小説 『わたしを忘れて』

原稿用紙換算 百六十七枚

わたしのいのちは、もってあと数十分と言ったところです。いま、最終確認の書類にサインをして、市役所のケースワーカーに手渡しました。これから心電図の装置を身体に付け、生理食塩水の点滴が施されます。準備に少し時間がかかるとの話です。

絶命するまでのわずかな時間、わたしはとりとめもなく今までのことを思い出しては、幾度も反芻しています。同じことを何度も何度も。また、こうして考えごとをしていると、遠い昔の出来事とそう昔ではない過去の出来事がランダムに浮かんできます。わたしの人生の時間軸は一本しかないのに、思考の進行を示す矢印は、縦横無尽に現れては消えていくのです。

現在のロケーションはいたってシンプルです。一般的な病院の個室――ひとつ映画などとは違うのは、カーテンが青空のような色をした優雅なレース柄をしていることぐらいでしょうか。あとはすべて白で統一されています。窓の外からは海と山とが一望できます。

ここにはわたし本人と医師と看護師と弁護士の他に、件のケースワーカーの五人きりで、他には誰もいません。みんな、今日この時わたしが死を迎えることは知らないのです。もっとも家族に関しては、今現在生きていないので、この場にいないのは当たり前なのですが。つまるところ、周囲の人間には何も告げずに、わたしは冥土へと旅立ってゆくのです。

淋しい? いいえ、ちっとも――いいえ、淋しいのかもしれません。でも、このことに関しては何も後悔していません。随分前から、この瞬間が来るのを心待ちにしていたのですから。――いいえ、いいえ。わたしは本当に嘘つきですね。そう、わたしはあるひとりの人間だけには止めてほしかったのです。この際だから、本当のことをお話ししましょう。透――藤原透。彼との未来がもしもあったなら、わたしはこんなに早く死んだりはしなかったかもしれません――いいえ、やはりあったとしても、わたしは彼との未来を選びませんでした。

最愛の彼を欺いて、わたしは人知れずひっそりと逝くつもりです。

彼には手紙を書きました。それは長い長い手紙でした。でも、先ほど弁護士に託そうともしましたが、寸前で破いてゴミ箱に捨てました。筆不精どころか、日本語もちゃんと書けないほどの――中学もろくに行っていないわたしの悪筆悪文なんて、ひとに見せられたものではありません。だから、それでよかったのだと思います――そうです、きっとそうに違いありません。

透とのことは後ほどお話しするとして、それよりもまず、わたし自らの過去のことを説明させていただきます。

今から三十五年前、わたしは日本海に面した蒲原というところで生まれました。十三歳までそこに住んでいました。そのあと十八歳までは訳あって隣の市に住みましたが、その後は東京に出まして、そこで十数年間暮らしました。いまは東京から電車で二時間くらいの所にある、松輪市に移り住んでいます。

わたしは海に思い入れがあるので、遺骨は海洋散骨を希望しています。もうすでに葬儀社との契約も済んでいます。わたしの遺骨は蒲原の海でなく、太平洋側の松輪の海に散骨して貰うように遺書に書きました。焼骨も散骨も、全て業者に頼んであります。

今日のことは誰にも何も話していないので、わたしはまるで、この世に最初からいなかったかのように、きれいさっぱりその姿を消してしまうでしょう。

――いいえ、もしかしたら、わたしのフラメンコの師匠であるアッコ先生とギタリストのタロウ、そして先ほどお話しした透の三人は違うかもしれません。わたしの行方を尋ねるために、電話くらいはするでしょう。でも、いったいどこに電話をするのでしょうか。市役所、葬儀社、弁護士、病院――みんなそれぞれ守秘義務がありますから、電話をしたところで個人情報を漏らすようなことはまずないでしょう。住んでいたアパートに行ったとしても、すでにもぬけのからですしね。

それよりも、昔の話をしましょう。蒲原での話です。

この町はちょっとした市街地で観光業も盛んでして、地魚料理が美味しいと有名なところです。わたし自身は魚介類はそんなに好んで食べませんが、東京のそれと比べると、やはり蒲原の魚は美味しいと思います。魚の好きな人は一度行ってみてはいかがでしょうか。

わたしは今から二十二年前に、この蒲原から忽然と姿を消しました。ある事件をきっかけにして。その事件は全国的にもニュースになりましたから、きっとわたしが蒲原に帰ったら、地元の人々は声をひそめて噂するでしょう――あの子が帰ってきた――と。

今もあの事件について、誰かが話題にしている可能性もあります。だからわたしは蒲原だけでなく、東京でも松輪でも息をひそめて暮らすべきだったでしょう。

しかしわたしは東京に来てから、あの事件とは全く別の話題において、ちょっとした有名人なりました。テレビやネットチャンネルなどの番組にこそ出てはいませんが、少しは名の知れたバイラオーラ――つまりフラメンコダンサーだったのです。

つい四年前までは東京など全国各地で活動していましたし、生徒もいました。二十七歳の時に出場した、フラメンコ協会主催のコンテストでは審査員特別賞を頂きましたし、本場のスペインにも一度だけですが行きました。でも、すべては過去の話です。

本来ならば、こんな風に世間に出る職業を選べる身ではなかったでしょう。しかしあの事件があったからこそ、わたしはフラメンコと出合ったのです。

あの事件――と言いますと。あまり思い出したくないので、ごく簡単に説明させていただきます。

わたしはつまるところ、人を殺したのです。自分の母と弟と、それから母の知人の男性を。なぜ殺したのかの理由は単純です。わたしは母の知人男性ら相手に十二歳の時からおよそ一年間、身体を売らされていたのです。それに耐えられなくなったのが主な原因です。

どうやって? ――母からの弟への八歳のバースディプレゼントだった、真新しい金属製のバットでその三人を殴り殺しました。

その日は弟の誕生日の次の日でしたから、一月の末でした。蒲原の冬は三十分ごとに晴れたり曇ったり、雪が降ったり雨になったりするのが特徴です。その日もやはり、三十分ごとに天気がくるくると変わっていました。わたしが犯行に及んだのは、日が暮れた頃だったと思います。何時頃だったのかは覚えていません。ただ、わたしが窓の外を見た時は、ちょうど雪が降っていました。うんと小さかったら雪だるまを作りに外で遊んでいたでしょう。その時、雪は四十センチくらい積もっていたかと思います。しかし、わたしはその日も一日中家に閉じこもっていました。思えば身体を売り始めた頃から、ろくに外に出ていませんでした。

その日の「客」はいつもの母の知人で、月に二、三回のペースでわたしを買いに来る人でした。何がきっかけでわたしは殺人を犯したのでしょうか。いまでもそれは分かりません。

ただ、弟のバースディプレゼントを買う為に、母の酒代や遊び代の為に、なぜ自分が身体を売らないといけないのかと、ふと疑問に思ったのです。せめてわたしが普通に愛されていたなら――弟のように無条件で愛されていたなら――こんなことにはならなかっただろうと思うのです。

いままで――いいえ、身体を売る最初の日に、もしくはその前に何故この疑問が湧かなかったかの方が、不思議だと思うのですが――とにかく、自分は育てて貰った恩を返さないといけない、母には逆らえないなどと思い込んでいたのです。苦労して育てて貰ったのだから、親の面倒をみるのは至極当然のことだと思い込んでいました。

とにかくあの日、弟が嬉しそうにバットを持って家の中で振り回して遊んでいた時に、わたしの中で何かが切れたのです。そうです、あれは自分が理不尽な扱いを受けているという自覚に目覚めた瞬間でした。

わたしは自分の「仕事」を終わらせて「客」が帰ろうとした時に、ちょうど玄関先に放ってあったバットを持って、まずはその「客」を殴り殺しました。

あのバットというものは、もともとはボールではなく、人間を打つ為のものだったのではないかと思うくらいに、重さや長さ、大きさがぴったりでした。人間の全身を何回くらい打てば死ぬのか――数えてはいませんが、そう大して回数はいらなかったと思います。なにせ、小さい頃からバレエを習っていただけでなく、スポーツ万能で体力も十二分にあったのですから。

そして二日酔いの母がそれに気づきました。さすがの酔っぱらいも玄関先の惨状を見て、声を上げられないほど驚いたらしかったです。母はすぐに次は自分が殺されることを察して、バットを持った私から四つん這いになって――恐らく腰が抜けて立てなかったのでしょう――部屋の中を逃げ惑いました。しかし、わたしは母を、そして子供部屋でゲームをしていた弟をと、次々と殴り殺しました。

遺体の損傷が激しかったと後で警察から話を聞きましたが、恐らくわたしは母たちが死んだ後もバットを振る動作を止めなかったようです。つまり、もうすでに死んでいるにもかかわらず、わたしは三人を殴り続けていたと言う事になります。

あれ以来バットには触っていませんが、あの重さはまだこの手が覚えています。あの人間を打った時の手ごたえというか――ドン、ドン、と言う鈍い音と手から身体中に伝わる振動――あの感触は独特のものだったと思います。血しぶきがあんなにも生温かかったことも――ただ、どこか夢の中での出来事のようで、あれが本当にあったことなのかどうか、たまに忘れてしまいます。十三歳の時の殺人の記憶は、わたし本人にとっては、とても味気のないものでした。わたしからすれば正当な理由があっての犯行だったので、罪の意識はいまもありません。もちろん、裁判ではそんなことは口にしませんでした。弁護士の先生がわたしの刑が軽くなるように、反省するふりだけでもしておいた方がいいと仰いました。もしもわたしが明け透けに反省の色がないことを大人たちが知ったら、ただでは済まされなかったでしょう。

母は場末のスナックのホステスでした。その頃にはもう、指名の客が付かないような年齢――いいえ、立場になっていました。生活はその前から困窮していましたので、わたしが身体を売ることになったのです。

学校の先生や周囲の大人、それこそバレエ団の先生にでも助けを求めるべきだったでしょう。しかし、自分が売春をしていることを誰にも言えませんでした――ええ、そうです。言えるわけがありませんよね? こんなことがもしも我が身に起こったら、誰だってそうすると思うのです。もっとも、さすがに殺人はやりすぎだったとは思います。でも、当時十三歳のわたしには他に手はなかったのです。

金属製のバットで三人を殺してすぐ、外へと出て行き、近くの崖から海へ飛び込もうとしました。でもその時、たまたま通りがかった観光客に見つかり、海への投身自殺は出来ませんでした。そして血の付いたセーターを着たままで、わたしは警察に保護されました。

わたしははじめ、殺人犯・少女A として逮捕されました。自分の口からは売春の事実は言えませんでしたので。周囲の住人はうすうす気づいていて、噂になっていたらしいのですが、大人たちはわたしが殺人をせざるを得なくなるまで、見て見ぬふりをしていました。でも「客」は複数いましたし、その中には妻帯者もいました。自分の身内が買春をしているという事実を認めたくない大人たちは、なかなかわたしが売春をしていた事を白状しなかったようです。でも、割とすぐに警察は買春の裏付けを――いったい誰が「仲間」を売ったのかはわかりませんが――とったので、わたしの身分は単なる殺人犯ではなく、売春を強要されていた少女による報復殺人事件の容疑者だという事になりました。

