棄てられた者の行方 6

こうして彼は士師としての活動をこの町を拠点として開始していった。日常での彼の主な役割は裁判官であった。小さな訴えについては、それぞれの町にいる長老たちが処理をし、そこでは裁ききれない事案については、人々は祭司たちがいる町まで出かけて行って訴えた。そして士師に持ち込まれる訴訟はこれら祭司たちも手に負えないもの(たとえば、大きなものでは部族間の紛争)だった。サムエルはラマを拠点として、主要な町々であるベテル、ギルガル、ミツパを定期的に回り、裁きを行った。ベテルは先住民の時代から有名な、ヤコブに由来する聖所で、ラマの北方十数キロのところにあり、シロが破壊された後、民族の中心聖所となった。ギルガルはヨルダン川に近く、エジプトを脱出したイスラエルの先祖たちがヨルダン川を渡り、パレスチナに侵入したことを記念する聖所となっていた。ミツパは言うまでもなく、ペリシテへの勝利を記念する町である。一方最高指導者として権力を握ったサムエルの政治姿勢は厳しいものだった。神の意志という名のもとには情け容赦はなかった。ある町では、旅行中にたまたまその町に宿泊した夫婦が集団で襲われ、妻が強姦された上に殺されるという事件が生じた。首謀者はその町の有力者の息子たちだった。町の長老たちはこの事件をひた隠しにしたが、被害者の夫がサムエルに訴え出た。早速サムエルは町に使者を派遣し、実行犯たちの引き渡しを求めた。もちろん裁判にかけるためである。しかし、長老たちはそれをためらっていた。そこでサムエルが下した審判は思いもかけないものであり、それは町自体の壊滅だった。イスラエル中から民兵が招集され、町は包囲されて攻められ、サムエルの命令によって住民は一人残らず殺された。イスラエル中の町がサムエルの恐ろしい決断に震え上がった。サムエルにとっては、神の意志に反するものはその根本から切り捨てねばならないというのが信念だった。彼は時々、抜き討ち的に町を訪れる時があった。予告してしまうと、不正などが暴かれないよう準備してしまうからである。サムエルが来たという知らせは、町の長老たちにただちに入る。すると長老たちは慌てて震えながら出迎えるというのが常だった。そして「穏やかなことでお出でになったのでしょうか。それとも私たちが何か不都合なことをしたのでしょうか」と真っ先に聞いた。そこでいきなり審判が聞かされるということもあった。知識ばかりでなく、観察力、洞察力、勘にも長けたサムエルを出し抜くことは容易ではなかった。しかし、完璧にも見えるサムエルにも弱点はあった。それは自分の子供たちへの養育の失敗だった。彼は以前、子供たちに甘い恩師エリに対し、神からの託宣の形で鋭く糾弾し、心の中で師弟関係を断ち切った。にもかかわらず、自分の子供たちへの養育は甘かった。彼はエリと息子たちの関係を(甘やかされている息子たちへの羨みもあったと思われるが)苦々しく思いながら育ってきたのであるが、いざ自分に子供ができると同じ育て方をしていたのである。彼にとって、身近に子育てをしている存在としてはエリしか知らず、悪い意味で学習してしまってもいた。甘い親であるエリの育て方を、かつては内心で批判し、憎んでいた。しかし自らも本能的な愛情には勝てずに、無意識に学習してしまった同じ育て方をした。優秀な彼も、負の連鎖に勝てなかった。さらに彼はこの本能的な愛に負けて、決定的な誤りを犯した。二人の息子たちを自分と同じ士師の後継者としたのである。士師という立場は、民族の伝統に根ざした独特のものであり、神に自分が選ばれたという召命感が土台となる。そして各部族の長老たちがそれを承認して初めて公のものとなる。世襲すなわち、血縁で継承されるものでもなければ、親が息子を指名するようなものでもない。世襲は王国での王位継承のあり方であって、人間の神格化、世襲による権力の堕落をもたらす。それは王国と戦ってきたイスラエル民族が嫌うものだった。また権力の独裁化につながり、王国と戦ってきた伝統の否定だった。継承者に自分の息子たちを立てたことに、人々は驚きと怒りを覚えた。そして息子たちの行動は、利益誘導や賄賂の取得といった、独裁的権力者お決まりのコースをたどった。サムエルは他人には非常に厳しく、血も涙もないのとは裏腹に、自分の身内には甘いという悪評が立つようになった。そしてサムエルへの批判の高まりとともに民族の結束が乱れるというその隙をついて、ペリシテ人が勢いを増してきた。同時に、イスラエルの富裕層、有力者たちの間で、自分たちの財産を守るためには、王国制度にして専門の軍隊を持たなけれればならないという新しい動きも出てきた。イスラエル民族には、あくまでも王制には敵対心しかない伝統的勢力と、王制を望む富裕層との分裂が生じてきていた。そしてこの分裂の大きな原因は、サムエルへの批判の増大と、その結果としての統制の緩みにあった。反王制派側だろうと、王制派側だろうと、サムエルは指導者としてもはやふさわしくない、引き摺り下ろしたいという点では一致するようになっていたのである。結果としてイスラエルの長老たちが集まり、ラマのサムエルのもとに来た。彼らは言った「ごらんなさい。あなたは歳をとりました。しかしあなたの子供たちはあなたの道を歩みませんでした。今、すべての国々のように、我々を裁くための王を我々のために置いてください」。これはサムエルへの引退勧告であり、母に棄てられ、後には恩師を棄てたサムエルは、今度は民衆から棄てられようとしていた。今イスラエル民族は、彼の統制力の低下の結果、王制、反王制の民族の分裂の危機に直面していた。自分が棄てられようとしていることへの怒りと、民族の危機という事態に直面し、サムエルは眠れない日々を過ごしていた。そうした中で、安定的かつ持続的に民族の指導者を立てていくには、王制もやむを得ないとサムエルは考えるようになった。しかしこれを実現していくことは容易ではない。サムエルは伝統派からは裏切り者となり、民族は内乱状態となるかもしれない。反王制への思い切った決断と行動を取らねばならないと彼は決意した。そしてサムエルが動き出したのはそれから間もなくだった。

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