棄てられた者の行方 7

2.サウル

 王制推進派の富裕層の中には、サムエルと預言者団に経済的援助を長年にわたってしている者たちがいた。サムエルは士師として、部族の伝統派、すなわち反王制派の代表であったが、裏では経済的に富裕層が支えており、彼らはサムエルの権力と結びついていながら、同時に王国制度を望む者たちでもあった。サムエルは自分の居住地ラマから南方へ5キロばかり離れたところにあるギベアの町へ使者を送った。町にはキシュという名の有力者がいてサムエルと預言者団を熱心に援助する一人だった。彼はベニヤミンという部族の一員であり、かつてこの部族は消滅寸前にまで追いやられたイスラエルの最小部族だった。キシュたち有力者らは、権力との結びつきを強固にして、将来王制になる時には国王を部族の中から出し、巻き返しを図りたいと願うようになっていた。サムエルはこのキシュを自分が住むラマに密かに呼び出した。その目的はキシュ自身ではなく、彼の息子サウルだった。サムエルの息子たちについては、サムエル自身も手を焼いており、もはや後継者としては不適格なことはわかっていた。サムエルはこのサウルを権力者に擁立することを考えていた。それはギベアがラマに近く自分の目が届きやすいこと、まだ会ってはいないが、サウルの育ちが良く、好青年という評判だったことにある。サムエルはキシュの息子サウルを自分の後継者ではなく、王として立てることを計画していた。サムエルはキシュにこの計画が絶対に人に知られてはならないことを告げた。サウル自身にさえ告げてはならないときつく釘を刺した。サムエルは士師としてイスラエル諸部族の代表となっている。いわば反王制の伝統の代表であった。サムエルが王を立てる計画が漏れれば、彼は裏切り者として糾弾されることになる。しかも結果としてイスラエル民族がこの時期に指導者を失えば、王制派と反王制派に分かれての内乱は避けられない。そしてそれはペリシテという外部勢力の攻略を招き、民族は滅亡する。極秘計画はキシュにのみ知らされ、実行に移されていった。そしてサムエルが、実際にキシュの息子サウルと会い、彼を王として相応しいと認めた時の暗号が決められた。それは「ろば(国王も移動に使う家畜だった)は見つかった」であった。

