夜行バスに、抜け殻のような僕たちを。
新年を未だに迎えることができていないような、身体の一部をどこかに置いてきてしまったような、そんな感覚が消えません。
一体いつから坂を下っているのか皆目見当もつきませんが、なだらかな坂を自分の意思で進み、歩いていることだけは確かなようです。
自らの意思で入水しているように見えてしまうカマキリと同じように、わたしの頭の中にもハリガネムシが入り込んでしまっているのかもしれません。
先日、わたしは権威ある人に笑われました。
「あなたに学術的な能力があるようには見えない、能力があるなら高校を卒業したあと普通はすぐ大学に入るでしょう」と。
必死で闘ってきても、
土俵にすら立たせてもらえない現実に、
火を放ってやりたいと思いました。
けれどもこんな大人にはなりたくないという気持ちと同じくらい、それらを覆すためわたしにできることは、ただ権力に従い、従い、従い続けることではないかとも思っているのです。
そうして隙を探り、隙間に入り込み、権威に認められ、いつの日かわたし自身が権威となったとき、初めて権威はわたしの言葉を聞いてくれるのではないか、社会はわたしと向き合ってくれるのではないかとそう考えています。
しかしこれは本当に正しいことなのでしょうか。
権威と闘うため、自らが権威を得ようとすることは正しいことなのでしょうか。
最近わたしは自身にこの問いを掲げています。
ただどちらであっても、少なからずそこに恨みつらみのような感情が入り混じってほしくはありません。
昨年の11月あたり、わたしはひどく体調を崩しました。それは自身の不注意で起こるもの、まさしく因果の道理であり、不運と嘆くのは許されないものです。
しかし元はと言えば、
父や母、そして社会がわたしをこのような身体にさせたことは事実であり、恨みつらみはわたしの中に根付いてもいました。
この恨みつらみをどう消化していくか。
わたしは自身の性格上、後ろを向いて歩くのは嫌なのです。終わったことは終わったこととして、明日を生きていきたいのです。恨みつらみの感情がいつまでも自分の中にあるのは耐え難いのです。
そこで社会への恨みを、自分自身への慰めに変換したいと思うようになりました。
もちろん自分自身の不注意だけでなく、大人になれば全てが良くなると楽観視していた当時の自分を思うと、心底呆れてしまいます。けれどもそうしなければ生きていくことができなかった辛さを、せめて大人のわたしだけは認めてあげたいのです。
よく、がんばった、と。
よく、生き抜いた、と。
ただ、自分自身を慰めてもこの先の人生が“絶望”であることに変わりはありません。
痛みの限界、痛みの最高点を独りで味わい続ける残りの人生が視界に入っています。
いっそのこと殺してくれと叫ぶ自分を未来に感じます。
わたしには未だに呟くことさえできない痛みがあります。誰にも明かせない痛みがあります。この痛みは墓場まで持っていくことになりそうです。
これまでわたしが明かしてきた過去の辛い出来事のどれもがサブ的なものに感じるほど、わたしの心身を破壊したメインのものが存在し、それはわたしが地上に這い上がるまで随分と長い時間をかけさせました。
悪夢は常に、メインとサブの混合なのです。
わたしはこの街に来てから、
たくさんの人と繋がり、
ぬくもりに触れ、
幸せを感じることも多くなりました。
それでも生きていく自信は生まれず。
皆さんからはたくさんの愛をいただきました。
こんなに恵まれてとっても幸せな自分です。
けれど申し訳ないです。
本当に申し訳ないです。
生きていく自信はまだありません。
どんなに考えても
どうせわたしたちは死にます。
いつか人間もいなくなって、
地球も宇宙も消え失せてしまいます。
繋がりもみんななくなって、
すべては幻になるのです。
だからきっと、
もう考えなくて良いのだとは思います。
それでもわたしは違うと言いたい。
自問自答を繰り返し、思考している瞬間も、
人と人との繋がりにぬくもりを感じている瞬間も、それらどれもが
確かにあったと、信じていたい。
生きていく自信などないけれど、
あなたと出逢った喜びには
そっと想いを馳せていたい。
繋がりが生んだぬくもりを
ただずっと、信じていたいのです。
夜行バスに、
抜け殻のような僕たちを乗せて、
どうか連れて行ってはくれないだろうか。
この世界の高台へ。
別に飛び降りようとしているわけじゃない。
ただ、僕たちに見せてほしいんだ。
数え切れないほどの灯火を。
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