わたしはまず、拘置所に保護されましたが、すぐに少年鑑別所に移され、その後裁判で情状酌量もありましたが、結果として懲役三年の有罪判決を言い渡され、第三種少年院――いわゆる医療少年院に入ることになりました。はじめは凶暴性があり、また自殺念慮があるとされ、隔離室で拘束されていました。そう、拘束とはその言葉の通り、わたしはベッドに柔道の帯みたいなもので括りつけられていたのです。

最初の数日間、わたしが大人しく看護師や医師の指示に従っていたので、割とすぐに拘束は解け、それからは部屋の中を自由に歩くことを許されました。でも、その部屋には窓に鉄格子が設けられ、ベッドと便器しかありませんでした。もちろんテレビもパソコンも無かったので、ワイドショーやインターネットなどで、自分がどんな風に世の中を騒がせていたかは、リアルタイムでは知りませんでした。

一般病棟に移ってからも、わたしはテレビに興味が無かったので、食堂やなんかのテレビを観る事はありませんでした。また、自分がしでかした事に対する世間のリアクションにも興味がありませんでした。というよりも、売春と殺人の事実を興味本位で取り上げて騒ぎ立てる輩から、心理的に距離を置いていました。興味が無いと言うよりも、わたしにとっては忘れてしまいたい出来事だったのです。

そんなわたしは十四歳の時に、フラメンコと運命的に出合いました。それがなかったら、わたしは一生人間不信のままで、生きた人形のような存在だったでしょう。

 

 

 バレエをやめた十二歳くらいから、フラメンコを勉強し始める十四歳までの約二年間、ろくに身体を動かしていませんでした。でも、若さと言うものは本当にありがたいものです。なにせ僅か数か月のリハビリで、人並み以上に動けるようになりましたので。やはり、踊るという行為はわたしの性に合っていたのでしょう――いいえ、もしかしたら、長年身体に染みついた習性なのかもしれません。恐らく三歳の頃から蒲原で一番のバレエ団で教育を――訓練を受けていたからでしょう。母は昔バレエをやっていましたが、若い頃に脚を怪我したことがきっかけで、バレリーナになる夢を諦めたと聞いています。だから娘であるわたしに期待をかけたのでしょう。小さいわたしはその期待に応えるのに必死でした。

一生懸命つらいレッスンに耐えたおかげで努力が実り、十歳になるころにはそのバレエ団では一番上手い生徒になりました。小学校六年生のクリスマス公演では『コッペリア』を上映しました。わたしの役柄はコッペリアという人形の役でした。言葉の通り人形の役です。他の舞台ではマネキンや何かを使って上映する場合が多いらしいですが、蒲原のこのバレエ団ではオリジナル演出がされていて、わたしはじっとしている演技が多かったのでしたが、時折カクカクと動く演技もしましたし、ほんの一場ですが、一分半ほどのソロパートもありました。本当に主役級のおいしい役柄を貰ったと、いまでも思います。

しかし、わたしはあの後すぐにバレエをやめてしまいました。先生方はわたしの可能性を惜しんでくださいましたが、やはり金の切れ目が縁の切れ目だったのもあるのでしょう。退団してからも時々町で会うと挨拶を交わしていましたが、やがて段々と顔を合わせづらくなりました。もっとも、わたしが家から出られなくなったせいもありますが。

不思議な事に友達がいなくても、淋しいとは感じたことはありませんでした。わたしは変わっているのでしょうか。もしもそうなら、わたしの精神はこの頃からすでに壊れていたかもしれません。――いいえ、きっと生まれた時から、すでにきちんと生育していなかったのでしょう。わたしはつまり、母の作った人間の形をした他の何か――人形のようなものだったのかもしれません。『コッペリア』はそんなわたしにとって、まさにはまり役だったでしょう。いま思うと因縁めいたものを感じます。

フラメンコと出合ったのは第三種少年院に移ってから、三か月後くらいだったと思います。デイケア室という、娯楽室というか視聴覚室というか――とにかくそこでパコ・デ・ルシアやサラ・バラスの動画を観た時に、わたしは何か、それこそ雷に打たれたような衝撃を受けました。

確かにバレエにも『白鳥の湖』の中に『スペインの踊り』というラテンダンスのパートもありますし、『カルメン』や『ドン・キ・ホーテ』、或いは『恋は魔術師』、『三角帽子』など、スペインの民族舞踊がもとになった演目はあります。でも、生まれて初めて本格的なフラメンコを見て、とにかく感動を覚えたのです。

あのギターと靴音とカスタネットの音、十二拍子の独特のリズム。一度聴いたら忘れられない圧倒的な存在感のある踊り。単純に「わたしもあんな風に踊りたい」と生まれて初めて思いました。バレエの時は、ひたすら母に喜んでもらうために、先生に叱られないようにと、いつも振りを間違えないようにするので精いっぱいでしたが、フラメンコは本当にわたしが出合った、まさに運命の伴侶でした。

更生プログラムの合間に、パソコンでフラメンコの動画を観る事が出来たので、毎日暇さえあれば、夢中で振りと歌をコピーしました。バレエを長くやっていると、たいていの踊りの振りをコピーできるので、出所するまでの間、数多くのフラメンコを勉強する事が出来ました。細かいステップと女性ダンサーの脚の動きは、長いスカートが邪魔でちゃんと見れなかったので、実際にきちんと踊れるほどではありませんが。しかし、この時に必死でフラメンコを研究したおかげで、十八歳から本格的に習い始めてわずか九年で、プロデビューを果たすことが出来ました。

十四歳でフラメンコと出合ってから四年、更生プログラムを無事に済ませて、わたしはグループホームという身体や精神に障碍を持つ人たちが住むアパートで暮らすようになりました。ちょうど十八歳になったばかりの時です。

わたしは地方のいち都市では、フラメンコの勉強が本格的には出来ないのに気づいたので、思い切って「東京のグループホームに入居して、働きながらフラメンコの勉強をしたい」と主治医と後見人に言いました。はじめは心配されましたが、後見人の知り合いにフラメンコの舞踊団を持っている人がいるとのことだったので、その人の元でなら――と紹介状を書いてもらいました。それが件のアッコ先生です。日本有数のバイラオーラであり、偉大なる前衛的フラメンコの振付家――コレオグラファーの亀山厚子先生です。

東京――日本で一番何もかもがある街。あそこに行けば、まるで夢がすべて叶ってしまいそうな魅力的な街。わたしのことを誰も知らない人間だけの街で暮らしたい――確かにそう言った理由もありましたが。とにかくわたしはやっと生まれて初めて、自分の人生を自分の思うがままに生きようと思ったのです。主治医も後見人も、なによりわたしが前向きにものを考えるようになったので、東京行きを止めることは出来なかったようです。事実、わたしは東京に出てきてよかったと思っています。その理由もお話しする必要があるかもしれません。

 

 

――桜の咲き始めって、ポップコーンみたいだと思わないか? さっきまで蕾だったのに、ほら、またいつの間にか弾けるみたいに咲いてるよ。似ていないか? 屋台で売ってる作りたてのポップコーンに――

透と花見をしたのは、今年の春が最初で最後でした。今年の桜は例年よりも長く咲いたという話です。

毎年この時期、透の仕事の関係で花見は出来なかったのですが、今年は仕事をしていなかったのもあり、わたしは彼を花見に誘いました。わたしにとっては最期の桜なので、どうしても透と一緒に観たかったのです。

透はやせっぽちのくせにかなりの食いしん坊で、桜を見ればポップコーン、満月ならばたこ焼きに似ていると言っていました。他にも何かしらの自然現象を見ては食べ物に例えていましたが、わたしが覚えているのは、ポップコーンとたこ焼きです。こんな風情があるのかないのか分からない、彼の独特な感覚をとてもいとおしく感じていました。

桜が咲くと日本人は――外国人もそうだろうとは思うのですが――みんな、なぜあんなにも歓ぶものなのかと、いつも不思議に思っていました。確かに冬枯れた地味な色合いの風景に薄紅色の花が咲いていれば、自然と目が行くかもしれません。

わたしは小さい頃から、あまり花や緑が美しいと思ったことがありませんでした。不思議なことに、この十八歳の春――普通ならば高校を卒業していただろう歳に――生まれて初めて桜が美しいと感じました。

東京のソメイヨシノの開花は蒲原よりも一か月近く早いとの話です。わたしはそれまで意識して桜を観てはいませんでした。蒲原の桜も東京の桜も恐らく同じ種類のはずですし、むしろ蒲原の方が自然豊かなのですから、きっと桜も豊かで美しかったはずでしょう。それなのにわたしは、生まれてこのかた十八年もの間、桜の美しさに気づかなかったのです。たぶん十八歳になって、やっと人間らしい心を持つようになったのだと思います。故郷からの解放がそうさせたのではないでしょうか。

だから透と出会う前に東京で桜を観て、その美しさに気づけてよかったと思うのです。東京での充実した十数年間があったからこそ、こうした何気ない思い出が、かけがえのないものとして記憶されたというわけです。

こうしてベッドで横たわって瞼を閉じていると、透の顔の詳しいディテールはおぼろげなのですが、これまで幾度となくわたしを笑顔にしてくれた、微笑ましいエピソードはいくらでも思い出せます。

桜が咲くとそれまでの春はいつも、十八歳の時に上京してきた時のことを思い出していました。しかしいま、もしも桜を観る機会があったなら、きっと透と一緒に食べたポップコーンを思い出すでしょう。でも、その記憶もあと数十分でなくなってしまいます。死によって、わたしはわたしであることを忘れてしまうのですから。

東京の第一印象は、まるでおもちゃ箱の中身を小さい子供が一つ一つ丁寧に並べたみたいな街だと思いました。大人がではなく、あくまで子供が自分で楽しく遊ぶために並べたという印象です。

わたしは付き添いの方と一緒に新幹線で大宮を目指し、そこでJRに乗り換えて渋谷に向かいました。ちょうどお昼時だったので、付き添いの方が――少しは東京見物をさせようとしたのか――渋谷でお昼ご飯を食べてから、世田谷にあるグループホームに向かおうと提案したのです。

わたしはこんなにも大勢の人間を一度に見たのは初めてだったので、少し緊張しましたが、その反面、年頃の子供らしくテレビやインターネットでしか見たことがなかった都会――沢山のおもちゃ――に興味津々でした。蒲原よりも一か月早い桜が春の陽射しに透けていて、桜の咲くさまは、やはりポップコーンに似ていたと、いまにして思います。

その日の昼食は渋谷のセンター街にある洋食店で、ハンバーグセットを食べることになりました。こうして外食するのは子供の頃以来です。確か、十歳くらいの時に母と弟と三人で近所のファミリーレストランに行ったのが最後だったと記憶しています。やはりその時もハンバーグセットでした。

