さくらのうた が出来るまで

「さくらのうた」は2011年に完成…それからさかのぼること15年。

自分が21歳のときに、吹奏楽曲としては2作品目となる「楓の詩」を作った。これもしっとりと歌う曲で、実は同じ6/8拍子。この作品を「管楽合奏のための作・編曲コンテスト'96」(日本管打吹奏楽学会主催)に応募したところ、オリジナル作品賞を受賞する。

これに調子づいて、楓の詩が秋だったから、春の歌を作ってみようかと考えていたのだと思う。安易な発想といえばそれまでだけど。

どんなメロディがよいか、どんな雰囲気がよいかと思案する中、すぐに「桜の花咲くころに」というタイトルを思いついた。そしてそのコトバが流れるフレーズもすぐに思いつけた。これが[B]からのフレーズ。

次年度のコンペに出せるようにと、少し手がけるも、当時の自分にはそのメロディを展開させるだけの技術が備わっていなかっていなかったのだろう、[B]のメロディを思いついたまま、手をつけることはできなかった。作風はその時の自分の持っているコトバづかいがそのまま浮き彫りになる。

だから「さくらのうた」のニュアンスは「楓の詩(1996)」と近似している、と思う。もちろん15年たって作り方は成長したと思うけど。15年の間に、いつかはこの曲を作り上げてみようと思っていた。

そんな中、真島俊夫大先生が、
「さくらの花が咲く頃」というタイトルで作品を発表してしまったwwww

あー先を越された…

それでも、この[B]からのメロディは、ずっと脳裏に焼き付いていた。いつか、いつか作ろう。けど、きっかけが必要だ。

「風之舞(2003)」以降、たびたび課題曲の公募には挑戦している。ずっと、吹奏楽の新しい表現をビギナーにも新鮮に体験してもらうことと、コンクールという目的だけで終わらない「課題」曲としての作品づくりを模索していた。

1次で落選が続いた。何が必要とされるのか、何を作ればよいのか。

…悩まされた。

さくらのうた、実は第21回朝日作曲賞(2010年度)の公募に出そうとしていた。2010年3月に、コンデンススコアまで書きあげるも、あっという間に時間がなくなってしまい、まさかの「提出できずじまい」という惨めな不戦敗。

そして2011年2月くらいから再度とりかかる。ほぼ完成が見えたときに、まさかの、
あの東日本大震災。
作業は、見事に止まってしまった。

大震災を経験して、自分という人間が中心にしている、音楽という行為そのものを見直すことになった。

音楽で何ができるのか、何もできないのではないか、
いや、音楽は人に鋭気を養うことができる。

静かに寄り添うパワーを確信した。これはちっとも大げさなことではなかった。一緒に活動している学生や仲間たちと、音楽を再開できたときに、感情が静かに疾走していったのがわかった。

そうか、「うた」が必要だ。だから、作品の仕上げの段階で、「うた」に対して真摯に向き合うオーケストレーション、という考え方が前に立ち、自分のバランス感覚をフル回転させた。

最近にない緊張感を持ちながら、スコアを提出した。
4月末に、1次通過の通知が来る。実に、風之舞以来のことだった。

正直なところ、「さくらのうた」は1次で落選するか、最後まで残るかの、どちらかだと思っていた。ハッキリとした勝算なんて無いけど、なんとも言えない自信があったというのも確か。
だからこそ、1次を通過したとたん、勝負心が燃え上がった。そして、とてもナーバスになったと記憶している。

6月の本選会まで1カ月半の間に、楽譜の手直しと、楽曲アナリーゼが自分の課題となった。
その間、おかげさまでチャレンジングな仕事をいくつも担当させていただいたこともあり、メリハリある精神状態ではあったけど、「さくらのうた」に対してだけはナーバスになる。無意識に、自分の命運をかけていたのだと思う。

20代の集大成として風之舞を作り上げた。
30代で、もう一段上のステップに上がりたかった。

そのチャンスがやって来たのだから、それはそれは緊張の極みだ。

こんなにスコアリングの最終チェックで悩まされたことはなかった。文字通り「磨き抜いた」スコアだ。

体調万端に大阪に向かうも、新幹線の中でスコアチェックをして、やっぱり落ち着かない。
リハーサルで指揮者の吉田行地氏、そして大阪市音楽団の皆様と、どのようにすればスムーズにやってほしいことが伝わるのか、またどんな演奏でプレゼンしたいのか…

いろんなことがいっぺんに試される気がした。作者としてのポリシーと、コミュニケーション能力ww

リハーサル会場に早くに着き、吹奏楽連盟の方と談笑したりして待っていると、見た人が入室してきた。

「あ」

足立正さんだった。お互いに
「うわあああ、ここであいたくなかったねwww」
風之舞のときにも、同じファイナリストだった。

しかしながら自分の中の緊張がいっぺんに和らいだ。会えてよかった。その途中で、またもよく見知っているK氏。お互いまた「うわっ!!ここであいたくなかったwww」
ここで自分の作家友人2人に会うと思わなかった。
途中で長生先生とガチ対決となった日影貴文氏も入室してくる。

「さくらのうた」リハーサル。
テンポの設定はゆったり。
6/8拍子のとらえ方と、ドラマのピークポイントの設定、
そしてバランスなどのチェックをした。

「うたうことがテーマの音楽なので、うたう演奏として、あとはお任せします!」
とお願いして終了。
特に混乱はなく、むしろスムーズなリハーサルだった。

終わって、控室に戻りまた皆様と談笑。
引き上げる頃になって、長生先生まで登場。

…今回のコンペ、激アツすぎる。

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本選会は翌日。作者は立ち会えないので、大阪で友人に会ったりして、のんびりと過ごす。

夕方に宿へ戻る。待てども待てども連絡がこない。

1時間、こない。
2時間、こない(汗)
3時間、こない(涙)

それにしても他の作家さんから報告が来ない。どーなってるのか。
見知ったみなさんがみんな朝日賞落選というのも、さみしい。
せめてだれか受賞してくれたら…と思い、

足立さんやKさんや日影さんとメールしてみたりしていた。
「お互い、気長に報告を待ちましょう」
ということで、あきらめて宿で仕事を始めた。

!!!

途中で知らない番号から携帯が鳴った。

「ふくださんが朝日賞です」
「ありがとうございます!」
両親に電話をした。

電話の向こうで弾みっぱなしの両親の声に、
わからないように静かに泣きながらお礼を言った。

オフレコだったけど、友人にもそっと報告をした。
昨夜も一緒に呑んでいた大阪の友人達に、精一杯祝勝して頂いた。

翌朝の新幹線の中で、メールがひっきりなしに届いた。
みんなが「新聞みたよ」と言ってくれた。
自宅近くの神社に
「ありがとうございました」と一礼して帰り道としたとたん、

神社のカラスが脚で私の後頭部をバシンと蹴っていったw

ヘンなお祝いをいただいてしまった。

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