暴力列島

「コラ!何だその顔は!!」老人は容器ごとおでんをバイトの留学生に投げつけた。「愛想がなってないぞ!!」今度は缶ビールは留学生の頭にぶつかり泡を吹き出した。バックヤードから店長が叫ぶ。「何やってるんだ!」さらに数人の客が集まって同時にバイトを責め立てた。「この人でなし!くたばれ!」次々に商品が飛んだ。

 ヒトヘルペスウイルス4型、エプスタイン・バール・ウイルス。その亜種が発見されたのは2021年の冬のことだった。Human herpesvirus 4 –γ、略称HHV4-γである。HHV4が中枢神経に影響することは以前より知られていた。小児がHHV4に罹患すると、時に不思議の国のアリス症候群(AIWS)を引き起こす。症状はほとんど無害なものだ。視覚情報と実際の物体の大きさにズレが生じる。それも短期間で自然に症状が消滅する。

 それに対してHHV4-γの症状は深刻だった。国立防疫研究センターの予測によれば、HHV4-γは2018年から2019年の頭にかけて誕生し、東京を中心に感染が拡大した。感染初期から前頭葉の灰白質密度の低下が見られ、進行とともに感情制御を担う回路が崩壊していく。感染から丸一年もすれば、患者は怒りの抑制が全く効かなくなり、些細なことで暴力を振るうようになる。統計によれば、若年層ではこの感情障害発症の割合が低いが、年齢が上がるに従って発症率は顕著になる。2021年1月時点で、65歳以上の80%がすでに発症していると見られていた。

 HHV4-γの影響拡大を受けて政府は緊急事態宣言を発令し、異例の国民投票により通称「γ治安維持法」が可決された。HHV4-γ罹患者の保護を第一目的とした法律である。実質的に、罹患者の怒りを鎮めるためであろうが、罹患者の訴えがあれば、指一本触れるだけで暴行罪に問われる。一方で、HHV4-γ罹患者の暴行や殺人は責任能力がないゆえに原則的に、暴行の事実そのものが否定される。γ治安維持法制定にかかる投票率の高さが世論を物語っていた。20代の投票率でさえ4割を越え、50代以上では10割に近かった。

 この異常事態にあって、日本の暴行事件も件数は、統計上全く増加しなかった。メディアは連日、国民のモラルの高さを褒め称えた。美しい国ニッポンは不滅。「永遠の国ニッポン」が流行語大賞の候補となった。

 「早く終わんないかな……」学校帰りの高校生二人組が、菓子パンを手に顔を見合わせていた。こんな時は、誰の視界にも入らないように物陰に隠れているのが一番だ。だいたい、ひとりふたりの生贄が叩きのめされて動けなくなると騒ぎは収束する。


#逆噴射プラクティス

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