どうやら大人達は子供にはハンバーグがいい、と思い込んでいるようですね。母もその付き添いの方も、一応何が食べたいかは訊くのですが、大人達はわたしが何にしようかと悩んでいるうちにしびれを切らしたのか、毎回ハンバーグを勧めるので、何となくいつもハンバーグになってしまうのです。もちろんハンバーグが嫌いな訳ではありませんし、メニューを出された時にさっさと選べないわたしがいけないのです。でも、一般的にはものの三分もしないうちにオーダーを決めないといけないものなのでしょうか。少なくとも透との食事の時は、いつも私が食べたいものが決まるまで待って貰えましたが。

実に八年ぶりくらいに外でハンバーグセットを食べたせいか、昔を思い出してしまい、その時は少し気分が悪くなってしまいました――いいえ、気分が悪かったと言うよりも――わたしはその時、気づきました。小さな幸福の記憶は、かえって悲しい気持ちを呼び起こすものなのだと。過去の自分が幸せだと、いまそれがここにないことを思い知るのです。

母たちを殺した後、暫くは家族の夢を見ませんでした。でも、最近のわたしはどういう訳か子供の頃の幸せな夢をたびたび見るのです。目が覚めた後にはいつも、自分でも訳の分からない涙が出ているのです。決して恵まれた環境ではなかったにしろ、母が本当の意味でわたしを愛してなかったにしろ、子供の頃のわたしは、確かに幸せだったのだと思うのです。これが偽物の幸せに過ぎないのは頭では分かっているのですが、気持ちがついていかないのです。家族のこととなると、わたしの心はいつも混乱してしまいます。一体どう自分の心理状態を分析すればいいか分からないし、どう気持ちの整理をつければいいのかなんて、皆目見当つきません。

それに、もしかしたらわたしは幸福に慣れていないせいか、心のどこかで少し不幸な状態を望んでしまう癖があるように思うのです。うまく言えませんが、見たことのないものは欲しがることは出来ないのではと。知らないものは手に入らない――わたしは自由になった十八の春に、自分のこの先の人生があまり明るいものではない事に気づいてしまったのです。

もちろん、不幸なだけの人生ではありませんでした。幸福とは感じるものであるとよく言いますが、わたしには幸せを感じる能力が低いのではないかと、この時気づいたのです。

渋谷で食事を済ませた後に地下鉄に乗り、いくつ目かの駅で降りました。その駅前の商店街はヤエザクラの並木になっていて、まだ蕾が膨らみ始めたばかりでした。

付き添いの人は、もう少ししたら見頃になると言っていました。桜の種類はソメイヨシノくらいしか知りませんでしたが。この町のはずれにはウコンザクラという変わった、緑がかった白っぽい色をした桜があるのを後で知りました。そのほかにも色々と桜は種類が豊富らしいですが、とにかくこの十八の春は、少なくとも桜の種類が三種類以上ある事を知りました。

 

 

世田谷のグループホームに引っ越したわたしは、三日ぐらいで片付けや買い出しを済ませて、アッコ先生の経営するお店に電話を入れました。だいたい午後の一時過ぎくらいだったと思います。電話口にはギタリストのタロウが出て、先生は夕方過ぎないと店には来ないと言っていました。わたしは軽く夕食を済ませてから、その店へ行く事にしました。

その店――タブラオの名前は『Sueno positivo(スエニョ・ポスティヴォ)』――スペイン語で「正夢」という意味だそうです。

スマートホンの地図アプリで店名を検索しても、すぐには見つかりませんでしたが「恵比寿 タブラオ」と検索したらすぐに引っかかりました。どうしてこんな分かりづらい名前にしたのかは、いまだアッコ先生からは聞いたことがありません。

ただ、アッコ先生はいつもこう仰っていました――夢は叶うんだから、いい夢を持ちなさい。悪いことを考えると、本当にその通りになってしまうんだから――と。

恵比寿の駅から本来なら歩いて五分の距離でしたが、わたしがそのタブラオに着いたのは夕方七時を過ぎていました。つまりわたしは小一時間ほど、恵比寿駅周辺を彷徨っていたということになります。あたりはすっかり暗くなっていましたが、そもそも看板の灯が点る時間にならないと、タブラオは見つけにくいことに気づきました。ましてや入り組んだ路地の中にあればなおさらです。

四階建ての古いビルの一階がタブラオ、二階がフラメンコのお稽古場、三階と四階が賃貸マンションになっていて、タロウは三階に住んでいるとのことでした。アッコ先生は目黒のお家でご両親とお住まいです。アッコ先生のご両親はお父様が元フラメンコギタリスト、お母様はフラメンコ歌手でした。舞踊団のみんなは、それぞれ「じいじ先生」「ばあば先生」と親し気に呼んでいました。お二人はまだまだお元気でしたので、現役を引退してからもたまにタブラオに来て、歌とギターを披露してくださいました。タブラオは夕方から夜中まで営業していますし、レッスンも夕方からなので、アッコ先生はいつも昼間はシエスタ、だそうです。

初めてお会いした時、アッコ先生は、黒のワンピースをお召しでした。お歳は当時四十五歳になったばかりとの話でしたが、若々しくエネルギッシュで、そしておきれいでした。アッコ先生はその時、わたしの身の上を詮索するようなことは言わないまま、紹介状をざっと読んだだけで、いきなりこう仰いました。

――あなた、いま踊れる? ――と。

わたしはその時、春物のニットとチノパンという服装でした。靴はスニーカーだったと思います。

突然そう言われてびっくりしましたので、「はい」と思わず反射的に返事をしてまいました。すると、アッコ先生はすぐに舞台へとわたしを誘って、ソデに置いてある赤いフラメンコシューズに履き替えました。それに続いてタロウも舞台に上がり、椅子に腰かけてギターのチューニングを始めました。

思わず「踊れる」と返事をしてしまいましたものの、まだフラメンコシューズを持っていなかったので、それを見て――しまった、フラメンコシューズを事前に買っておけばよかった――と後悔しました。

――バレエを随分やっていたらしいわね。何でもいいから、まずはあなたの踊りを見せて頂戴。話はその後よ――とアッコ先生は仰いました。

わたしは何を踊れがいいかが分からなかったので、途方にくれて立ち尽くしていました。それを察したタロウが――好きな曲はなんだ? ――と声をかけてくれました。わたしは何が好きか聞かれて、散々迷いました。なにせ、好きな曲がいっぱいありすぎて――そのくらいフラメンコに憧れていたので――とにかく散々迷った結果、こう答えました。

――『ラ・バローサ・アレグリアス』が好きです。パコ・デ・ルシアの。でも、細かいステップは出来ませんし――アッコ先生もタロウも真っすぐにわたしを見るので、これは誤魔化しても無駄だと思い、正直に答えました。

――アレグリアスの意味は知っているのか? ――と、またタロウがわたしに尋ねました。わたしは正直に首を横に振りました。タロウは苦笑していましたが、アッコ先生はその場で軽々と、冒頭のサパテアド――ステップを踏んでみせました。あの細かくて速いステップを軽々と、です。

――この曲を自由に解釈して、あなたなりに表現してみて。なにもフラメンコじゃなくてもバレエでもいいのよ。さあ、踊りましょう――アッコ先生は再びサパテアドを踏みました。そのすぐ後にタロウがギターの伴奏を始めたので、わたしは慌てて曲の途中から踊り出しました。

何をどう踊ったかはもう覚えていませんが、バレエのようなフラメンコのような――リズムを頭の中でカウントしながら、この曲から感じたものを表現しました。アレグリアス――この曲の意味はその時はまだ分かりませんでした。でも、アッコ先生のサパテアドの音とタロウのギターに合わせて、この曲から感じる何かを表現しようと、懸命に踊りました。バレエというよりも、コンテンポラリーダンスなどの部類に入るのでしょうか。とにかくわたしは夢中で踊り切りました。

――ビエン! ムイビエン!――アッコ先生はそう言って、人懐こそうな笑顔を見せました。タロウも黙って拍手をしていました。

――アレグリアスの意味は「喜び」なんだから、もっと笑顔で踊れるようにならないとね――アッコ先生はそう仰いつつ、初めてにしては上出来だとほめてくださいました。

こうして無事に弟子入りが決まって、その日はお祝いだとアッコ先生が、パエリアなどのスペイン料理を沢山振舞って下さいました。すでに夕食を済ませてしまって食べられないとは言えなくて、その日は生まれて初めてお腹がはち切れそうになるまでに食べました。以来、アッコ先生はわたしが来ると、いつもお腹いっぱいに何らかを食べさせようとするので、それ以来レッスンのある日はお昼ご飯を食べないで行くようになりました。

レッスンは週三回、作業所での就労が週四回で、週末の夜は勉強を兼ねてタブラオでウエイトレスをしながら、アッコ先生や先輩の踊りを観る日々が続きました。本場のスペインから来ているダンサーもいたので、わたしはスペイン語も少し勉強もしてみたりと、とにかくフラメンコに関するものはなんでもやってみようと思って、いろいろと首を突っ込みました。

そんな充実した日々が来て、普通なら順風満帆でやっと自分の人生が始まっただろう、と思う方も多いでしょう。でも、表面的には幸福そうに見えるかもしれませんが、わたしの内面的な不幸は継続したままでした。

こんなにも恵まれていて、なぜ不幸なままなのか――その理由については、誰にも理解出来ないものかもしれません。当のわたし自身も理解出来ないのですから。そうです、先ほどお話しした透とのことも。何故あんなにも幸せな恋をしながら、それを捨ててしまうのか。そのあたりは、もう少し東京での話をする必要があるでしょう。

 

 

先ほどわたしが申し上げた通り、本当に東京という街は「子供がおもちゃを並べた」ような街でした。蒲原や松輪が静かすぎるのかもしれません。

とにかく東京にいた頃は、夜が夜でないような――一日中街が眠らずに活動していたという印象があります。ほとんどの店が二十四時間年中無休だったせいもあるでしょう。むしろ夜の方が賑やかだったのでは、と思う時もありました。

第三種少年院に服役中、パソコンや裁縫などの技術を取得していたので、わたしはA事業所で働くことが出来ました。一般の仕事場がどんななのかは知りませんが、A事業所は障碍のある人が働く場としては、仕事のレベルが高かったとの話です。

わたしの仕事は古い本を電子書籍化するために文字データを入力する仕事でした。つまり、いわゆるベタ打ちというものです。だいたい、わたしは月に六万円くらい工賃を貰っていました。一日六時間、週四日グループホームからバスで隣町まで通っていました。もちろん六万円だけでは生活できませんから、生活保護と障碍年金を受給していました。

服役中の治療で薬の調整が出来ていて、精神は比較的安定していましたが、環境の変化のせいでまた調子を崩していました。でも、フラメンコだけはやめたくなかったので、その一心で事業所もレッスンも無遅刻無欠勤を通しました。

それが出来たおかげで、二十七歳のときには、ギタリストのタロウと歌手のホセと組んで、フラメンコ協会主催のコンテストで入賞を果たせました。

弟子入りして八年経ったある日「コンテストに出ないか」とアッコ先生が勧めて下さいました。はじめは過去の事もあって散々迷いました。それにわたしは、表現者の割に自己顕示欲や承認欲求が低い方なので、ただ自分が好きに踊れればいい、という感覚がありました。でも、フラメンコを通して仲間が出来て、その仲間と一緒に切磋琢磨していくうちに、やっと他人に喜んで貰えるような踊り手になりたいと思えるようになりました。だからこそ、コンテストに出場したのです。

