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中国マカオ、2度と体験したくない黒組織の借金

こちらは、副業ガイドで掲載できなかった記事となります。

10年以上昔のことです。日本の機械系メーカーで営業や調達に携わってきた私は、50才台も後半に入るころ、中国広州で駐在員生活を送っていました。そこで思いもよらず、借金を抱えることになったのです。相手はマカオの黒組織です。辛い記憶は誰にも明かさず封印するつもりでした。

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皆さんは多額の借金を背負った経験がありますか。借金をつくった自己嫌悪、進まない返済、社会からつまはじきにされる惨めさ。2度と体験したくありません。何故こんなことになったか顛末をお話しします。皆さまの教訓になれば幸いです。

●世界遺産と賭博の街マカオ

マカオはポルトガル統治時代の面影を色濃く残す世界遺産の街です。昔からカジノが有名でしたが、中国返還後は本土からのお客様が大挙押し寄せ、今や世界最大のカジノリゾートです。

広州在住時代は年に5~6回マカオを訪れていました。広州からマカオはバスで2時間ほどですが、越境手続きが大変です。中国の出境に3時間かかり、マカオ入境に2時間、ようやくマカオに入ったら夕方だったこともありました。

マカオのカジノの多くはホテルやショッピングセンターなど複合施設にあります。私は身の破滅を防ぐため自分でルールを決めていました。持参の現金は5万円(相当)まで、徹夜賭博にならないよう日帰り、女性は帯同しないこと。女性がいると、つい見栄を張って気前のよさを見せようとするものです。

そんなある日、広州の日本人向けスナックで出会ったのが梶野君(仮名)でした。40才台半ば、無口で物静か、真面目そうだが身元は不明。それまで一二度顔を合わせたことはありましたが、言葉を交わしたのはその時が初めてでした。外見に似ず大の賭博好きで、マカオは隅の隅まで知り尽くしているとのこと。大王製紙の創業者一族がカジノにのめり込み、会社のお金を使いこんだ事件はまだ世間に知られる前でしたが、カジノに特別VIPルームがあるとの噂は聞いていました。梶野君は入ったことがあるというのです。

次の休日、連れだってマカオに行くことになりました。カジノのなかでは別行動です。私はいつものルーレット、梶野君はどこかに消えました。
その日は好調で5万円の資金は、倍近くに膨らんでいました。そろそろ切り上げ時と思ったそのとき、梶野君が戻ってきました。
「ちょっと一緒に来てくれないか。」とあわてた声。「すぐそこ。5分で済むよ。」と背中を押され、近くのバーに連れて行かれました。

なかには立ったままの2人の男。スーツにネクタイ姿の銀行員のような身なりです。
「この書類にサインするから、立ち会ってくれないか。」と梶野君。
「立ち会うだけ?僕のサインはいらないね?」
「そう、横で見ていればいいよ。」

●広州深夜のバスターミナル
2カ月がたったころ、いつものスナックで飲み終えた私は深夜の街をアパートに向けて歩いていました。アパートの裏手は路線バスのターミナルです。橙色の夜光灯にほのかに照らされて、何十台ものバスが止まっています。人は誰もいません。ターミナルを斜めに横切ってアパートに戻ろうとゆっくり歩みを進めたときでした。1台のバスの陰からふいに男が姿を現しました。

「○○(私の名前)さんだね。梶野はどこにかくまった?黙っていると、あんたに害が及ぶよ。」
「どなたですか?」
「声が震えているぞ。梶野のいくえを教えれば、あんたは放免だ。変な義侠心は起こすなよ。」
「梶野君はあの時が初めてです。私は関係ありません。」
「強情をはると、この50万ドルあんたから返してもらうぞ。立ち会ったのは覚えているな。梶野が逃げたなら、借金は保証人のあんたから取り立てる。」

そう言われれば、その後梶野君の姿を見ていません。50万ドルとは、50万香港ドルのこと。マカオのカジノは香港ドルが使われます。当時の為替レートで約600万日本円でした。口ぶりからは、あの日梶野君は賭場の金がなくなり借金したようです。常連客はカジノから借りられますが、梶野君が借りたのはマカオに巣食う黒組織のようでした。

賭博で借金をつくり、中国大陸を逃げ回る人の話を聞いたことがあります。マカオにはこうした人をどこまでも追い続けるプロ組織があるそうです。逃げ切ることは不可能で、捕まったら最後借金返済だけでは済みません。梶野君はどこかに姿をくらましたようです。中国大陸か日本か、それ以外か分かりません。私が本当に知らないことはその男も分かったようで、私に暴力を振るうことはありませんでした。

