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『麻雀漫画50年史』を読んで その2


「その1」を書いてからずいぶん経っちまいましたけど、この本の良かった点を語っていきます。鬼の執念で調べてる以外の部分を。今回も形としては有料にするけど、最後まで無料で読めるようにしておきます。

事実ベースに語りつつ踏み込む

漫画を論評するときって、つき詰めると、面白かったorつまらなかったになっちゃうわけだけど、ただそう書かれても、読者にとっては何も参考にならない。どういう部分がどういいのか書いてもらわないと、追体験する手がかりにならない。

何かを説明するプロの人って、主観語じゃなく客観語を使うトレーニングをしてるもの。あそこのラーメン屋はめちゃ美味しいと言われても、それはお前の主観だろって話になるけど、行列が20人いたと事実を提示したら、単なる主観であることは乗り越えられてる。

とつげき東北紹介

具体的には、たとえばとつげき東北という人の人物紹介↓

麻雀の数理研究に先鞭をつけたとつげき東北自身は、その後〝なんでも「陰謀論」で片づければ思考停止できますね 「トルーマンは、真珠湾攻撃を事前に知っていたが、日本と戦争をしたかったから、わざと攻撃を受けさせた」という事実まで「陰謀論」とか言ってそう。〟というツイート※11に象徴されるような「自分は知識があって論理的に物を考えている人間だが、世の中の人間(特に文系)は思考停止した人間ばかり」という強い信念に基づいてTwitter等で他者(麻雀関係者に限らない)とのネットバトルを繰り返したり(筆者も一度引用RTで絡まれた上、こちらが主張していないことについて「なぜお前はこのような主張をするのか説明しろ」と要求されたりして本当に辟易した)、「【ガチ大儲け】米国債逆イールド! 大儲けできるかも! 口座開設から超具体的方法!」(9800円)といった情報商材の販売(本人によれば「私の元記事9800円で、事実数百万儲かった人がたくさんいたのは事実」であり、〝「陰謀論」同様、「情報商材」とのレッテル貼りも思考停止に寄与しますね〟とのこと)をしたりといった活動を行う人物となった。

p397-398より

文章が凝縮的で読みやすくはないけど、単なる好き嫌いではなく、こういうことをする人ですよってのを具体的に説明してる。

とつげき東北といったら麻雀漫画を語る上で欠かせない人物……なのかどうかは疑問だけど、この部分はよくぞ書いてくれました(≧▽≦) 情報商材の画像も貼っておこう。

前はサムネが金貨みたいなやつでもっといかがわしかった。少しだけマシになった

さて、そんな私怨的な話はいいとして、漫画の評論って客観ベースで語ることが難しいほうのジャンルじゃないかと思う。本書はそれも上手い。プロのライターとして立派なもんだと思う。

それでいてしっかり踏み込んでおり、つまらなくなってない。ただ事実だけを書く論文調だとつまらないでしょ。

自分が何十年も前から愛読してる漫画って、なかば自分の一部じゃん。その面白さのキモを説明するのって難しいよ。表面的なことしか言えなくなってしまうのが普通だ。これは自己客観視の一分野になるんじゃないかと思うけど、軸がぶれることなく、自分の言葉でしっかり説明されている。

来賀友志論

これ↓は来賀友志さんのデビュー作について。

「デビュー作にはその作家の全てが詰まっている」と言われることがあるが、来賀に関してはその言葉がまさにピタリ当てはまる。「麻雀があるから自分が存在する」である。これが大マジなのである。「麻雀とは人生そのものである」という信念を、読者に有無を言わせぬ狂気の迫力で叩きつけてくるのが来賀作品なのだ(本作、前編では主人公の健が麻雀を打っていないという攻めた構成になっているのも地味に凄い。普通の人間はデビュー作でこんな真似はできない)。

p176より

来賀さんを語るとき、普通はこんな誰も読んでないデビュー作は持ってこねーよ。そしてこんなふうに説明できない。「狂気の迫力」というのがキーワードやね。

続いて、出世作『あぶれもん』について↓

いずれも、こうして改めて書き起こさずとも「狂っている」としか言えないのだが、これが圧倒的に面白いのだから読者としては白旗を掲げるよりない(ただ、草を食べるシーンは読者投稿コーナーなどでよくネタにされていたし、当の嶺岸も筆者がインタビューした際に「ちょっとあれおかしいでしょ(笑)」「俺いま描けないよ、いろんなこと考えちゃって(笑)」と話していたので※26、当時からどうも全員「面白いけど狂っている」とは思っていたらしい)。彼らはみな「麻雀があるから自分が存在する」ような奴らなのだから仕方がないのだ。

p181より

「面白い」と思ってるものを同時に「狂ってる」と思うのは、愛読者だとなかなかできない。素人のほうがこういうふうにズバッと語りやすいけど、こういう本まで書くプロライターの立場になると、こんなふうに語れなくなるもんだ。