アッコ先生はフラメンコ界では異色の存在で、前衛的な振り付けで有名な方でした。入門して数か月、基本のセビジャーナスとファンタンゴを覚えた頃のある日、アッコ先生がわたしにこう仰ったのです。

――綾乃、あなたどのくらい跳べるの? ――と。

わたしはこのお稽古場で跳んで見せろという意味だと察したので、その場で大ジャンプとターンジャンプ、それから一回転ジャンプを披露しました。アッコ先生は、それをわたしの個性としてフラメンコに生かすようにと提案して下さいました。

アッコ先生曰く、「空飛ぶ夢のフラメンコ」だそうです。

誰もやらないこと、わたしだからこそ出来ることをしてこそ、踊る意味があると。ついでに言うと、ブエルタ――回転技もやろうと思えば五回転以上は連続して回れましたから、それも取り入れました。もちろん、曲とずれないように気を付けながらです。

アッコ先生の振り付けは、高い身体能力を要するものでした。わたしはコレオグラファー・亀山厚子の「夢」を具現するバイラオーラだと評されました。アッコ先生の振り付けは、ご自身が睡眠時に見る夢からインスピレーションを受けたもので、とても独創的でした。一方では異端だとする意見もありました。しかし結果的にわたしはバイラオーラとして成功しました。それはアッコ先生が高崎綾乃は唯一無二の存在だということを、フラメンコを通して証明してくださったことが大きいと思います。

自分は自分でいい――それまでのわたしは母が作った「人形」のような存在でしたが、東京に来てアッコ先生やタロウと出会って、わたしはやっと人間になれた気がします。

アッコ先生はわたしの師匠にして大の恩人ですが、それと同じくらいに、タロウもわたしにとっては恩人です。というよりも、兄のように慕っていました。男性が苦手だったわたしがなぜタロウを? ――わたしは初めてタロウと出会った時から、なんとなく彼がわたしを女として意識していないのがわかったせいもあります。それもそのはず、タロウにはホセという恋人がいました。そうです、タロウはいわゆるゲイで、女性に対して性的な関心がない人でした。ホセはスペイン人で、横浜に家族と住んでいましたが、週末はアッコ先生の店を手伝いに来ていました。日本語がとても上手な優しい人でした。わたしがみんなに「綾乃」と呼び捨てにして貰えるようになったのは、ホセがきっかけでしたが、タロウが定着させたのが大きかったです。

最初はアッコ先生でさえ「綾乃ちゃん」と呼んでいたのに、タロウが事あるごとにぶっきらぼうにわたしを呼び捨てにするので、わたしはアッコ先生を始めとする仲間たちにも「綾乃」と親しみを込めて呼ばれるようになりました。いままで仲間とか友達とかの親密な人間関係が苦手だったわたしを変えたのはたぶん、タロウのおかげだと思います。

またアッコ先生は、自分の「夢」を現実と上手く折り合いをつけるのが得意な方でした。よく、アッコ先生はこう仰っていました。

――自分の正義や主張を世間の常識とを どう擦り合わせて生きていくかが大事なのよ――と。

わたしはそれを初めて聞いた時、なるほどと思いました。

それから、間違っていることがイコール悪いこととも限らないとも仰っていました。アッコ先生と出会って、わたしは自分の生き方を見つけていったように思います。

 

 

でも、そんな平和な日々も長くは続きませんでした。ある日、そう、フラメンコのコンテストで入賞して、アッコ先生のアシスタントを経て、その後自分の受け持ちクラスを持った二年後、突然一通の手紙が店に届いたのです。最初にそれを見つけたのはタロウでした。切手が貼っていないだけでなく、封筒も封をされていなかったその手紙を開けると、パソコンでこう印字された紙が一枚入っていました。

――高崎綾乃様。私のおとうさんを返してください――と。

わたしはそれを見て、すぐに蒲原でのあの殺人事件の記憶が蘇りました。そうです、わたしがあの蒲原の金属バット殺人事件の少女Aだと知っての手紙だと気づいたのです。

タロウには前にわたしの過去を打ち明けていたので、事情を察した彼がすぐに持っていたライターで、黙ってその手紙を燃やしてくれました。――このことは忘れろ――とタロウが言ったので、わたしもそうしようとしました――いいえ、実際は忘れることなど出来ませんでした。 

その日もいつもの通りレッスンをしましたが、アッコ先生がわたしの表情が暗いと、レッスンの後に心配してくださいました。わたしは何も言えないまま、何もなかったふりをしました。

その夜に、わたしは気になって自分の名前をインターネットで検索してみました。確かに、異色のフラメンコダンサーだのという記事が多かったのですが。匿名で書き込める掲示板では、こう書かれていました。――某前衛的フラメンコ舞踊団のダンサーA・Tは十三歳の時に蒲原で殺人を犯している。売春を強要されての報復の殺人を――と。

わたしはタロウにそのことを相談しました。

――気にしても仕方ないから忘れろ。綾乃は悪くない。ちゃんと服役して更生したんだからもう許されるべきだ――と言われましたが、心の中のもやもやは消えませんでした。

そして、夜も昼も眠れなくなりました。精神科はアパートのすぐ近くだったので、何とか受診しましたが、その診察も受診できなくなり、外に出るどころか何をするのも億劫になり、また部屋から出られなくなってしまいました。当然、レッスンもお休みしてしまいました。

アッコ先生が心配してわざわざアパートまでお見舞いにいらっしゃったのは、二週間後でした。すっかりやつれて体重はたぶん六キロくらいは痩せたでしょうか。そのときに、やっと事情をお話しました。

――綾乃、入門するときからこういうことは起こりえると覚悟していたわ。気にしないのが一番よ。タロウの言うとおりだと私も思う。この件に関しては、噂の域を出ないはずだし、たとえ事が公なってもその時にはその時よ。早く元気になってレッスンに来なさい――と仰って、わたしの手を強く握ってくださいました。

でも、その言葉を信じてレッスンを再開してまもなく、わたしの受け持ちのジュニアクラスの生徒の親御さんたちが、次々と子供たちを辞めさせて、他の舞踊団に移ってしまいました。きっと、インターネットの書き込みのせいだと思います。

わたしの生徒は半分以下に減ってしまい、舞台に出るのも怖くなり、体調不良を言い訳にして公演をキャンセルするようになりました。スペインの制作会社配給のフラメンコ映画に出演のオファーがありましたが、わたしはこれ以上はもう限界だと思い、断りました。

――こんな中傷に負けるのは馬鹿馬鹿しい――とアッコ先生やタロウは言っていました。

眠れない日が続いてしまい、だんだんと精神的な苦痛がつのり、とうとうわたしはアパートで処方された薬を四週間分、すべて一気に飲んでしましました。いわゆるオーバードーズです。

深い眠りの後に目覚めたら、病院のベッドでした。その脇には心配そうに見守るタロウとアッコ先生がいました。アッコ先生はわたしが起き上がるや否や、ぴしゃん、とわたしの頬を叩き、そのままわたしを抱きしめて泣き出しました。タロウは、「アッコ先生が叩かなかったら俺がやってたぞ」と言いました。わたしはとりあえず「もうしない」と嘘をついて、数日後には退院させてもらいました。

それからは、疲れると症状が悪化するので、自宅療養を主治医から命じられました。区の職員であるケースワーカーさんや保健師さんも主治医の先生も心配してくださっていたらしいですが、わたしはもう誰の声も耳に入らず、何か言われてもその場限りの言葉で対処して、ずっと周囲に嘘をつくようになりました。

毎日、ただ死ぬことだけを考えていました。インターネットなどでどうしたら楽に死ねるかを検索したりもしていました。リストカットもオーバードーズも決定力に欠けていましたので。

そんな毎日の中でのある日、「薬で死ねないならば、海に行って入水自殺をすればいい」と考えたわたしは東京から離れて、ふらりと電車に乗りました。それは松輪行きの赤い電車でした。

 

 

 七

 ――それ以上行くと目が届かない。

 後ろからそう声をかけられて、わたしはぎょっとしました。振り向くと背の高い男の人が一人、海浜公園のベンチに座って缶ビールを飲んでいました。

わたしが松輪の海岸に着いたのは夜中でした。駅を出て周辺地図を見ていると、背中越しに駅のシャッターが閉まる音がしました――そうです、あの赤い電車は最終電車だったのです。

スマートホンの地図アプリで検索してみると、海辺まで徒歩十分ほどでした。真っ黒なコールタールのような波が、ざぶんざぶんと音を立てていました。今日は満潮らしく、海浜公園の近くまで波が来ていました。対岸では星よりも明るい街の灯が輝いていました。何もかも、あらかじめ想定していた通りでした――彼が現れるまでは。

一見高校生くらいに見えましたが、後で聞くとその頃は大学を出て社会人二年目になったということでした。わたしの男性への警戒心がその時薄れていたのは、きっと彼が童顔で幼く見えたせいでしょう。

もうおわかりの方もいらっしゃると思います。そうです、この人こそが、後にわたしの恋人となる藤原透その人です。

透はわたしに手招きをすると、片手にビールをかざして「一緒に飲もう」と言って、わたしを誘いました。彼はその時コンビニの袋いっぱいのビールを持っていました。わたしは喉が渇いていたので、入水自殺のことはひとまず置いといて、彼に誘われるまま、一緒にベンチに座ってビールを飲むことにしました。東京からこの松輪の海岸まで、ずっと飲まず食わずだったので、ぬるいビールでも喉の渇きを癒すには充分でした。

――やってらんないよなあ。

 透は缶ビールのプルトップを開けると、海に向かって呟きました。

――何が? 

 わたしは、この幼げな酔っ払いの愚痴を聞いてやることにしました。ビールで酔っ払ってからの方が入水自殺するときに都合がいいだろうとも考えました。まずは彼がこの場を去るまでの暇つぶしに、話を聞いてやることにしました。

――今朝の新聞読んでないの? ネットとかテレビとかのニュースでもやってたでしょ。

わたしは正直に首を横に振りました。すると、透は鞄に差し込んでいた新聞を差し出し、一面のトップ記事を読めと言って、また次のビールに手を出しました。

――安楽死合法化が国会で可決? ああ、昔NHKか何かでそういう特番がやってたね。スイスだかオランダだかの話だったと思ったけど。そうか、日本もか。――わたしは呑気にそう言って、新聞をざっと読んで畳みました。

――ばっかやろう! 人間をなんだと思ってるんだ! 何が安楽死だ! くそっ! ――透はろれつの回らない口調で、そう海に向かって叫びました。新聞紙を彼に持たせていたら、きっと引きちぎっていたでしょう。

――ねえ、ちょっと寒くない? この新聞、ゴミにする前に毛布の代わりにしようよ。

 春とはいえ、まだまだ肌寒い時期だったので、そう提案しました。わたしは新聞紙の中側の家庭欄のところを透に渡しました。一面のトップ記事の載っている外側は裏返しにしてから、わたしが自分の身体に巻き付けました。それを見た彼は、憮然としながらも渋々と新聞紙を身体に巻き付け、ひとつため息をついて、こうわたしに問いかけました。

――安楽死が、二十世紀の終わりごろから、欧米各国で広まったのは知ってるよね? 

