目には見えないラインパウダー。
わたしは聞き役にまわることの多い人間です。
そんなわたしでも自分のことや本音を話したくなっちゃう人はいます。
皆さんも同じではないでしょうか。
こころを開いている状態にも段階がありますが、その中で一番わたしのこころの中心部に近いところにいるのは、片手で収まる程度の人数しかいません。
わたしはそのような人たちに対しても、重大な決断に関しては基本的にお話しはせず、事後報告をしています。
ここで言う重大な決断というのは、多くの方が人生の分岐点とするようなライフイベントのことです。
これらを話してもらえなかった多くの人は、わたしを『秘密主義者』と呼ぶようになります。そして彼らは、“自分にはこころを開いてくれていると思っていたけど、違ったんだな”と、まるで両想いが片想いだったと判明してしまうときのようにショックを受けるみたいなのです。
ただ、決してわたしは秘密主義者と呼ばれたいわけでも、こころを開いてくれていないんだなと思わせたいわけでもありません。
わたしにはこの線引きが、自分を保つ上で必要なのです。
寄りかかりたい、その気持ちを押し殺すのには苦しさがあります。少しだけ寄りかかるとわたしの身体は斜めになり、重力によって倒れてしまいそうになります。ますます大切な人に寄りかかりたくなるのです。それでもわたしは自分を律し、重力に打ち勝ち、寄りかかっている状態ではなく、自分の意思で斜めに立っている状態でいたい。
それがわたしにとっての『自律』です。
大抵の場合、
斜めに立つことには苦しさが伴います。
筋肉を使い、息も上がります。
だから本当は斜めになんて立っていたくはないのです。身体をすべて預けて、あなたに寄りかかってしまいたい。
そう思っています。
でもそんなことをしたら共倒れになってしまう。
だからいっそのことわたしは誰にも寄りかからず、己の力だけを使って、ただ真っ直ぐと立っていたいのです。
己の力がなくなったときにはその場で崩れ落ち、自然が分解してくれるのを待つ。
助けなど呼ばずに、
そう生きている方が間違いなく楽です。
けれどもそれは虚しくもあって、
できれば少しだけでいいから
あなたのぬくもりを分けてほしいと思う自分もいます。
分けてほしいとこちらから言わなくても
ぬくもりをくれる人がいます。
無条件でぬくもりをくれる人がいます。
その優しさが当たり前だと思わないように、“寄りかかってはいけない、己の力で立て!”と何度も自分に言い聞かせながらわたしはぬくもりを受け取っています。
はっきり言って、苦行です。
この苦行はもしかしたら死ぬまで続くのかもしれませんね。
わたしはこれから先、この苦行に
耐えていけるかはわかりません。
わからないということは、
おそらく“耐えられない”ということだと思っています。
わたしはもう耐えられないのです。
耐えられない自分を
一体誰が認めてくれるというのでしょうか。
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