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福田屋ものがたり 〜歴史紐解き編〜

第1話


JR新今宮駅の高架のすぐ南にある、昭和感あふれる福田屋本館。2022年には、駅の北側に、大きな白い星野リゾートOMO7大阪が開業しました。新旧相乱れる新今宮駅周辺。この土地はどんな歴史をめぐってきたのでしょうか。このあたりの歴史地理に詳しい大阪公立大学特任教授の水内俊雄さんにお話しを聞きながら、紐解いていく福田屋周辺の生い立ち。その前編です。お話はなんと江戸時代から始まります。

水内俊雄 大阪公立大学特任教授
左側 株式会社ナリッジ・クリエイション 柳本

水内 江戸時代、今福田屋のあるあたり一帯は、今宮村と呼ばれていたんですね。江戸時代、大阪市中は「大坂三郷」と言われ、30~40万人の大都市。その大阪市中の日本橋から南に紀州・住吉街道が延びており、その一里塚がちょうど今宮村にあります。四天王寺の西門へ続く東西の道と紀州・住吉街道が交わるあたりが中心集落で、十日戎で有名な今宮戎神社(※1)があるあたりですね。今宮村は街道ぞいの近郊農村だったんです。今福田屋があるあたりは、さらに街道を南にいったところで、一帯はおそらく畑。

「増脩改正摂州大阪地圖」(1806年)(国立国会図書館デジタルコレクション)(https://dl.ndl.go.jp/pid/2541883/1/2)を加工して作成
中央やや右寄りが今宮村集落

柳本 畑場八カ村という言葉もあり、今宮村を含む周辺の村は、江戸時代、大阪三郷への「そ菜」の供給地であったとされています。(※2)このあたりの上町台地の西側は、湧き水がいまでも出ていて、当時から水が豊富だったことでしょうし、今も残る斜めの道の幾本かは元は川(水路)だったという話も聞いたことがあります。
水内 今宮村から南、集落が切れたあたりの紀州・住吉街道の東側には、江戸時代に設置された鳶田墓と刑場がありました。江戸時代の今宮村は、「住吉名勝図絵」を見てもらったら雰囲気がよく分かります。西から住吉街道を見た図で、今宮村集落から続く住吉街道の向こうに鳶田墓、その向こうに上町台地の上の松林が見えます。
柳本 鳶田墓は大阪七墓の一つですね。

住吉名勝図絵(1795年)より(早稲田大学図書館)
左が今宮村集落、街道を往来する人々。一番右頁の中ほどに鳶田墓とある。

水内 よく誤解されてますけど、当時の鳶田(飛田)は、今の飛田新地の場所というより太子交差点のあたりで、そこに鳶田墓ができたんですね。明治維新後、鳶田墓と刑場は江戸時代的な制度として廃止されます。お墓は、明治初期に開設された阿倍野墓所に移設されました。
柳本 江戸時代は農村だった今宮村、明治になって最大の変化は何でもたらされたのですか?
水内 鉄道です。この地域はこの鉄道敷設が非常に大きいですね。明治18(1885)年に、今宮村の集落の西側をかすめて、現存する日本最古の私鉄である南海電車(当時は阪堺鉄道)が開業しました。その頃はもちろん、地上を走っていました。そして、明治22(1889)年に、今のJR関西線(当時は大阪鉄道)が開業しました。上町台地を掘削し、その掘割に阿倍野橋が架橋され、取った土を西側に盛り土して、地上の南海鉄道の上をまたぎました。当時は、南海が下、JRが上だったんですね。
そして、その鉄道の盛り土の堤が、今宮村を南北に分断してしまいました。その後、明治30(1897)年に、北側は第一次市域拡張で大阪市に編入され(当時は南区、今の浪速区)、南側は西成郡今宮村として残されました。今宮村は、人家のほとんどない街道と畑だけになったわけですね。

「眺望閣からみた日本橋筋の木賃宿街」(1890年ごろ)Kjeld Duits Collection / MeijiShowa.comより

参考写真:真ん中が日本橋筋の木賃宿街。右方向へ行くと今宮村へ行きつきます。もう少し小さな集落でしょうか?同じように周りは畑?当時の大阪近郊の村の風景を想像してみてください!