――よくは知らないけど。そういえば、外国ではそういうことをやってる国もあるとは聞いたことがある。

――ベルギーがまずかったんだよ、ベルギーが。精神疾患のある人にまでその対象にしちまったんだから。自殺の抑止力になるとか言って、結局は弱者切り捨てなんだよ。そこをみんなわかってない。なんで治る病気の人間まで切り捨てるような法案を通すんだよ! ちくしょう!

――精神病って、本当に治るの?

 わたしは自分がそれとは言わずに、彼に訊いてみました。

――治るさ。治ると信じなきゃ。諦めたら治るものも治らないだろ。

わたしは「諦めたくなる気持ちがわかるのか」とは言えずに、ただ黙ってビールを飲んでいました。

――ちくしょう、ちくしょう。絶対に認めないからな。――彼はそう呟きながら、次々とビールを空けました。わたしも付き合って、ビールをおかわりしました。

――あんたはどう思う? 安楽死。賛成? それとも反対?

透は目がうつろになり、だんだんとうとうととしだして、いまにも寝入ってしまいそうになりました。

――ねえ、そんなに飲んだら、あなたが死んじゃわない? ――と、わたしが言うや否や、透はすとんと意識を失ってしまいました。こちらに向かって倒れかかってきたので、わたしは彼の身体を受け止めました。

――ちょっと、こんなところで眠ったら、本当に死んじゃうってば!

わたしは散々彼を揺り起こして声を掛けましたが、彼は一向に目を覚ましませんでした。これはまずいと思い、スマートホンで一一九番通報をしました。救急車が来るまでの間、透をベンチに寝かせましたが嘔吐したので、わたしのスカートに吐しゃ物がかかってしまいました。このスカートはアッコ先生から、お若いころに着ていたものをお譲りいただいたものだったので、シミになってしまわないかと心配でした。でも、とにかく救急隊が到着するまでの間、彼を介抱をするのが先決でした。

救急隊員と一緒に救急車に乗り込み、近くの病院に搬送されるまでに、こんなにも時間がかかるものなのかと、わたしは驚きました。患者が担架で乗車してから最寄りの病院に電話して――それも一件や二件ではなく、受け入れてくれる病院が決まるまで、救急車が動かないなんて、この時初めて知りました。

 病院に着いて透を当直医と看護師に預けると、わたしはなぜかほっとしました。見ず知らずの人間だとはいえ、自殺行為ともいえる海岸での大量飲酒を見過ごしていた責任も感じていたので、彼の無事が確認できるまで見守ることにしました。

看護師さんが親切にも、汚れたスカートをコインランドリーで洗うようにと、病院のズボンを貸してくださいました。入院病棟のコインランドリーの洗濯乾燥機の中でくるくる回っているアッコ先生からいただいたスカートを見ながら、わたしは自分がオーバードーズした時のことを思い出しました。アッコ先生もタロウも、もしかしたらこんな風に自分を心配していたのかと、ふと思いました。でも、そう思っただけでわたしはもう自殺はしないとは思えませんでした。やるなら徹底しないとだめだと思ったのはこの時でした。

わたしは待っている間、スマートホンで安楽死の情報を検索しました。確かに彼が言った通りで、重度の難病だけでなく、認知症の人や精神疾患を持つ人も安楽死できる法案が通ったとありました。

 コインランドリーでスカートを洗い終わってトイレで着替えてから、再び透の眠る救急病棟に戻りました。喉が渇いたので、自販機でペットボトルのお茶を二本買いました。きっと、彼も喉が渇いているだろうと思ったので。

天使のような寝顔の酔っぱらいを見ながら、きっと目が覚めてもわたしの事など覚えていないだろうと思っていましたが、意外にも透はわたしを覚えていました。

――すみません、酔いつぶれて迷惑を――起き上がった彼は、二日酔いの頭痛でそのあとの言葉が出ない様子でした。

――ビールご馳走様。はい、お返し。――とわたしは言って、お茶を渡しました。

彼はばつが悪そうにうつむいていましたが、喉の渇きには勝てなかったのか、渡されたお茶をごくごくと飲みました。

 ただの酔っぱらいをいつまでも寝かせておくほど病院も親切ではなかったので、点滴が終わった後、早々に病院を後にしました。

 その病院は先ほど二人がいた海浜公園から、歩いて三十分くらいのところにあり、駅までは遠い場所にありました。なので、海浜公園の方角に二人で歩きました。道々、お互いに自己紹介をしました。この時やっと彼が成人していることを知ったのですが、まさか高校生だと思っていたとは言えず、一人で苦笑してしまいました。

対岸の街の灯は消えはじめ、朝日が赤々と海を照らしていました。この海を見て、わたしは蒲原の海を思い出しました。もう二度と戻ることのない――いいえ、戻れない故郷の海を。もっとも、もう戻りたいなんて思いませんが。

――そうとう安楽死法案がショックだったみたいだね。

わたしは透が、なぜあんなにも深酒をしていたのかが知りたくなりました。特に理由はありませんが、どうしてあんなにも、安楽死法案に反対するのかが、この時気になったのです。

――うちの婆さんが希望してて。あの法案が通ったら、真っ先に申し込むって言って聞かないから。

――大好きなんだね、お婆さんが。

――うん。言葉にしたことも思ったこともないけど、そうなんだ。

――羨ましいな。

――なんか訳あり? そもそもなんであんな時間に海にいたの?

――うん、まあね。もうどうでもいいの――そう、どうでもよくなっちゃった。

わたしはそう言って、大きくあくびをしました。久しぶりに自然な眠気が襲ってきました。

――助けてくれてありがとう、高崎さん。

――綾乃、でいいよ。

――綾乃さん?

――綾乃ってそのまま呼ばれる方が好き。

――そう。じゃあ、僕の事も透って呼んでね。

――うん。

――お礼に今度ご飯でも奢らせて下さい。

――うち、東京なんだけど――まあいいや、また近いうちに来るよ、海を見に。

二人が連絡先を交換したのは、ちょうど海浜公園に着いた頃でした。

 

  

わたしと透が親しくなるのに、そう時間はかかりませんでした。透はかなりの読書家で、わたしが古い本をデータ化する仕事をしていると知ると、羨ましがっていました。

――そうか、あの本を綾乃がデータ化したんだ。いいなあ。あの本、好きだったなあ。中学の時に図書館で読んだきりだけど、いまネットで買うと何万円もするからね。でも、紙の本が欲しいな。

その頃もスマートホンの無料通話アプリで二、三日に一度は話していたと思います。とにかく、毎日透からのチャットと電話が楽しみでした。

この頃はまだ、わたしは自分の素性は明かしませんでした。プロのバイラオーラだったことはもちろん、自分が人殺しだということも、一切言わずにいました。ただ、家族はもういないことと、自分の精神の病のことだけは話しました。透は不憫がっていましたが、わたしは無理してでも彼の前では明るく振舞いました。彼には、家族は火事で家が焼けてしまい、自分一人が助かったということにしています。さすがのわたしも、彼にすべてを打ち明けられないことは、本当に後ろめたくて、何度か彼との関係を断とうとしましたが、とうとう最後まで透から離れることは出来ませんでした。

透の実家は杉並の高級住宅街にありました。母方は高祖父の代から続く政治家の一族でした。そうです、お爺様は元総理大臣、お母様の弟の叔父様は、あの与党若手のホープの泉谷英多郎衆院議員です。現在お爺様は引退していますが、泉谷先生自身はまだ活躍されています。まだ独身で子供がいないので、甥の透には期待をかけていた様子です。

透は高校卒業後、東京の某有名大学に入学しましたが、周囲の反対を押し切って二年生の時に大学を中退しました。その後すぐに松輪市の奨学金の出る福祉施設に住み込みで働きながら、松輪市の福祉大学に編入学したという話です。わたしと知り合った時は、もう卒業して松輪市役所に勤めていました。なんでも、福祉課や児童相談所のケースワーカーになって、人の役に立ちたかったので、法学部から福祉学科に転入して、大学を卒業後に市役所に就職したそうです。

――なんで苦労して福祉大出たのに、戸籍係なんだよ。うちの叔父貴が手を回したんだよ、絶対に。うちの家の体裁もあるんだろうけど。戸籍係なんて、一昨年からAIがみんな事務処理をやってて、人間のやることなんてほとんどないのに。

――でも、わたしは機械のこと分からないから、受付に案内役の職員さんがいた方が助かるけどなあ。確かに暇そうな仕事に見えるけど、お年寄りとかは助かってるじゃない。それも人助けだとは思わないの?

わたしは透をなだめるつもりはなかったのですが、思わずそう言ってしまいました。

――それはそうだけど。でも、それじゃ何のために福祉の専門家になったのかわからないよ。要するに、窓際族とかいうやつさ。せっかく人助けができると思って就職したのに。一体何のために家まで出たのか――このままじゃ叔父貴に飼い殺しにされちまうよ。

――叔父さんたちは透が大事なんだよ。

――それはわかるけどでもさ。まあ、確かに綾乃の言う通りなんだけど。実は僕、今月で市役所を辞めることにしたんだ。隣の美咲市のホスピスで介護の仕事をしようと思ってる。学生の時に介護はやってたからね。このまま親たちのレールに乗せられてたまるかってんだ。

――せっかく市役所に就職できたのに? そのうち状況が変わってケースワーカーとかになれるかもしれないじゃない。

――安楽死法の話をしただろう? 緩和ケア専門のホスピスで働くよ。もしかしたらケースワーカーよりもやりがいがあるかもしれない。何よりも自分の手でひとりひとりを看取れるからね。

――透は、なんで他人を助けたいなんて考えるの?

――なぜって、なんで? 理由なんかないよ。困ってる人や苦しんでいる人がいたら、放っておけないだろう? 綾乃だって僕を助けたじゃないか。

わたしはその時、「あれは単なるなりゆきだった」とは言えず、思わず黙りこんでしまいました。

初めて会った時からなんとなく透に惹かれてはいましたが、彼のこういうところがいいと思う反面、たまにいらっとしていました。それは無条件に愛されて育った透への妬みからだったかもしれません。なぜこんなにも親たちに大切にされているのに逆らうのか、わたしにはまるで理解出来ませんでした。

また、透のそういった真っ直ぐな正義感は、決して表面的でも偽善的でもないので、余計にわたしの心は嫉妬と恋心がないまぜになり、透と自分を比べてしまい、透に愛されても素直に応えられませんでした。いつもどこかで透が別世界の人間のように思えて、なかなかわたしは自分の本心に従えませんでした。

――それよりも。いつご飯ご馳走してくれるの? ――わたしは意図的に話題を変えました。

――そうだね。今月いっぱいは仕事の引継ぎがあるけど、来月には退職するから。ホスピスの仕事が始まるまで少し暇ができるな。僕が東京に行こうか?