俺はできねーわ。俺の場合まず狂ってると認識できない。俺もまた麻雀馬鹿で、同じくらい狂ってるからですかね?

雑誌ベースで調べてる

ふつう漫画評論って単行本ベースになりやすい。この本は徹底して雑誌ベースなんだよね。初出は雑誌であって、単行本化されないこともあるし、部分的に単行本未収録みたいなこともある。事実を調べるためには雑誌ベースであることは正しい。

ただね、読者の立場からすると、今から雑誌ベースで読むことは国会図書館に通わないと不可能だから、そんなこと言われたってという部分もある。

たとえば灘麻太郎。プロ連盟名誉会長だ。

ゴーストライターをあまり使わずに自分で書いているのだろうと思わせる(一部の作品については編集がゴーストをしていたとは関係筋から聞いている)。筆者がインタビューした際も、「金になるから適当に書いていただけ」というようなことを言いつつ、個々の作品についてしっかり覚えており色々と答えてくれた(本当に書き散らかしていた作家は忘れているものである)。真面目な人物なのであろう。

p95より

という人物評はうなづける。灘さんはそういう人なんだよな。それはいいとして、困ってしまうのはその続きだ。

『ギャンブルパンチ』連載の『麻雀武芸帖』(作画:鳴島生)は、韓信の末裔が家を再興しようとする基本設定に加え、「乗った船が難破して屋久島にたどり着いたカナダ人の木こりが格闘技・二丁斧を伝授する」「『先祖は武士でも今の俺は木コリだ 武術での争いはことわる 勝負は麻雀で願いたい』というセリフに続いて、切り株の上で麻雀勝負が始まる」など、常人では思いつけない展開が連発されるのでオススメ(単行本になっていないので筆者も全話は読めていないが……)。

p95より

とある。著者でも読めてないものをおすすめされても、いったいどうやって読めというのよ? 国会図書館にもないんでしょ。世の人はあなたみたいに麻雀漫画に人生を捧げてないんだよ。

死亡宣告したのに平然と生きてた雑誌

面白かった箇所。

こうして徳間書店の麻雀漫画は2誌体制がしばらく続いたが、79年7月号を最後に両誌は統合されることになり、誌名と主要掲載作品は『劇画ザ・タウン』、巻号は『ギャンブル劇画』を引き継いだ月2回刊誌『劇画タウン』として再スタート(のはずだったが、実際には『ギャンブル劇画』はその後も何事もなかったかのように8月号が出ている。現物は筆者も確認していないが、この年の『出版年鑑』によれば9月号も出ていたようだ。次号予告が出た後に休刊して「次号」が出なかった雑誌は枚挙にいとまがないが、今号で休刊と記されていたのに翌月普通に出ていたという雑誌はほとんどないのではないだろうか)。

p64より

どーよこれ。面白くね?

昔は何もかもがテケトーだったから、Aを休刊にしようか、いや、Bを休刊にして、Aはもうちょい生かしておこう、みたいな感じかね?

こういう「よく調べたなあ」という話があちこちに出てくる。

あらすじと実際の内容が違っている

太古の昔に麻雀漫画を出してた出版社のうち、桃園書房の最大の特徴はクオリティーの低さだという。同時期の秋田書店、竹書房、芳文社などに比べて出来が一段落ちる。

そこまではいいとして、単行本のカバー折り返しに書いてあるあらすじが、実際の内容としばしば異なっているのも謎の特徴だという。『麻雀地獄変』(原作:習志野浩、作画:宮本ひかる)のカバー折り返しに書かれてるあらすじは以下↓