 ギベアの町のある朝、キシュは息子サウルを部屋に呼んだ。「ろばが何頭か逃げ出した。お前と一緒に若者の一人を連れて行き、ろばを探しに出立しなさい」。そして一方でキシュは供をする若者には、「今日はサムエルがミツパにいる。サウルをサムエルのところに行くように仕向けて必ず会わせよ」と命じた。朝早くにその若者が先導する形で二人は出かけて行った。サウルにとっては、どの方角に行けばよいかも分からない、あてのない道行きであったが、若者はろばの行き場所がまるでわかっているかのように前を進んだ。4、5キロも進むとサウルは嫌になった。ろばはもともと別の方角に逃げたかもしれないからである。サウルは供の若者に言った。「もう行こう。帰ろう。私の父にろばよりも我々のことを心配させるといけない」。若者は彼に言った「どうかごらんください。ミツパの町には神の人、預言者がいます。彼は語るすべてのことで重んじられている人です。さあ町に入って行きましょう。おそらく彼は、探しあぐねて来た我々の行くべき道について告げてくれるでしょう」。主人から命令されていたので、若者はその人物がイスラエル民族の指導者、士師サムエルであることは言わなかった。サウルは若者に言った「では行こう。しかし何をその人に持って行こうか。パンは我々の袋の中には無くなってしまった。神の人に持っていく贈り物がない。我々には何があるだろうか」。若者はあらかじめ主人がサムエルと会う口実のために手渡していた銀を取り出し、サウルに答えて言った。「ご覧ください。私の手にはいくばくかの銀があります。私が神の人に渡しましょう。彼は私たちに行くべき道を告げてくれるでしょう」。サウルは若者に言った「それはいい提案だ。さあ行こう」。彼らはサムエルがいる町に向かった。他方この日、サムエルはイスラエル民族の中で、王国制度を求める有力者の主だったものを密かにミツパの家の広間に集めていた。そして見張り台の者に二人の到着を知らせるように命じた。 サウルたちは町に上っていった。その坂の途中、水を汲みに降りてきた娘たちー実は彼女たちはサウルをそれとなく迎えるようにと命じられていたのであるがーに会ったので、彼らは尋ねた。「預言者は今日この町にいますか」。華やいだ雰囲気で娘たちは言った。「はい、おられます。そのまま前に向かって急いで進んでください。ちょうど今です。聖所で民のために動物の犠牲をささげますので、今日彼は町に来ました。今あなたがたが町に入れば、彼が食事のために聖所に上る前に会えるでしょう。民は彼が来るまで食事を食べません。なぜなら、彼がまず犠牲を祝福し、その後で招かれている人々が食べるからです。さあ今、上っておいでなさい。あなた方が彼と会えるのは、まさに今日なのです」。二人が町に入って来るのを見て、サムエルは反対方向から真っ直ぐに前を向いて近づいて行った。そのサムエルを見ながらサウルは尋ねた。「お尋ねしますが、預言者の家はどこでしょうか。どうか私に教えてください」。サムエルはサウルを観察するようにまじまじと眺めてから答えた。「私がその預言者だ」。そしてサムエルは一目でサウルが気に入った。それはいかにも素直そうだった故である。それは良家の息子というサウルの育ちの良さから来るものであり、サムエルにはないものだった。しかしサウルはたじろいだ。まるで自分がいきなり睨まれていると思ったからである。サムエルはそんなサウルに構わず話を続けた。「先に聖所へ上って行きなさい。あなたたちは今日、私とともに食事をする。そして朝、私はあなたを送り出す。その時あなたが心にとめおくべきことのすべてを、私はあなたに告げる。三日前迷い出たろばについては、見つけられたので心配する必要はない。ろばは見つかった。イスラエルにおいて望ましいもののすべて、あなたの父の家のすべては、あなたのためにあるのではないか。イスラエル民族のすべての期待は、あなたとあなたの父の全家にかかっている」。 サウルは何を言われているのかわからず、さえぎるように答えて言った。「この私はイスラエルのもっとも小さな部族のベニヤミン人ではありませんか。私の氏族もベニヤミンの部族のすべての氏族の中で、もっとも取るに足りない氏族です。どうしてあなたはこのようなことを言われるのですか。私にはわかりません」。この問には構わず、サムエルは言った。「私の後からついてきなさい」。 サムエルはサウルと若者を家に招き入れて広間に導き、招かれた人々の上座に席を与えた。そこには三十人ほどの各部族の有力者たちが招かれていた。彼らはサウルを観察するように注視し、しばらく無言の時が続いた。サウルはただただ何が何だかわからず、いたたまれない気持ちで落ち着いて座ってなどいられない思いだった。サムエルはゆっくりと、同意を求めるように一同を見回した。それに応えて皆は納得したように頷くと、先ほどサムエルが言った言葉を互いに言った。「ろばは見つかった」。サウルはなぜ自分がろばを探しながらここまで来ているのを皆が知っているのか不思議だった。するとサムエルはほっとしたような、今までの緊張感が解けた面持ちになって、料理人を呼び出し、命じて言った。「私があなたに渡しておいた部分、あなたに取っておくようにと言っておいた部分を与えなさい」。 料理人は羊の腿肉と脂尾(脂尾は尻尾の部分で脂がもっとも美味だった)を取り出し、サウルの前に置いた。サムエルは言った。「お出ししたものはあなたの前に出されるために取っておかれたものだ。食べなさい。この広間は私が招いた人々にあなたについて語るために用意された場所だ。取っておあがりなさい。客人をお呼びしてあると言って、この時まであなたに取っておいたのだ」。こうしてこの日、サウルはサムエルと共に食事をした。 そして聖所から降りてくると、サウルは家の屋上の部屋に案内され、サムエルと語り合ったのち、彼は一晩を過ごした。その時の会話は、サウルの父の安否など、とりとめのない会話だった。サウルは今日の出来事、特にいきなり歓待された意味がまだわからず、眠れない一夜を過ごした。夜が明けると、朝早くに屋上の部屋にいるサウルを呼んだのはサムエルだった。「起きなさい。私があなたを送っていこう」。サウルは起きて、サムエルとともに通りに出て行った。町外れまで下って来ると、サムエルはサウルに言った。「若者に我々より先に行くよう命じ、あなたはしばらくここに止まりなさい。私は神の託宣をあなたに聞かせよう」。そこで若者は先に行った。 サムエルはオリーブ油の入った壺を取り出し、サウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「神があなたに油を注ぎ、ご自分の民、イスラエルの指導者とされた。しかしこのことは誰にも決して言ってはいけない。今日、あなたが私のもとを去って行くと、ベニヤミン領のツェルツァにあるラケルの墓の脇で二人の男に出会います。二人はあなたに言うでしょう『あなたが見つけようと出かけて行ったろばは見つかりました。父上はろばのことは忘れ、専らあなたたちのことを気遣って、息子のためにどうしたらよいか、とおっしゃっています』。また、そこから更に進み、タボルの樫の木まで行くと、そこで、ベテルに神を拝みに上る三人の男に出会います。一人は子山羊三匹を連れ、一人はパン三個を持ち、一人はぶどう酒一袋を持っています。あなたに挨拶し、『ろばは見つかりました』と言うでしょう。そして二個のパンをくれますから、彼らの手から受け取りなさい。それから、ペリシテ人の守備隊がいるギベア・エロヒムに向かいなさい。町に入るとき、琴、太鼓、笛、竪琴を持った人々を先頭にして、聖所から下って来る預言者の一団に出会います。彼らは預言する状態になっています。神の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。 これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです」。ここまでサムエルは一気に語った。しかしサムエルは、この「しようと思うことは何でもしなさい」という言葉の中には、見通しの甘さがあることに気づかなかった。国王という立場での権力がどれほどのものであるのかについては、サムエルにも未知のものだった。サムエルは大人しく素直なサウルを、さらに自分の預言者団とつなげることにより、コントロールできると思っていたし、その自信もあった。しかし後に、専門の軍隊を従える国王という存在がどれほど絶大な権力を持つかということを知り、彼はこれを言った自分を後悔することになる。そしてさらに彼は続けた「私より先にギルガルに行きなさい。私もあなたのもとに行き、神にささげ物をします。私が着くまで七日間待ってください。なすべきことを教えましょう」。 サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、以上のしるしはすべてその日に起こった。ギベアに入ると、預言者の一団が彼を迎え入れると、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。サウルは預言する状態から覚めると、自分の町へ戻って行った。町に入るとサウルのおじが待っていて、サウルと若者に聞いた。「お前たちはどこへ行っていたのだ」。サウルは答えた「ろばを捜しに行きましたが、見つからなかったので、サムエルのもとに行きました」。 サウルのおじは言った「サムエルがお前たちに何と言ったか、話しなさい」。サウルはおじに答えた。「ろばは見つかったと教えてくれました」。おじはそれを聞くと満足したように頷いた。サウルはサムエルから命じられたとおり、それ以上のことはおじに話さなかった。


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