――ううん、わたしが行く。また、海が見たいし。来月ね、今度はゆっくりできるように朝いちで行こうかな。

――うん、天気が良かったら、海で砂遊びもできるしね。楽しみだなあ。そうだ、お寿司屋さんに連れてくよ。

――お寿司? 高いんじゃないの?

――千円のランチだけどね。安くてうまい店があるんだ。

――わたし、魚介類の味にはうるさいよ?

――大丈夫。松輪の寿司は東京には負けない。

わたしは「蒲原には勝てないでしょう」とは言えず、電話口で苦笑いを浮かべていました。

電話を切った後、わたしは区役所でもらった安楽死のパンフレットを手に取り、ぱらぱらと斜め読みしました。その時、偶然にも開けっ放しにてあった窓から桜の花びらが一枚、舞い込んできたのを覚えています。もう葉桜の頃ですから、今年も花見に行けなかったなと、その時思いました。

安楽死法の施行は二年後ですが、その時からコールセンターの電話はなかなか繋がらない状態でした。ニュースによると、抗議やいたずら目的の電話も多く、各自治体は対応にてんてこ舞いしているとのことでした。

新しくできた日本の安楽死法は透が言うように、確かに弱者切り捨てのシステムと言えるでしょう。でも、与党が三分の二以上の議席を持っていたから法案が通ったというよりも、世の中全体がお年寄りや病気の人の面倒をみる余裕がなくなってしまったせいだと思います。少子高齢化が進み、若く元気な働き手一人が、その何倍もの働けない人の分まで税金を払えるわけもないのですから。もちろん野党や有識者の反対の声も多くありましたし、市民団体によるデモ活動もありました。

でも、人々の本心は――もう足手まといの面倒はみれない。可哀想かもしれないが、実際問題切り捨てないとこの国は破滅する。自分も働けなくなったら潔く安楽死を――といったところではないでしょうか。わたし自身だって、税金で食べているのは申し訳ないと思いつつ、死ぬに死ねない状態だったのですから。もちろん生きることに疲れ果てたという個人的な問題もあります。透の言うように、もしかしたらこの病気も治るかもしれないし、もっと生きがいのある人生がこの先にあるかもしれないとも思いました。でも、わたしは元娼婦で犯罪者です。あの客とのおぞましい記憶は消えませんし、また、人を殺したあの生々しい感覚は、忘れようにも忘れられません。わたしの安楽死計画は、この時スタートしたのです。

 

透が批判していたベルギーの安楽死法の在り方について、わたしは調べていくうちに、なるほどと思うようになりました。

精神疾患による自殺の抑止力になるとの話でしたが、わたし自身、こうして安楽死という選択肢があると、不思議と自殺しようとは思わなくなりました。

透との出会いによって、わたしは再び生きる意欲を取り戻していきました。もっとも、自ら死を選ぶことが前提ではありますが。とにかくあと二年で――そう、安楽死の許可が出さえすれば、すぐにでも死ねるいうと、なんとなく心に余裕が生まれました。もちろんこれは誰にも内緒です。わたしはとりあえず乱れ切った生活を立て直すべく、主治医に相談して再び事業所へ通所するようにしました。実に数か月ぶりのことです。

また一方、フラメンコの方ですが、とうとう自分のジュニアクラスの生徒はみんな辞めてしまいました。

わたしはこれ以上アッコ先生にご迷惑はかけられないと思い、退団を申し入れましたが、先生は個人レッスンだけでも続けようと提案して下さいました。わたしはフラメンコ教師とプロのバイラオーラという肩書を捨て、ただのひとりの踊り手として、いちからスタートしました。本来ならフラメンコから身を引くべきだったのですが、アッコ先生はわたしの可能性を信じて下さっていました。なにより、アッコ先生の「夢」を最大限に具現出来るバイラオーラは、わたしだったのですから。

――いまは舞台には立てなくても、いつかきっと報われる時が来るはずよ。希望は捨てないで。――アッコ先生はそう励ましてくださいました。

毎週水曜日のタブラオ閉店後に、アッコ先生とタロウとわたしがお稽古場に居残ってレッスンをしました。レッスンの再開に先立って、アッコ先生はこうも仰っていました。

――本来ならジュニアクラスは、あなたに全部任せたかったのだけれども。ごめんなさい、あなたを守れなくて。これから暫くは三人でやっていきましょう。差しあたっては、綾乃。アレグリアスを極めましょうね。今のあなたには必要な学びだと思うの。生きる喜びをあなた自身が追及していくのよ。まずは感じる事、色んなことに対して感謝すること。そうすれば自ずと喜びが生まれてくるはずよ――と。

初めはこの状況下で感謝なんて、どうしたらできるのかと悩みました。アッコ先生がご自身の好意に感謝しろ、とは言っていないのはわかりましたので、何にどう感謝すればいいのかわからずにいました。

何か月もの間、ひたすらレッスンを繰り返して、アレグリアスの基本を最初から踊り直しました。初めて踊った時のことを何度も思い出そうとしましたが、頭では覚えていても、心がフラメンコを始めたときには戻れなくなっていました。踊ることそのものが苦痛になる時もありましたが、音楽が始まれば、振りやステップは条件反射的に身体が反応していました。しかし何度もアッコ先生とタロウに「違う、そうじゃない」と言われて、また最初のステップからやり直す、の繰り返しでした。

それと並行して、事業所で書籍のデータ入力の仕事をしていましたが、たまたま運よく宗教や哲学に関する本に触れる機会が出来ました。この仕事をしていなければ、本なんて一冊も読まないだろうわたしです。古典の名著には触れられなくても、それに関連する本に出合えたのは良い巡りあわせだったと思います。

それらによれば神を信じることだけでもいい効果があり、神に喜ばれる生き方を目指すことに人生の意義があるそうです。確かに大いなる何かは存在していることは、わたしも感じていました。そのことを透に話したら、

――神様がいると信じたほうが幸せだし、お得だから信じる――と言っていました。

彼のその言葉は、わたしの神への信仰のスタンスにぴったりだなと思います。様々な宗教がこの世の中にあり、どの宗教も自らの宗教が正しいと主張しているので、どの宗教にも懐疑的でありました。結局、どの宗教にも入信はしませんでしたし、その必要もありませんでした。

そんな中、ある日ふと思いました。アッコ先生やタロウや透に出会えたこと、こうしてフラメンコを踊れることにまず感謝しました。そうしていくうちに、段々とあらゆる物事に感謝出来るようになり、調子のよい時は、息が出来ることだけでもありがたいと思えるようになりました。正確な知識ではありませんが、神の存在を意識するだけで、世界は明るく輝くのだとこの時思いました。

そうして、やっと自分のアレグリアスの糸口がほんの少し掴めてきました。事実、アッコ先生やタロウの「違う」という指摘が少なくなりました。踊りとは不思議なものです。こんな風に人の生き方が反映してしまうのですから。

そんな中、透との電話でのやりとりは続きました。無料通話なので、何時間も話すだけでなく、なんとなくぼんやりと寛いでいるときも、電話は繋がったままにしていました。透といるとなぜか気持ちが安らぐのです。そう、まるで座り心地のいい椅子に座っているような気分になります。彼はいろんなアドバイスをくれるだけでなく、読書家でとても本に詳しいので、時々わたしのために、通販サイトで本を買って送ってくれました。

フラメンコのことはプロであること以外は、この時話しました。個人レッスンを趣味で続けているという話になっています。嘘をつくときは本当を混ぜ込むと気づかれにくいといいますが、本当にそうだと思います。ただし、相手が気づいていても何もできない場合に限りますが。

そんな日々の中で、透のいる松輪市の海には何回か行きました。例のお寿司も何回か食べました。確かに松輪のお寿司は、東京のお寿司よりは格段に上だったように思います。

この時はまだ、二人は親しい友人という関係でした。というのも、わたしが性的な関係を持つことに躊躇していたせいもあってか、透はそういった雰囲気になると話を逸らしていましたし、わたしもそういう話は避けていました。そんな微妙な関係がしばらく続きました。

お互いに好意を持っている事は歴然としていましたが――わたしは恋愛に発展することを恐れていました。彼がどう思っていたかはわかりませんが、少なくとも透自身はわたしの心の病のこともあり、慎重に対応してくれていました。それはわたしにとっては、とてもありがたいことでした。透がただ単に優しいとかだけでなく、福祉のスキルがあってのことだと思っています。こういう出会いは、本当に神さまの存在を信じたくなるものでした。

しかし、「神は試練を与えない」とする教えを素直に信じられるほどの幸運は、わたしには訪れませんでした。

 

 

松輪の海は温暖な気候とは裏腹に、いつも凍りそうに冷たい青色をしていました。浅瀬が少ないので海水浴には向いておらず、ただただそこに広がっているだけのものです。近くには漁港もありましたが、わたしと透がいつも散歩する海岸――件の海浜公園周辺には、あちこちに遊泳禁止の立て看板が錆びたまま立っていました。

松輪市の夏は東京よりも幾分涼しいので、身体にはいいと思います。というか、もはや東京は亜熱帯ではなく、熱帯地域と呼ばれて久しいほどに、年々気温が上昇しています。毎年最高気温が更新されるので、そのうち東京は人間が住めない街になるかもしれません。

北国育ちのわたしは、この東京の夏の殺人的な暑さに耐えきれなくて、夏場は睡眠薬や抗うつ剤を増やしてもらっていました。体力には自信があるわたしですが、暑いのだけはどうも苦手です。

そしてある日、アッコ先生やタロウに会いたいと言って、透がタブラオにやってきました。ちょうど週末で、歌手のホセや他のギタリストや打楽器奏者、そして先輩のバイラオーラ達も総出演の日でした。

 わたしはバックヤードで料理したり皿洗いをしていました。わたしがプロを引退した理由について、他の団員は生徒ほど関心がない様子でした。というか、例の話は根も葉もない噂だと、アッコ先生とタロウが言い張ったこともあります。日本語が不自由なスペイン人やそのハーフである団員は、ネットでの書き込みをあえて読んだりしなかったらしく、わたしに対して「綾乃は本当に人殺しなのか」なんて訊く人はいませんでした。こそこそと噂話をすることも、わたしが知っている限りありませんでした。――いいえ、シニアクラスやプロクラスの生徒の中には、そんな噂話をしている人もいたみたいですが、外国人である団員にまでその話をすることはありませんでした。

でも、ジュニアクラスの保護者たちは噂が気になるのか、アッコ先生よりもネットでの噂の方を信じたようです。最初はフラメンコ界の新星と呼ばれたわたしに習えるのを喜んでいた保護者たちは、いざネットでの誹謗中傷記事が出るや否や、手のひらを反すように――いいえ、わたしがもしも殺人の経験がない普通の母親だったら、やはり同じことをしていたかもしれないと思います。いくらスターでも人殺しです。自分の大事な子供を預けられるはずはないでしょう。