柳本 今宮村が木賃宿街(※3)になったというのはいつからなんですか?
水内 明治31(1898)年に「宿屋営業取締規則」により、大阪市域での木賃宿の営業が規制されるんですね。それを機に、市域のすぐ南に位置する大阪市外の今宮村の紀州街道沿いに木賃宿が建ち始めたのではないかと。明治41(1908)年の地形図には、街道沿いの木賃宿郡らしきものが確認できます。鉄道の南側の東西の道の南側にも建物群があるので、それがちょうど今の福田屋さんのあたりですね。これらが、西成の簡易宿所街の始まりと言っていいでしょうね。

2万分の1地形図「大阪東南部」(明治41(1908)年)
真ん中縦に紀州・住吉街道。紀の字の左上に木賃宿街。線路との交点南東側にも建物群。東西の線路は、今のJR(当時は関西鉄道←大阪鉄道から譲渡)。左に「はぎのちゃや」とあるのは南海本線。右下の斜めの線路は、南海天王寺支線(明治33(1900)年開業)。地図上部、博覧会場跡地は、しばらく陸軍の施設として使われた。

柳本 今の福田屋さんの場所は、その当時に畑から木賃宿街になった場所だったんですね~。
水内 明治36(1903)年に、今の新世界・動物園の敷地で「第5回内国勧業博覧会」が開かれ、日本橋筋沿いの木賃宿街を南側(大阪市外)へ強制移転したという説が以前はありましたが、実際のところは、明治31(1898)年の規制を機に、博覧会後くらいから木賃宿が大阪鉄道線路の南側、特に街道筋にできていったということのようです。明治45(1912)年には、博覧会跡地に、ルナパーク(遊園地)や劇場・映画館・国技館・遊技場が集まることになる新世界がオープンしました。今宮村の木賃宿街は、1910年代半ばには、50軒前後5千人規模になっていたようです。明治30年大阪市域外の今宮村の人口は千人程度でしたが、大正初期には約2万人になったと言われています。
柳本 そのころ人口が急速に増えたんですね。福田屋さんの創業は明治45(1912)年とされています。ちょうど木賃宿街が規模を拡大していく時期ですね。

水内 また、それ以前、明治30(1897)年ごろ、鳶田墓の少し東に燐寸(マッチ)工場ができています。そこで働く労働者たちの住む長屋が工場周辺にできたようですが、明治36(1903)年に刊行された調査報告書では、その周辺の長屋に住む低所得の都市住民の厳しい生活環境が報告されています。明治45(1912)年には、大阪自彊館(今は社会福祉法人)が、今宮村で社会事業を始めています。明治期後半には都市特有の過密住居・生活困窮問題がすでに発生し、今宮村はそれを受け止める街として発展し始めていたんですね。

「大阪市街全圖:實地踏測」(1912年)より(資料所蔵者:国際日本文化研究センター)
紀州街道ぞいに木賃宿街、ルナパーク南に燐寸(マッチ)工場と周辺長屋がみえるが、他はまだ畑地。紀州街道のすぐ東に平行する阪堺軌道阪堺線は明治44(1911)年開業。

江戸から明治へ、農村から都市の周縁部へ、さあ、この後、大正、昭和、平成、令和と進みますよ!続きをお楽しみに。

(※1)今宮戎神社は、今宮村の村社である廣田明神の摂社。今や摂社のほうが本社よりも大きく有名ですが。
(※2)西成区HP区の概要
https://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/page/0000000788.html)より
(※3)木賃宿とは、煮炊きのための燃料代(木賃)程度の宿代で宿泊できる宿のこと。転じて安宿のこと。多くは大部屋の相部屋。明治期以降は、都市労働者の長期滞在場所にもなった。

Special Thanks to Kjeld Duits Collection 


文責:株式会社ナリッジ・クリエイション
写真:株式会社サミット不動産

第2話(NEW!!)

R新今宮駅の高架のすぐ下にある福田屋本館。歴史紐解き編では、福田屋本館があるこの地域の歴史地理についてご紹介しています。第1話は、江戸時代から明治時代のお話でした。さて次は大正、昭和前期のお話となります。今回も、大阪公立大学客員教授の水内俊雄さんのお話をお伺いしながら、この地域の移り変わりを見ていきます。

水内 前回でも触れましたが、福田屋のあるあたりは、ちょうど紀州・住吉街道と鉄道が交錯している場所ですね。大阪市域に接した街道筋であり、明治後期から急速に都市化していきます。福田屋さんの創業は大正元(1912)年とのことですが、ちょうどその頃ですね。
 おさらいになりますが、明治44(1911)年に、鉄道の北、紀州街道の東側に一大遊興地としての新世界がオープンし、人目を惹く集客の地となります。

柳本 大正2(1913)年には、今宮村は今宮町になるんですよね。明治31(1898)年に今宮村(※1)の人口2551人だったものが、今宮町になった大正2(1913)年には18,342人になっており、さらに大正9(1920)年には50,077人となっています。(※2)二十年ちょっとで、すごい人口増加ですよね!