麻雀の鬼才、風狂流三郎には四人の弟子がいた。彼はみずからあみだした神技「風狂十三面がえし」を伝えんものと、弟子の幻の隆太、お吟をひそかに呼びつけた。師のやり方に異を唱えた神沢は風狂四天王の地位を追われ、流浪の旅へと出発する。苦節のすえ、ついに神沢は、師の神技を破る「稲妻天和」をあみだすに至った。

p58より

昔の時代劇をそのまま麻雀に持ってきた感じですな。

これが実際に中身を読んでみると、主人公・神沢は流浪の途中で風狂流三郎と出会って弟子になってるし、風狂の弟子は神沢含めて3人しかいないので「風狂四天王」などという言葉は登場せず、「師のやり方に異を唱えた神沢は風狂四天王の地位を追われ」という展開もないという。

すごくねーか、このいい加減さ。

どういう工程で作られたらこうなるのか全くわからないが、いずれにしても手の抜かれた仕事であろう。

p58より

と書かれている。そんなもんを調べに調べ尽くしてる面白さだ。

カバーと中身は違う工程だから、別の人が担当なんだろうね。こんな内容だって電話で伝えただけとか、中身を担当した人が記憶だけで書いたとか、そんな感じ?

誌名変更やらなんやら

なお、土井は麻雀以外にも多くの雑誌を手掛けており、有名なものとしては『漫画極道』(92年、白夜書房。土井によれば、売れに売れたものの、暴力団対策法改正がちょうどそのころにあった関係で「『極道』は使わないでくれ」とコンビニから要請があったため、『漫画番外地』に誌名変更したら途端に売れなくなり、原作を書いていた元ヤクザとのトラブルなどもあったため、翌年『漫画ばんがいち』と誌名変更してアダルト漫画誌へと大きく路線変更したとのこと)がある。

p351より

内容は面白いんだけど、カッコの中をそんなに長くした文は読みにくいよ。

『逃げない流儀』は許せねえ

著者は麻雀漫画愛がめちゃくちゃ強く、先人をめっちゃリスペクトしてる。その結果、麻雀漫画をたいして読まずに評論を書いてる人や、自分勝手に記憶を書き換えてしまった人には怒りをにじませる。

竹書房元会長のインタビュー本があるのよ。今の社長たちに電撃的に解任されてしまった人。この本は元会長の一方的な言い分だけ書かれてて、裏をまったく取ってない。なので、自分が上手くやったように記憶が書き換わってる部分が非常に多い。

著者は麻雀漫画の黎明期を作った他の先人たちをリスペクトしてるから、この本が許せないようで、この本は信用できないと4回も書かれてる。他に4回も書かれてるのは北野英明の失踪くらいだろ。どんだけ許せないのよ。

1回目↓

なお、17年に株主総会で竹書房会長を解任された高橋一平による「暴露本」的な内容である『逃げない流儀』には、「創業時は『近代麻雀』(麻雀専門誌)と『4コマ・マンガ』が売り物だった」と書いてあるが、竹書房が4コマに参入するのは80年代に入ってから(114頁)であり、このような事実はない。同書はこの点以外でも、当時の出版物や他関係者の証言と食い違う点があまりにも多く、資料としてはほとんど信頼できない。高橋が営業として竹書房を引っ張ったこと自体は衆目の一致するところなだけに、同書の姿勢は残念である。

p48より

2回目↓

なお、前述『逃げない流儀』で高橋は、「『近代麻雀』は(中略)約七年間売れたが、やがて『(読者に)飽きられた』。(中略)『麻雀の活字媒体には限界がある』と気づき(中略)『連載劇画』を思いつき、社内に提案したと語っているが、ここまで書いた通り、他の関係者の証言とは全く平仄ひょうそくが合わない。

p51より

3回目↓

なお、『逃げない流儀』では、高橋が「これまであまり目立たないマンガを描いていた植田まさしを我が社で創業以来、辛抱強く起用していたことが図に当たった」と語っているが、竹書房創業当初の『近代麻雀』(活字)などに植田の作品は載っておらず(そもそも植田は、デビュー自体は71年だが、本格的に活動するのは76年から)、全くのでたらめである。

p112より

4回目↓

なお、『逃げない流儀』では高橋が「自分の描く領域を死守する漫画家との話し合いには根を詰めたが、ストーリーよりキャラクター重視を時代が求めてると説き伏せた」と語っているが、当時の漫画家・編集者などの誰からも高橋がこのような話し合いをしたという証言は得られていない。

p128より

著者はお怒りです

「麻雀漫画はどのように評されてきたか」というコラムが90年代編、00年代編と2つある。この2つとも怒り系なんだわ。

えーかげんにせい!と叱られているのは、90年代編では『別冊宝島』257号『このマンガがすごい!』(最近でも売ってるやつとは違う)、『マンガ地獄変』シリーズだ。00年代編ではコラムニストのブルボン小林(長嶋有)の『マンガホニャララ』と、雑誌『BRUTUS』686号「ブルータス30周年企画 ポップカルチャーの教科書」の「マンガ」の項。