今夜もフラメンコショーのはじめはセビジャーナスです。セビジャーナスは初心者向けの曲種で、フラメンコの要素が幕の内弁当のように詰まった踊りです。この日の曲目は『エル・アディオス』でした。

透はこのお祭り的な演目がたいそう気に入ったみたいで、ショーの後、歌っていたホセに日本語の歌詞を質問していました。この曲はどういった内容なのかと。

――別れの歌だよ、透――ホセは歌詞の意味を説明しました。

 

    友達が行ってしまうとき、心の中で何かが死ぬよ

    友達が行ってしまうとき、残していくんだ

    決して消えない傷跡を

まだ行かないで、お願いだから行かないで

わたしのギターが泣いてしまうから

お前がさよならを言うその時に

 

陽気なメロディの中に、物悲しい意味が込められているのがお分かりでしょうか。

透は介護の仕事をしているので、この歌詞と自分が看取るお年寄りや病気の人への想いが不思議にリンクしていると言っていました。後でスマートホンで歌詞の全文を検索して、しみじみと何回も読み返していました。

――確かに残るんだよね、傷跡というか、その人が生きてたことを再認識するんだ。生きてる時よりも死んだ後の方がその人がいたって、実感するんだ。――店の後片付けを手伝いながら、透はそう言っていました。

 そんな透をアッコ先生は――可愛いし素直だし優しいし、いい彼氏ね――と仰っていました。まだ付き合っていないとは言うものの、お互いが惹かれあっていることは、どうやら当人同士だけでなく、周りにもわかりやすかったみたいでした。透の誠実さは、タロウも認めていました。タロウがわたしの時よりも早く、透を呼び捨てにするようになったことからもそれがわかりました。

 

 

 十一

その頃には、わたしは月に二回くらいは、松輪の海を見に行っていました。透が仕事で会えない日も、わたしは一人で町や海辺をぶらぶらとしていました。透が休みを取れる時には会えることもありました。とにかくわたしはこの松輪の、ゆっくりと時間が流れる感じが好きになりました。

透にそれを言ったら、「こっちに引っ越して来ないか? 」と言われました。わたしは東京には疲れたのもあり、思い切って松輪に引っ越すことをアッコ先生とタロウに相談しました。

――確かに、東京は騒がしいからな。でも、いいのか? フラメンコの方はどうするんだ? ――タロウは少し心配そうでした。

――週いちで上京する。ねえタロウ、アッコ先生? もうなんだか都会は性に合わない気がするの。――と、わたしは正直に言いました。

――そうねえ、透くんもいることだしね。綾乃、お願いだから海に飛び込んだりしないでね? ――アッコ先生は勘がいい方ですので、わたしが自殺したがっていることをまだ疑っていました。

――大丈夫ですよ。透もいるし。――わたしはまた嘘をつきました。

この時はアッコ先生もタロウも、わたしが透ともっと一緒に居たいから、松輪に住むことにしたんだと思い込んでいたようです。

本当は透と最期の時を過ごして、頃合いを見計らって安楽死をするつもりでした。透は社宅に住んでいたので、わたしと一緒に住むことはありませんでした。

後見人も主治医も割とすんなりと、わたしの引っ越しに賛成してくれましたので、ちょっと拍子抜けしました。後見人はともかく、主治医はわたしがいつ自殺するかを疑って、毎週二回の通院を課しましたし、薬もオーバードーズ出来ないようにと、一度に沢山は出してくれませんでしたが、引っ越しにはあっさりと許可を出しました。

わたしの引っ越しは着々と滞りなく行われました。一つ障害になったのは、松輪市は東京都よりもかなり予算が少ないので、生活保護の申請に時間がかかったくらいです。でも、東京のケースワーカーの努力でわたしは何とか松輪に住むことが出来ました。仕事は、前の事業所と同じデータ入力で、今度は在宅での出来高制の報酬という事になりました。毎回締め切りを気にしないといけないのですが、生活がかかってないので、案外楽に仕事が出来ました。

そしてこの頃、ちょうどわたしのアレグリアスが形になってきました。しかしそれは見せかけのアレグリアスであることには変わりはありませんでした。

アッコ先生は、完全なアレグリアスに拘っておられましたが、タロウが別の曲種からアプローチした方がいいと提案してくれました。たぶん、これ以上アレグリアスを踊り続けても苦しいだけだと、タロウは勘づいていたようです。アッコ先生も渋々とですが、アレグリアスからわたしが得意とするファルーカに曲種を変えてくれました。

ファルーカは勇壮で男性的な踊りで、スペイン北部のガリシア地方出身の女、という意味です。ちなみに男性ならファルーコです。二拍子の簡潔なメロディのわりに演歌のように叙情的です。バレエ音楽『三角帽子』中の一曲の『粉屋の踊り』が有名で、わたしもフラメンコを始める前にファルーカという名前は知っていました。

アッコ先生もタロウも、わたしに嘘の踊りをさせるのに疲れたのでしょう。本当に二人は優しい人たちです。わたしが嘘を強引に通さないと居られない気持ちを察してのことだと思います。でも、この時もわたしは二人を裏切る算段をしていました。

その裏切り行為には協力者が必要でした。その協力者は意外にも透と縁の深い人物でした。幸か不幸か、わたしはこの二人の協力者と出会い、完全に引き返すことが出来なくなるのです。

 

十二

 わたしはいま、ヘッドホンで好きな音楽を聴きながら、ベッドに横たわっています。それを見ている担当医師は、穏やかに私に声をかけました。

――高崎さん、何を聞いているんですか? 

――パコ・デ・ルシアです。フラメンコギターで有名な。

――そうですか。確かフラメンコをやっていたと聞きましたが。死んでしまったらもう二度と踊れないんですよ。いいんですか?

――ええ、いいんです。先生、まだペンタトールのスイッチを入れてはダメなんですか?

――まだ点滴が充分でないですからね。もう少し待ってください。高崎さん、いまならまだ引き返せますよ。時間はまだあるんだから――自販機のですけど、お茶でも飲みながらゆっくり、もう一度考えてみませんか?

夏とは言え、今日は幾分涼しい風が窓から入ってきて、あの青いカーテンを揺らしています。まるで波のように――わたしは頂いたペットボトルのお茶を手にして、ある事を思い出しました。このお茶は透と初めて会った時に、わたしが二人分買ったものと同じものでした。カーテンの隙間から見える空は曇って、いまにも雨が降り出しそうです。

わたしの遺品はすべて、フラメンコシューズから何から何まで、業者に処分をお願いしていると前にお話ししましたが、それらのものはまだ市が借りている倉庫に保管されています。わたしが絶命したらすぐに処分される手はずになっています。

いまここに持ってきているのは、宿泊時に使うような洗面道具や着替えぐらいです。そのほかにあるものと言ったら、この胸元にあるネックレスだけです。これがわたしの唯一の遺品となるでしょう。でも、これが透の手に渡ることはまずないと思います。わたしは遺書にこのネックレスだけは遺灰と一緒に散骨してほしいと書いておきましたから。

このネックレスは緑色のガラスの粒に、シルバーのチェーンがつけてあるだけのものです。このネックレスについて、少しお話しさせて下さい。

これはとても珍しいもので、まず普通の店には置いていないし、ネットショップでも見かけたことはありません。恐らくこれと全く同じものはこの世にはないでしょう。とにかくとても貴重なネックレスです。

あれは、透と出会ってから一年が過ぎて、松輪市のアパートを一緒に探していた時でした。そうです、永沢町のアパートが気に入ったので、その日に手付金を払ってから昼ご飯を海岸で食べた日のことです。永沢町のアパートからは海岸までは歩いて五分ほどでした。そこから件の海浜公園まで二人でゆっくりと浜辺を散歩していたのです。時折「なにかきれいな貝殻はないかな」と探したり、打ち上げられた昆布やわかめやくらげやなんかの匂いを嗅いでは「海だね」とか「臭いね」とか言い合っていた時でした。

――ねえ、綾乃。これ、何かな?

透はしゃがんで貝殻探しをしている最中に、そうわたしに声をかけました。手には小指の先ほどの小さな石のようなものがありました。

――ああ、それはガラスだよ。波で削られてすりガラス状になったやつ。多分コーラの瓶のかけらだよ。昔、家族と海に行ったときに拾ったことがあるよ。珍しいね、いまどき。瓶のコーラなんて昭和の話だし。――わたしはそれを手に取り、太陽に透かして見てから、透の手のひらに返しました。

透は、それを大事そうにハンカチで包んでから、リュックサックのポケットに仕舞いました。

 わたしはあの蒲原の海を思い出しました。冷たく、いまにも凍りそうな青い水色は、この松輪の海に似ています。気候は全く違うのになぜか似ているのです。子供の頃――あれは小学生になったばかりの頃、まだうんと小さかった弟と母との三人で、蒲原の海辺に散歩をした時のことです。その時に、わたしも似たようなものを見つけて、これは何かと母に訊いたことがありました。あの時拾ったガラスはもうどこかへ無くしてしまいました。この日透が拾うまで、その失くしたガラスの存在は忘れていました。

 ――どこで聞いたの? その話? 

透は、まるでわたしがこのガラスの正体を知っていることが、とても珍しいとばかりに訊いてきました。わたしはただ、「お母さんに聞いた」とだけ言いました。それ以上のことは言いませんでした。――いいえ、言えなかったと言った方が正しいでしょう。透は知り合った時から家族のことをあまり詮索してきませんでした。わたしの過去を知っているわけでもないのに、不思議とわたしが話したくないのを察してか、透はこちらから言ったこと以外には質問してきませんでした。

後日、十月のわたしの誕生日に、透はその時に拾ったガラスをネックレスにして、わたしにプレゼントしてくれました。きっとあの時のわたしが、亡くした家族の事を懐かしんでいたように見えたのでしょう。実際、そうなのかもしれません。子供時代のわたしは、外から見たらさぞかし不幸に見えたでしょう。でも、過去のすべてが不幸だったわけではありません。小さな幸せの思い出の一つに、あの蒲原の海があるのです。

海を見ていると、不思議な気持ちになります。忘れたいほどの辛い過去と、忘れたくないほどの優しい過去――それらは混じり合っても決して中和することなく、わたしの心になかにあることを思い出させてくれるのです。海が好きだから海洋散骨を希望したというよりも、海に対する思い入れがあるからこそのことでした。好き嫌いどうこうというよりも、自分の行く先はそこだという確信があったからこそ、そうしたのです。

いま、ヘッドホンから流れているのは一番好きだった『ラ・バローサ・アレグリアス』です。そうです、アッコ先生とタロウの前で初めて踊った「喜び」を今まさに聴いています。最愛の透との思い出を懐かしみながら。

 

 

十三

 本来ならば松輪市庁舎は、平成のうちに建て替えるはずだったと聞いています。令和になってもう十年くらい経つのに、昭和の時代に建てられた古めかしいコンクリートビルはそのままです。なんでも建て替える予算がないので、かわりに内装だけを今年新しくしたという事です。