水内 大正7(1918)年には、現在の飛田新地の場所で飛田遊郭が営業を開始します。これは、大正元(1912)年に難波新地や南地五花街が火災で焼失し、近郊の新地として開発されたものです。飛田新地のあたりは今宮村(町)ではなく天王寺村なんですが、市街地化は大正10(1921)年の地図では相当進んでいることが確認できます。大阪市資料(※3)では、大正13(1924)年に耕地整理が認可されていることになっていますが、たった数年前、飛田遊郭開業の当初は、まだまだ畑のど真ん中だったんですね。

(左)出典)『萩まちだより』19号(2018年)より   経営前の飛田(大正5年)とある。
「遊郭免許指定地」の杭あり   畑です。遠くに燐寸工場の煙突が見えます。
(右)1万分の1地形図「大阪南部」(大正10(1921)年)(水内俊雄氏所蔵)より作成
現山王地域と飛田新地が形成されてきています。左の写真から、たった5年後です。

水内 さらに、同じ時期(大正7(1918)年)に、福田屋さんの線路を挟んだ北側、今の星野リゾートの敷地に、中山太陽堂本社工場が操業を開始しています。中山太陽堂は、クラブ化粧品などの製造販売を行っていた会社で、今のクラブコスメチックスです。

柳本 クラブコスメ!有名ですね。懐かしの双美人マークとか。。。

水内 中山太陽堂は、大正ロマン薫る広告を展開したほか、文化事業にも熱心で、プラトン社という出版社を設立して雑誌『女性』を発行したりだとか、ブラトン文具という会社で早川兄弟商会のシャープペンシルの製造を引き継いだりとか、大正・昭和のモダニズムをけん引した存在ですね。早川SHARPの生まれるきっかけともなりました。

株式会社クラブコスメチックス文化資料室(ミュージアム)ホームページ第17回企画展ブックレット https://www.clubcosmetics.co.jp/pdf/20220601.pdf より抜粋

柳本 モダニズムのかほり。。。

水内 大正12(1923)年は、関東大震災があった年ですが、その頃の「大阪市パノラマ地図」を見ると、端っこに今宮町も図示されています。右上から左のほうへカーブしているのが、省線(その後国鉄から今のJR)で、その内側の大阪市内はもう建物でぎっちり。その外側が今宮町ですね。下の地図上辺左上から右下への斜めの直線が、下から南海鉄道、紀州街道、阪堺電車です。その上の市電は、省線の内側で折れて天王寺方面に向かっています。南海天王寺支線も右下から天王寺方面に向かっています。
 線路沿い、街道沿いは、すでに建物が密集しています。今宮町の今の字から左は、畑地の中に住宅と工場(煙突が見えます)が点在しています。そこは区画がきれいな四角になっているのがわかると思いますが、実は、今宮町(村)は明治の末から大正中期にかけて、日本で初めて耕地整理というやり方で宅地開発も視野に入れた土地区画整理が行われた地域なんです。このパノラマ地図でよく分かりますよね。

「大阪市パノラマ地図」(資料所蔵者:国際日本文化研究センター)より作成

柳本 今の福田屋さんの位置は、省線の線路と紀州街道の交点から西に入った道が斜めに曲がるところなので、どんな地図でも場所が確認できるのですが、このパノラマ地図でもすでにぎっしりと建物が建っている区画になりますね。

水内 斜めの道があることで分かるとおり、江戸時代のあぜ道や用水路を踏襲して道ができそのまわりが自然発生的に市街地化していきました。このあたりが区画整理されるのは、後の時代になります。具体的には、皮肉にも太平洋戦争の空襲で焼け野原になった後ですね。それは、また後程語りますが、福田屋さんの横斜め道だけは区画整理からはずれ、江戸時代の区画のままなのです。

柳本 このパノラマ地図から後の変化は?