いちいち説明しないけど、ようするに、麻雀漫画をたいして読みもしないで、適当な図式をでっちあげてわかったような論をぶつのはやめい!という話ですな。

文章には少しでも間違いがあってはいけないなどと言うつもりはないが、限度というものはある。
(中略)
そのような評は読者にも、片山ら作家にも不誠実なのではないだろうか。

p521より

とお怒りだ。世の麻雀漫画をすべて読み尽くしてきたような著者に叱られたら、誰も反論できねーよな(==)ウム

ちなみに俺も『マンガ地獄変』シリーズは読んだけど、あんまわかってないんだな以上は思わなかった。麻雀漫画愛の違いですかね。

あと『別冊宝島』257号『このマンガがすごい!』の続巻となるやつでライターをやったんだわ。あの編集体制だと、そういうことは起きるわって感じ。

批判を公開したことで怒りを鎮めていただき、ブルボン小林を襲撃したりしないでいただきたい。

まーマジレスすっと、「麻雀漫画はどのように評されてきたか」の2つは不要ですね。コラムとしては「漫画における麻雀表現」みたいなやつをもっと増やせば良かったのに。

本書の評価ランキングは信用しすぎないように

著者の作品評価には押しつけがましさはない。自分の好きなやつを激推しし、好きじゃないやつを外すようなことはしない。

それでもね、著者も奇人変人の類であり、この本の評価をうのみにすると、世間の評価とは食い違うよってことも言っておきたい。作者の好みは人間ドラマにあり、それにプラスして漫画としてかっとんでいるものも高く評価する。世間の評価というものはもっと単純な王道寄りで、かっこいい主人公が麻雀強くて勝つという単純な話になる。

この本で傑作とされていながら、単行本の刊行が途中で止まってしまったり、最初から単行本化されていないのは、売れなかった(売れないと予想された)からだ。

一番の例はこの本で最高傑作とされている『麻雀蜃気楼』だ。マジで売れなかった。来賀さんの古い作品では、おぼろな記憶なのだが、最初の版の1巻目の実売数は『あぶれもん』が5万部、『てっぺん』が1万5000部、『麻雀蜃気楼』は8000部くらいだったように思う。ガチで人気なかった。

俺も個人的には『麻雀蜃気楼』は傑作だと思うけど、世間的な評価が高いかといったら、それは価値観による。竹書房がコンビニコミックを出しまくってた時期に、竹書房の出す作品を決める権限ある人に、『麻雀蜃気楼』は出さないの?と聞いたら、あの絵柄はぼくも読めませんと返事された。面白い面白くない以前に絵柄が暑苦しすぎて読めない人が多いんだよね。

もっとも、福地誠によると、本作はアンケートは良くなく、単行本の売上も今ひとつだったらしい(話が暗過ぎるので)※10。

p297より

と書かれてるけど、今ひとつというレベルじゃなかった。

こちらも傑作とされてる『凌ぎの哲』の単行本が途中で止まったのも売れなかったから。売れてたら出すに決まってる。

『ジャンロック』が単行本化されていないのは少し違ってて、作者本人が下品すぎたと単行本収録に前向きでないと聞いたことがある。

真面目に帯を作れよ

じつはね、本書を最初に目にしたとき、この帯に、なんだこの素人編集は?と思った。

一番でかい字の「だから楽しい」って何を言ってるのかわからない。この本は楽しいですよ、だから買って読みましょう!と言われても、それはお前の主観だろ!となってしまうから、面白さを客観語で語らないとってこの記事の冒頭で書いた。悪い見本になってる。

その後、このポストを見て、さらにお口あんぐりとなった。

遊びかよ。そういうのは同人誌でやれ。

だいたいね、題名とか帯とか表紙ってのは著者が考えるものじゃない。著者は書く人であって売る人じゃねーから、売ることに関しては素人に過ぎない。売る専門家である出版社の人たちが考えるものであって、著者には見せるのも不要なんだよ(見せるとゴタゴタ言い出す)。

