来事」という見出しの次のような投稿が以前産経新聞に載っていました。
 
  ある日夕、地下鉄車内での出来事でした。座れるスペースはほとんどありません。突然、年配の男性が強い口調で「ここは優先席だ。若い者が座っちゃいけないんだよ」と女性を注意したのでした。
 ところが、次の瞬間、その女性は「心臓にペースメーカーを埋め込んでいます。携帯電話の電源を切ってください」とあるフリップを見せました。つまり彼女は携帯電話の電源を切らなくてはいけない優先席に座るしかなかったのです。
 次の駅で彼女は無言で降り、車内は気まずい雰囲気になりました。注意した男性もばつが悪そうでした。
 私は思うのです。人を頭ごなしに注意してはいけない。また、公共交通の車内ではいっそのこと携帯電話などは使用禁止にしたらどうでしょう。IT全盛の世の中で考えさせられました。
 
 こういう体験をしたことは誰しもあると思います。自分が絶対に正しいと思い込んでいたことが、真実が明らかになることによって劇的に変化するという経験です。これをパラダイムシフト(paradigm shift)と言います。ここで言うパラダイムとは「その時代や分野において当然のことと考えられていたものの見方やとらえ方」のことで、それがシフトする、つまり、「移行」することがパラダイムシフトです。
 投稿記事の例では、「優先席」に健康な若者が座るべきではないというパラダイムが、若くても心臓にペースメーカーを埋め込んでいるという事実によって覆されたのです。投稿者が言うように、私も「人を頭ごなしに注意してはいけない」場合が多いと思います。背景にどんな事情が潜んでいるか分かったものではないからです。表面に現れた事象の背後にはその現象を生む原因があるはずです。その原因を探らずして真実を把握することはできません。とは言え、真実を把握することは至難の業です。人が心の中で何をどう思っているかは知る由もないことですし、人が本当のことを話してくれるかどうかも定かではありません。
 さて、パラダイムシフトが起これば、当然、私たちもそれに対応してものの見方や考え方を変えることが必要となります。パラダイムシフトに気づいてうまく対応できればそれでよいのですが、パラダイムシフトに気づかない、あるいは気づいても対応できなければ、企業なら業績悪化に陥って倒産する危険性がありますし、人間なら恥知らずとか無神経とか言われて人間的評価が下がることになりかねません。しかし、いつでもどこでもどんな場合でもシフトしない絶対的なパラダイムが存在します。
 
 「何より肝心なのは、自分に忠実であれということだ。そうすれば、夜が昼に続くように他人に対しても忠実になる」(『ハムレット』福田恆存訳)というシェイクスピアの言葉があります。ここで「忠実であれ」と訳されている英語はtrueです。trueには「本当の、本物の、誠実な、間違いのない」といった意味がありますが、ここで言うtrueは、“showing respect and support for a particular person or belief in a way that does not change, even in different situations”「状況が違っても変わることなく特定の個人や特有の考え方に敬意と支持を示す」という意味です。簡単に言えば、「大事にする」ということです。自分自身を大事にしない人が他人を大事にすることはあり得ませんし、大事にされてこそ人は安心感や自尊心を得ることができるのです。
 また、「隣人を自分のように愛しなさい」(「マタイによる福音書」第22章、新共同訳)というイエス・キリストの言葉があります。この場合の「愛」はギリシア語でアガペーと言い、「神の持っているような私情を離れた無限の慈悲」を意味すると言います。このような「愛」の概念は私たち日本人には恐らくないでしょう。したがって「love your enemies」(「マタイによる福音書」第5章)と言われても、普通なら「そんなことは無理」と答えるでしょう。当然のことです。敬虔なクリスチャンならキリストの言葉に従えない自分に苦しむかもしれません。しかしキリストは、敵を好きになって愛せと言ったわけではありません。
 「愛する」という言葉について、『精選版 日本国語大辞典』の「語誌」は、「⑴対象となるのは人・動植物・物事などさまざまであるが、対象への自己本位的な感情や行為を表わすことが多い。また、人に対して使う場合は目上から目下へ、強者から弱者へという傾向が著しかった。⑵明治中期英love ドイツlieben などの翻訳語として採用され、西洋の「愛」と結びついた結果、人に対しては、対等の関係での愛情を示すようになる」と解説しています。
 つまり、日本語では「可愛がること」や「哀れみ」や「慈しみ」のような意味であったものが、西洋語の「愛」の概念の翻訳語として採用されたために誤解が生じてしまったのです。
 
 『新約聖書』は1~2世紀頃にギリシア語で書かれていますが、そのギリシア語には、英語にもない、四つの愛の形があると言います。
 一つ目はストルゲー(ギリシア語はστοργή で、それをローマ字で書き表したものがstorgē、以下同じ)で、これは家族の愛をあらわす言葉です。親子や兄弟姉妹が相互に感じる自然な愛情です。
 二つ目はエロース(έρως érōs)で、これは男女間の愛情を示します。
 三つ目はフィリア(φιλία philía)で、これは友情などに見られる親愛の情を意味する「友愛」と訳せるものです。
 四つ目が先に述べたアガペー(αγάπη agápē)です。私はこのアガペーを、卑近ではありますが、「自分の目の前にいる人を自分と同じように大事にする」という意味なのではないかと思っています。敵に塩を送った上杉謙信も、敵であった武田信玄が好きで塩を送ったわけではありません。今川・北条の塩止めに苦しんでいる好敵手を大事に思ったからこそ塩を送ったのです。そしてこの「目の前の人を大事にする」ことこそが、シフトしない絶対的なパラダイムなのです。

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