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生きるための、生き延びるための文章

そういえば、俺は今までしばしば生きるために、生き延びるために書いてきた。

どうしようもなく苦しい時、それを自分の内側ではどうしても留めておくことができなくて、誰にも見られないノートに、ネットの隅っこに、SNSに、書いて書いてきた。
書かないと、吐き出さないと、世界のどこかに「確かにこの思いがある」と残し
ておかないと、生き延びられなかった。

なんでそうしたいのかはよくわからない。
でも、留めておくということがなかなかできない。ほんとに、生存レベルで。

自分のうちにだけある、というものの心許なさに、身体がざわつく。
その確かさが信じられない。だから外側に出して、口に出して、書いて、そのかたちを確かめようとする。
言葉になると、確かにあるんだと思えて、少しだけほっとする。

自分の性別のことも関連しているのかもしれない。
幼少期から、というか生まれた時から、自分が何者であるかということを、滅多に自分の認識と一致した形で他者に認識されたり扱われるということがなかった。

優等生キャラもそうだ。サバイブで無意識に身につけた振る舞いだったと思うが、自分はそんなに品行方正ではない。けれど周囲から真面目だの優等生だのと言われると、ぎゅうぎゅうとその枠に押し込められていくようで、息が詰まった。

表に出さなければ、ないものとして扱われてしまう。あるいはリアルな自分ではない、間違った扱いを受ける。
肉体は生きていけても、それでは魂が死んでしまうと思った。
魂が死ねば、いずれ肉体も死ぬと直感的に思った。

俺の周りのトランスの人は、ここまでではない人が多い。
それなりに折り合いをつけて生きて行ったり、割と馴染んで暮らせている人が多い(ように見える)。
だからこの敏感さは、トランスだからだけでない、俺という個人の特性だなと思う。

ここにいないのだと扱われることは、魂が悲鳴を上げる。
性別だけじゃなくて、思考とか、思いとか、願いとか、自分のうちに確かにある流れのような存在。それをアイデンティティと呼ぶのかもしれない。
それを不可視化されると、内側が暴れる。

生きるために語る。生きるために書く。
俺の言葉は、何より自分のためのもの。




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