題名と帯って本の内容を伝えるめちゃくちゃ重要なもの。ここは編集者だけじゃなく、営業の偉い人などが頭を寄せ合って考えるもんだ。文学通信がどんな出版社なのか知らんかったけど、この素人仕事を見て、本を出すのは遊びじゃねーんだぞって思ったわ。

この帯には4つの要素が入ってる。

4つは多すぎる。ゴチャゴチャして目に入ってこない。多くて3つまでだ。

1は完全に不要。こういう自己満の内輪受けは駄目。面白くもねーし。
2は重要。作品名で引っかかって手に取る人は多いはず。
3が本来なら主役だよね。「50年史」という題名とかぶるけど、どういう本なのかを一番伝えてる。
4は不要だ。

というわけで、2と3の要素だけにして、もっとシンプルに作るのがあるべき帯の姿です。

それじゃ面白くない?

遊びじゃねーんだよ!

著者にとって本を出すのはライフイベントであり、かならずしも仕事ではない。売れることよりも納得が大事だ。しかし、出版社の人は本が売れなきゃ会社が潰れて路頭に迷うんだよ。そこに遊ぶ余地はねー。真面目にやれ。

あとね、表紙全体としては、題名が白になっててパッと目に入らない。イラスト重視で、一歩下がって従う謙虚な題名となってる。奥ゆかしいのはけっこうだけど、本の存在アピールはイラストより題名なんじゃねーの?と思う。

てなことを読む前の段階で思った。

本文はよくやってくれました

でも中身を読んでみたら、これ編集担当の人はえれー大変だったなーと思った。手がかかっており、ミスがない。

赤線を引いた箇所、()内の字が少し小さくなってるでしょ。やや古典的な作法だ。俺はこれやったほうが美しいと思う。プログラムを組んで一括で処理してるわけじゃなく、すべて手作業でやってるでしょ。作業はDTPの人だけど、こういうのはミスが大量に出るから、それを潰していく編集の人も大変だ。

赤丸をつけた脚注を示す数字や図を示す数字。太字になってる。こういうのも漏れがない。

本書は図がけっこういっぱい入っており、すると文章がズレていくし、うまく収めるの大変だったはず。

著者は初稿ゲラを受け取ったとき、もうちょい削りますねと言ってたのに、戻してきたときには100ページも加筆してきた。100ページって5万字だ。ゲラの完全作り直しだよな。

普通さ、その段階では予算が決まってない? ページ数を増やすのは紙代アップになるから駄目ってならないの?

帯にはケチつけてしまったけど、中身を読んでからは、この労作をよく仕上げてくださいましたとなった。

なんか老害っぽいことをいっぱい書いちまったな。やべえ。最近はろくに本を出してないし、こんな話題の本に上から語れる立場じゃなかったわ(;^ω^)

しかも読み返してみたら、麻雀漫画論みたいな部分は来賀さんのことだけ。出版業界の昔のことや、本の作り方の細かい話ばっか書いちまった。いかん、頭コチコチの業界人になってるわ(´;ω;`)ウゥゥ

追記:

書こうと思ってて、書きもらしてたネタがいくつかあったので、それを。

俺がこの本で一番なつかしかったのはこれだわ↓

p344より

ムーンサルトリーチ。あったなーと。この本では、麻雀漫画史上最も意味のない必殺技という素晴らしい評価が下されてる。重要なのははったりだから、麻雀的な意味を真面目に考える必要ねーわ。これを読んで、実際に練習してみたやつはいるんかね?

どいーんはこういうのを考えることにおいては天才だった。他には、ツモってから切るではなく、切ってからツモるとか(『狼の凌』)。

連載の重要な部分で使うんじゃなく、読み切りみたいなやつであっさり使ってしまうのがどいーんらしい。

あと、この本で取り上げないんだなと淋しく思ったのは戸田ダイスだった。この表紙イラストの人↓

近代麻雀ゴールド1997年8月号

調べてみたら、ゴールドで1年間連載して以上終了だったんだな。そりゃ取り上げないか。

俺的には、この人はメジャーになっていくんだろうなーと思ってた人だったからさ。そうならなかったのが淋しい存在だった。原稿が遅すぎだったんだよな。

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