悠久の流れ 8


 サラの思惑通りハガルは妊娠した。しかしハガルは自分が妊娠したと判ると女主人であるサラを見下す態度を取るようになった。社会的地位は下であっても女としては上位にあると意識したのだった。これはサラのプライドを著しく傷つけたばかりではなく、社会秩序に対する反逆と映った。サラにして見れば、自分の好意によって主人の側女の地位を与え、主人の子供を妊娠させてやっているのに恩を仇で返すつもりかということである。サラは怒りに燃え、ハガルの立場を思い知らせようと行動に移した。サラは夫アブラハムに訴えた。なぜなら、サラにしてみれば、ハガルの今の所有者はアブラハムであり、責任はアブラハムにこそあると判断したからである。事態の発端は自分によって引き起こされたという自覚は、彼女には全くなかった。サラは夫アブラハムに言った「今私はとんでもない禍を受けています。責任はあなたにこそあります。この私があなたの懐に私の仕え女を与えてやったのです。でも、彼女は自分が妊娠したと見るや、彼女は私を見下すようになったのです。神様があなたと私の間を裁いてくださいますように。このことはあなたの責任だからです」。アブラハムは困惑した。家庭内のことは、サラが取り仕切っていた。彼はサラに全てを任せ切っていて、事実上、家庭ではサラの言いなりだった。それが家庭を丸く納める秘訣でもあった。自分の責任と言われても困る。アブラハムはサラに言った「彼女はあなたの仕え女だ。あなたの手の内にあるではないか。あなたが気の済むようにしたら良い」。アブラハムは責任を取ることも仲裁をすることも完全に放棄したのだ。この時代、男尊女卑の男社会そのものであったが、こと家庭内では女が力を発揮していて、男は無力だった。
 それからサラによる執拗ないじめと嫌がらせが始まった。多くのいじめ問題に共通するのではあるが、サラにしてみれば、本音は明確な鬱憤ばらしである反面、社会秩序に対する反逆者への見せしめという言い訳も成り立っていた。周りにいる使用人、仕え女たちは、当然、火の粉をかぶることを恐れて見て見ぬふりをした。こうした場合、ハガルの立場は全く孤立無援だった。彼女はいたたまれなくなり、アブラハムの居住地から逃亡した。しかし男であっても、一人では生きていけないのが当時の社会だった。妊娠中のハガルは、ただ行くあてもなく彷徨うしかなかった。しかも緑の草木が生えているのは、開拓した居住地域のみで、その周囲は茫漠とした荒れ野、砂漠だった。喉の渇きも加わり、彼女は目立ってきたお腹を抱え、ただ呆然とするしかなかった。アブラハムのところでも孤立無援だったが、ここではさらに命の危機が迫っていた。その時、彼女は荒れ野に泉があるのを見つけた。そのようなことは滅多にあるものではない。まさに奇跡だった。彼女は近づいて行って夢中で飲んでいると、いつの間にか一人の人が傍に立っていた。彼はハガルに言った「あなたはこれからどこに行こうとしているのか」。彼女は言った「この私は女主人サラの前から逃げ出して来ているところです」。彼は言った「あなたの女主人のところに帰りなさい。そして彼女の手の下で生きなさい。今のあなたには、生まれてくる子供のためにもそれしか生きる道はありません」。その時、ハガルは自分をいじめるサラの姿が脳裏に浮かび、絶望的な気持ちになった。しかし続けて彼は驚くべきことを言った「私はあなたの子孫を非常に多くしよう。あなたの子孫は多すぎて数えきれないであろう。今、身ごもっているあなたは男の子を生む。あなたは彼の名前をイシュマエル(「神は聞く」)と呼ぶことになる。なぜなら、神があなたの苦しみを聞き届けたからである。生まれてくる子供は、まるで野性のロバのように自由で力あるものになるだろう。彼は全ての束縛を力強く打ち破って生きるものになる」。そのように言うと彼の姿は消えて見えなくなった。その時、ハガルは自分が神の使いと出会ったことを悟った。彼の言葉は、少しの逆らいも許されないような不自由な自分の境遇に光を与えてくれるものだった。そして彼女は自分が孤立無援、命の危機の中にあっても、神様だけは見守ってくださっていたことに力を与えられた。まさに内側からも力が湧いてくるようだった。彼女は跪き「あなたは見守ってくださっている神様です」と祈った。ハガルは背筋を伸ばし、アブラハムの居住地へと前に向かって進んだ。アブラハムのところでは、彼を初めとして全員がハガルのことを心配していた。サラにとってもアブラハムの子供を妊娠しているので気が気ではなかった。自分が辛く当たったのは、戒めとしてであり、まさか命の危険を犯してまで逃亡するとは思っていなかったのである。彼女のいじめはその後、嘘のようにやみ、むしろ身ごもった体を労ってくれたりした。そして彼女は無事に男の子を出産し、アブラハムはハガルの強い希望を聞き入れて、彼をイシュマエルと名付けた。

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