水内 次の大きな変化は、道路と地下鉄ですね。今宮町は、大正14(1925)年に、第2次市域拡張で、大阪市に繰り入れられます。今宮町と西隣の津守村、南の玉出町、粉浜村が合併し、西成区となるんですが、その同年に刊行された地図を見てください。道路計画が赤い点線で書いてあります。大国町から南へ一本(今の国道26号)、その道が省線に交差する点から鉄道の内側に沿って東へ一本、そして、恵美須町から南へ延びた市電の走る道を、省線線路を越えて延伸する道(現堺筋)などが見えます。

「大阪市街圖:實地踏測」(1925年)(資料所蔵者:国際日本文化研究センター)より作成

柳本 福田屋さんから出てきた資料で、昭和9(1934)年に都市計画実施のため建物を減築して改築するための申請書というのがあるんですが。

水内 なるほど、それは貴重ですね。実際の道路は、線路の北側を東に計画された道ではなく、線路の南側に沿って作られたんです。今の市道の通称尼平線です。それは、地下鉄御堂筋線を作る工事と一緒に施行されました。当時は露天掘りで地下を掘り、出来上がった後に蓋をして道路にしたんですね。

出典)『萩まちだより』06号(2017年)より
阿倍野区旭町付近の工事風景 地下鉄御堂筋線 動物園前駅~天王寺駅間

水内 地下鉄御堂筋線の難波から天王寺間は、昭和13(1938)年に開業しています。昭和10(1935)年の地図と昭和12(1937)年の地図がありますが、昭和10年のほうの地図は、国道26号はできており、そこから折れて天王寺に向かう道は途中まで、日本橋筋(今の堺筋)の延伸道路も途中まで伸びてきています。2年後の地図では尼平線がさらに東に伸び、間もなく完成する地下鉄が新たに描かれています。

(左)「大大阪市街地圖:最新」(1935年)(資料所蔵者:国際日本文化研究センター)より (右)「大大阪市街地圖:最新」(1937年)(資料所蔵者:国際日本文化研究センター)より

柳本 地図を見るとよく分かりますね!これで福田屋さんは、地下鉄御堂筋線の上の道(今の尼崎平野線)と省線の線路に挟まれてしまうんですね!(福田屋さんは水崎町の崎の字の下、斜めの道の起点のあたりに位置します)

水内 それが福田屋さんの、この後の数奇な運命を決定づけることになりそうですね。

柳本 この頃の変化がわかる大阪市撮影の航空写真をじっくりみてみました。ちょっと分かりにくいですが、福田屋さんの減築前と減築後が写っているんですよ。

(左)航空写真(昭和3年)(右)航空写真(昭和17年) ともにマップナビおおさかより作成。昭和17年では、都市計画道路が完成し太子の交差点が見える。また、南海電鉄が高架になって省線の上を通っている。 中央赤い十字のあたりが福田屋さん。路地が逆Vになっている右肩。
昭和3年の写真では白っぽい縦長の屋根の建物。昭和17年では、屋根は黒く写っているが、建物が半分くらいにカットされたと分かる。

柳本 福田屋の女将さんのお話では、今は玄関は南にありますが、昔は西が玄関だったとのこと。当然道に面したところが玄関だった訳なんですよね。
先ほどふれました昭和9(1934)年の建築許可申請書によると、昭和4(1929)年に建築された建物なんですが、一階客室を十室から五室に、二階客室を十四室から八室にする減築をし、切れたところに男風呂と便所と階段を新設するという。大幅な減築でちゃんと保障がされたのかどうか心配になりますね。御堂筋を作るときは、沿道住民から負担金をとったという話ですから・・・

昭和9年(1934)年の建築認可申請書
 左の頁に「本建築物ハ今回都市計画実施ノ為メ其一部ヲ除却し・・」とある・。
この頃はまだ福田屋の経営ではなく、前の経営者であり所有者が建築主。戦後、福田屋に経営が移ったのではないかとのこと。 

歴史紐解き編の第2話はここまでです。昭和中期~後期、そして平成、令和、まだまだ続きます!

(※1)今宮村・・・旧今宮村は明治22(1889)年に、旧木津村と合併し、新しい今宮村を設置。そしてわずか8年後の明治30(1897)年に、この新しい今宮村のうち第1次市域拡張時に大阪市に取り込まれなかった省線より南側の地域で、新々今宮村を編成し、西成郡のひとつの村となった。
(※2)『西成区制90周年記念誌』大阪市西成区役所(2016)より
(※3)大阪市HPより天王寺村耕地整理 (osaka.lg.jp)
https://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu160/web-content/minkan/kouchiseiri/22tennoujimura/index2.html

(参考文献)「創生期の土地区画整理事業に関する一考察―大阪・今宮耕地整理事業を念頭として―」古谷秀樹『観光学研究12号』(2013年3月)
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4522&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

文責:株式会社ナリッジ・クリエイション

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