私は書類にサインしたわけではありません。借金の保証人になったわけではなく、法廷に立てば無罪は間違いありません。しかし、この黒組織の男たちに法律はありません。借金を肩代わりするか、逃げ回るしかないのです。

●広州のクラブでアルバイトの日々
理不尽な借金を背負わされたわけですが、少しずつでも返済する以外ありません。私はある日本企業の広州駐在員でした。会社に知れたら首です。日本に残した家族を路頭に迷わせることになります。ことが表ざたにならないよう、ひそかに返済するしかありませんでした。

広州には日本人向けのクラブが何軒もあります。クラブを楽しみに日本から来る出張者が後を絶ちません。お目当ては「お持ち帰り」です。単身赴任の駐在員は、もっと楽しみなことがあります。月のお手当を決めて、彼女をつくる人も多いのです。

需要のあるところには、ビジネスが生まれます。農村から女の子を連れてきて、クラブのお客に紹介するアルバイトがありました。
当時の中国の農村は貧しかった。テレビはありましたが、洗濯機、冷蔵庫、電話、水道はありませんでした。洗濯は近くの小川でして、飲料水は村の共同井戸から運ぶなどめずらしくありません。女の子たちは中学校を卒業すると、町に出て働くのがあたりまえでした。こうした女の子たちがより高賃金を求めて、広州、上海などに流れてくるのです。農村から女の子を連れだしてお客さんに紹介するビジネスは、両親公認で喜ばれていたのです。

女の子のお手当は月8千元(当時10万円)から1万元でした。私たち仲介者はその3カ月分もらうのがしきたりです。毎月確実に実入りがあるわけではありません。グループでやる仕事ですので私の収入はたかが知れていました。
リーダーは私が借金を背負うことになった事情は知りません。私の中国語が可笑しいといつも馬鹿にされていました。平日は駐在員としての勤務がありますので、身軽に動けません。グループ仲間からも冷たい目で見られ、「役立たず」とののしられるのはいつものことでした。

生活費はぎりぎりに切り詰めていました。屋台の麺は1杯5元(約60円)から食べられます。夕方、市場では売れ残った野菜を束ねて3元で売っていました。爪の先に火をともす生活を続け、歯を食いしばって借金返済を続けました。

●最大の危機到来、乗り越えられるか?
何度も挫折しかかりながら必死で返済を続け、何とか残り半分まできた頃、最大の危機が訪れました。毎月返済金の受取りに現れる黒組織の担当者が変わったのです。それまで返済を頑張れたのは、年10%の利息で勘弁してくれたからです。新しい担当者は、年30%を要求しました。30%はこの世界では安いほうです。しかし私にとっては利息の返済だけでやっとの状態になります。

私の借金ではないこと、保証人ではないことを必死に説明しました。新しい担当者は、変な日本人だなと思いながら私を見ていたようです。3カ月が過ぎたあと10%の利息に戻してくれました。黒組織にも正義と人情はあるのです。

こうして全額返済を終えるまでに5年かかりました。クラブのアルバイトのほかに、日本人相手の観光ガイド、外国人向け足裏マッサージ店のレジ係などをやりながらの辛い日々でした。日本人の目の冷たかったこと。いい年をした日本人がなぜこんなところでと、さげすむ目付きはこたえました。
なんとか返済できたのは、中国が毎年10%を超える経済成長を続け、アルバイトの口は豊富で給料が上昇する時代にあったからです。

●まとめ
梶野君の行方はその後も分かりません。彼についてカジノに行ったこと、書類サインに立ち会ってしまったこと、黒組織からの借金肩代わりの要求を受けてしまったこと。反省と教訓はいくらでもあります。

でも日本に戻り、最近思うのです。実は梶野君は黒組織とグルだったのではなかろうか。最初から私をハメたのではなかったか。スナックでの出会いからして、うまく出来過ぎのように感じるのです。
海外で暮らしていると、日本人同士つい信用する心理が働きます。異国で近づいてくる人物を簡単に受け入れてしまう脇の甘さがありました。

すべての人間を疑ってかかるのは、自分をさもしい存在にするだけです。そうではなく、一歩一歩距離を近づけながら、人間関係を築いていく堅実さが必要でした。梶野君との付き合いは慎重に人物を見極めてからにすべきだったのです。これが最大の教訓です。

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いかがでしょうか?

自らが作った借金ではないものの返済する経験なんて、自分にはない。と思ってるかもしれませんが、明日はどうなるかわかりません。

どんな苦難に遭っても、前向きな姿勢と稼げる力を身につけておくことが窮地を救います。

儲かる副業に関しては、副業ガイドを見てください。

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