滝沢和典vs佐々木寿人の歴史
ご本人に申し訳ないから、これは書くのを止めておこうってずっと思ってたことを最後の方に書いてしまったので、今回は少し高くします。
タキヒサ指名対戦
コナミのツイート↓(縦読みあり)
風林火山の返事↓(縦読みあり)
タッキーとヒサトは昔からの関係。仲がいい。ヒサトが兄貴分。その2人の古い絡みを見ていこう。
タッキーの始まり
タッキーは1979年生まれ。41歳。
高校を卒業して上京し、最高位戦を受けたが不合格。その後、プロ連盟を受けて合格し19歳で麻雀プロになった。
若いイケメンで本格志向、博打志向(当時)のやつがいると知られるようになった。
当時、ちょっとした取材で水道橋の喫茶店で待ち合わせたことがあるんだけど、そのときカバーが取れちゃった文庫本で『狂人日記』(色川武大)を持ち歩いていた。
色川は「麻雀放浪記」を書いた阿佐田哲也の別名義だ。麻雀にハマってる若者として阿佐田の麻雀系の小説を読むならよくありそうだけど、同著者の純文を読むのは珍しい。
阿佐田哲也――伊集院静――前原雄大というルート、そして荒正義ルートからの「無頼、博打」の文化がある。若くしてそれに憧れ、その中に入っていったんだよね。
23歳時、「近代麻雀ゴールド」という雑誌で、2003年8月号から「若き真剣師~瀧澤の日常」というコラムがスタート。
文章もうまくて、無頼の空気感が出ている。その月、麻雀でいくら稼いだかって額が最後にあるよね。生粋の雀ゴロだ。
念のため書いておくと、当時は強くなるためのルートは博打麻雀しかなかっただけで、今のタッキーは昔からの麻雀仲間とノーレートで打ってもらい練習してるそうです。脱ギャンブル宣言に違反してるって話じゃないので。
ヒサトの始まり
ヒサトは1977年生まれ。43歳。
「フリー雀荘で1000万円稼いだ男」って漫画の主人公として有名になった。その漫画以降も、いくつかのメディアに露出。そのときはまだプロじゃなかった。
2006年、29歳時にプロ連盟に入った。
その当時、聞いてみたことがあるんだわ。すでに雀ゴロとして有名なのに、なぜプロ連盟に入る必要があるのかと。そしたら「何言ってんの?」みたいな感じで、「このままやってても将来がないですし」と。
当時のヒサトは荒さんに心酔してる感じだった。
荒さんは、①麻雀プロ、②雀ゴロ、③物書き、という3方向の人だ。麻雀プロと同レベルで物書きとしてのプライドもある。
ヒサトは本やコラムをけっこう書いてきてる。ただ依頼があったら書くという受け身な姿勢ではあんなに書けない。荒さんの「麻雀プロは書けなきゃ駄目だ」の影響がすごくあるんだよね。
ヒサトが一躍有名になった「実録!フリーで1000万貯めた男‼ 真剣」という漫画↓
タッキーコラムと同じ「近代麻雀ゴールド」という雑誌で2004年2月号にスタート。
これは漫画として面白かったし、ヒサトもキャラとして魅力あったから、かなり人気漫画となった。
そして、この時期の「近麻ゴールド」はタッキー、ヒサトを若きヒーローとして売っていこうと、さらに2004年11月号から「激突~タッキーvsヒサト」という漫画もスタート(これは未単行本化)。
これにぶち切れたのが雀鬼様だった。
ぶち切れた雀鬼様
雀鬼流全国大会で「タッキーとかヒサトってどこの小僧だ。そいつらがちったぁ打てるのか見てやるから、下北に連れてきてみろってんだ」と激怒の挨拶。全国大会出場者には関係ない話で、みんな「なんのこと?( ゚д゚)ポカーン」って感じだったと思うけど、けっこう長い時間怒ってたらしい。
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