表玄関の回転扉を抜けると、すぐに受付嬢のかわりに数台のAIの機械が設置してあって、来訪者に話しかけて用件を訊いてきます。

――こんにちは、松輪市役所です、ご用件を受け賜りますので、案内に従ってタッチパネルを操作してください――と。

ひと昔前のAIと違って、声には少しも機械じみたところがないのがかえって不気味さを醸し出しています。ずっと前に東京で見たAIの案内ロボットみたいに、アナウンサーや声優的でもない、まるで本当の、ただの市役所職員のようなその声色は、まるで人間がそこにいるみたいなのです。とにかく、市役所に行くたびにあの受付のAIにはどきっとさせられます。

 タッチパネルで「終活サポート部、初めて」と選択すると、いきなり住んでいる町名を訊かれましたので、「永沢町」と選択しました。すると機械から一枚の紙片が出てきて、それには「六階生活福祉部終活サポート課尊厳葬係、担当東野」と印字されていました。要はそれを持って六階の担当部署まで自分で行けという意味です。

 一階のエレベーターホールの向こう側には戸籍係がありますが、そこにはキャッシュディスペンサーみたいな機械が数台設置されていて、みんなマイナンバーカードを片手に列を作って並んでいました。わたしはマイナンバーカードがあるならそれ一枚で全部なんとかならないのかと思いつつ、チン! というエレベーターの到着音に反応して、すぐにエレベーターに乗り込みました。

 透はこの三月いっぱいで市役所を辞めたので、ここにはいません。ですから、彼には終活サポート課に行ったことは知られないでしょう。もしも市役所を辞めずに、あのまま戸籍係で案内役をやっていたとしても、六階には同じ部署の生活保護課があるので、仮に鉢合わせしたとしても、まず疑われないだろうと思います。なにせ、終活サポート課は生活福祉部の生活保護課と同じフロアにあるのですから。それに終活サポート課は安楽死の為に出来た部署でなく、そもそもは生前の意思を残しておくためのものだったと聞いています。つまり、身寄りのない人が死後、どうやって葬儀や埋葬をして欲しいかなどを届け出ておくための部署でした。

 透に言うには――生活保護係のとなりに尊厳葬係があるなんて、まる「で生活保護を受けてる人から先に安楽死をどうぞ」って言ってるみたいで気分が悪いよ。――と言っていました。

もともと終活サポート課は生活福祉事務所の一部だったので、自然な流れだとは思うのですが、やはりそういう意見も、安楽死反対派からよく聞かれます。

わたしは自分自身が、本来ならば生きていてはいけない身だと思うので、こうした差別的なシステムには、いちいち反対しません。

確かに、透のようにみんなから祝福され、愛されて生きてきた人にとっては、命はそれだけでと尊いもので、そんな差別はあってはならないものなのでしょう。

もっとも、SNSなどでは「生活保護者からまず安楽死を」という過激な意見も少なからずあります。リアルではそんなことをいう人は見たことはないのですが、匿名性が高い媒体ではそういった意見は多くあります。一部の著名人でさえ、そんな発言をするのですから、それに同調する意見も当然あります。わたしが殺人犯でなかったら、透のように反抗したり、あるいは抗議活動に参加していたかもしれません。

 その年の六月から申し込みが開始された終活サポート尊厳葬事業は、生前の意思――リビングウィルだけなら受付はウェブや郵送によるものでも可能ですが、安楽死――いいえ、ここでは尊厳死というそうですが――の受付は地域担当者との面談が必要になります。わたしはかかりつけ医の診断書を持って、相談窓口に向かいました。

六階のエレベーターホールから見て一番左側の奥が終活サポート課尊厳葬係でした。窓口で一番近くにいる人に声を掛けたら、そのすぐ後ろに、件の担当者の東野さんがいました。見たところ、二十代後半くらいの男性でした。すぐに面談用の応接セットのあるスペースに通されました。

――永沢町の方ですね? お名前とご住所と電話番号と生年月日をこの用紙に書いてください。マイナンバーカードと診断書はお持ちですか?――と、言われるままにわたしは用紙に必要事項を書き、マイナンバーカードと診断書の入った封筒を鞄から出しました。

 東野さんは、世間で言われている「死神職員」というイメージとはかけ離れていて、穏やかににこやかに私に接してくださいました。しかし、わたしの持ってきた診断書の封を切って、中身を見た瞬間、あ、と声を漏らしました。わたしは何か書類に不備があったのかと思い、心配しましたが――そうです、精神科に限らず、診断書というものは患者に中身を見れないように封印をされているのですが――いいえ、ただ単に、内容が勝手に加筆訂正されないようにだと思いますが――とにかく何かに驚いたように、東野さんは思わず声を漏らしたのです。

――高崎さんて、もしかして、藤原透くんのその――彼女さんですよね? すみません、プライベートな事で失礼ですが。私は藤原とは大学の同期で市役所の入所も一緒だったんです。あなたの話、藤原からよく聞かされてて――そうか、東京から永沢町に引っ越してきたって言ってたな。いやあ、本当に奇遇です――いやいや、どうしてあなたが尊厳死なんかを希望するんですか? 藤原はこのこと知ってるんですか?

 東野さんはそれまでとは打って変わって、市役所の職員としてではなく、透の友人としてわたしと接するようになりました。先ほどの無表情に近い微笑みは消え、人間らしい話し方になりました。わたしは「しまった」と思いつつ、ひとつ咳ばらいをしてこう言いました。

――東野さん、この事はくれぐれも透には内密にお願いします。透のお友達なら、この事を透が知ったらどうなるかわかりますよね? 個人情報は守ってくださいね。――と、少しきつい口調で。

――いや、でも。なんで藤原がいるのに。ヤツ、人生初の恋人が出来たって喜んでるのに。一体どうやって実行するんですか? 家だって、ヤツの住んでる寮からそんなに遠くないし。ばれますよ、確実に。

 わたしは引っ越し先を透の寮からわざと同じ町内にしないで、一つ駅を挟んだ永沢町を選びました。でも、うっかりしていました。隣の市とはいえ、しょっちゅう家に遊びに来る透がいて、どうやって荷物の片付けなどをするのか。少なくともこの段階のままでいけば、透にばれてしまう危険性があることに気づかなかったのですから。

 わたしはこの時、やっと自分の計画にほころびがある事に気づきました。けれども、この失敗はすぐにこの東野さんのある行動で、見事に挽回出来たのです。そうです、東野さんの意図とは関係のない形でです。

 

 

十四

透の新しい職場は慢性的な人手不足で、休みなどは殆どありませんでした。前は市役所勤めだったので、週末はちゃんと休めましたが、介護の仕事はシフト制です。わたしのアパートにはだいたい週二日くらいは来るのですが、夜勤明けの朝だったり、日勤明けの夕方だったり、また、夕勤明けの夜だったりしました。まだ若いので疲れた顔は見せませんでしたが、いつもうとうとしていました。疲れているというよりも、まるで赤ん坊が遊びすぎたり、ミルクを飲んで眠くなったみたいな眠り方でした。

安楽死の申し込みをして半月ごろの六月の終わり頃のことです。うちに昼間遊びに来てそのまま夜勤に行った彼を見送ってすぐに、思いもよらない来客があったのです。

透が出掛けた後、すぐに二人分の夕飯の片づけをしていたのですが。その最中に、ドアチャイムが鳴りました。わたしはすぐにはドアを開けずに、のぞき窓から来訪者を確認しました。小さなレンズ越しに、スーツをきっちりと着込んだ東野さんと若い女性が見えたので、何か安楽死の手続きについての用事があるのかなと思い、ドアを開けました。市役所の窓口は五時までですが、安楽死のケースワーカーは、窓口を閉めた後も毎日残業しているとは話に聞いていたので、そう驚きはしませんでした。でも、少し変だなという何かは感じました。

――夜分にすみません。高崎さん、こちらの方は泉谷英多郎先生の秘書の柿本まゆりさんです。

東野さんは神妙な面持ちでそう言って、彼女を紹介しました。

わたしは最初、何が起こっているのかが分からずにきょとんとしていましたが、柿本さんという女性のわたしを見る目で、「ああ、そうか」と思いました。わたしは礼儀正しく挨拶をしました。

――松輪セントラルホテルに、いま、泉谷先生がいらっしゃっているのですが。よろしければご同行願えますか? ――柿本さんはそう言いました。

わたしは「断ったらどうするのか」とか「急に来訪してきて何を言っているのか」とかは考えずに、彼らについていくことにしました。ロケーションが一流ホテルということで、いま着ているジャージ姿では行けないなと思い、一張羅のスーツに着替えました。靴やバッグ、化粧などで三十分くらい待たせてしまいましたが、それでよかったと思います。

永沢町のアパートから、松輪市の中心街にある松輪セントラルホテルまでは、車で二十分くらいか、それよりも早く着くくらいの距離です。高級車らしい黒い車に乗り込み、三人で終始ほぼ無言でホテルに向かいました。というか、わたしが何も訊かず、また言わずにいたせいでしょう。妙な緊張感が車の空気を覆っていました。この二人が、わたしを尊重してくれているというよりも、そんな話をするシチュエーションでないことを物語っていました。

一流ホテルに案内されたわたしは、やはり正装してきてよかったと思いました。いつものジーンズとTシャツというラフな格好で行っていたなら、常識を疑われていたでしょう。いまで行ったことのないような豪華なホテルの最上階の部屋は、応接間と寝室との二部屋あって、わたしは応接間に案内されました。

そこで、わたしは泉谷先生――透の叔父にあたる方と初めてお会いしました。泉谷先生はテレビで見るよりも、ずっと若々しくて爽やかな感じの方でした。育ちの良さが全身から溢れていて、そういうところが透と似ているなと思いました。「政界のプリンス」として名高い先生は、わたしが来ると、すぐさま座っていたソファから立ち上がり、挨拶をしてくださいました。

――藤原透の叔父の泉谷英多郎と申します。高崎さん、今回は急な呼び出しにも関わらず、わざわざいらして下さり、ありがとうございます。

――高崎綾乃です。初めまして。――わたしは何も余計なことは言わずに、挨拶だけしました。

泉谷先生が二人だけで話をしたいと仰ったので、東野さんも柿本さんも部屋から出ました。

――雨が降ってきたようですね。松輪はいいところです。何しろ魚介類がおいしいですし、空気もきれいだ。コーヒーでもいかがですか。――泉谷先生はそう言ってコーヒーを二杯、フロントに電話して頼みました。

――透とは近いうちに別れることになりますから、ご安心ください。わたしの身分も過去も、もうご存じですよね? 東野さんがいらしたっていうことは、わたしがもうすぐ安楽死をすることもおわかりですよね? いますぐ別れろと仰るなら――わたしは沈黙に我慢できずに、矢継早にまくし立てましたが、すぐに言葉につまりました。

――高崎さん、落ち着いてください。私はまだ何も言っていませんよ。透と別れろだなんて、そんなことは言えません。確かに、失礼ながら、あなたのことは調べさせていただきました。その件については、どうかご無礼をお許しください――泉谷先生はそう言って、優し気にわたしに語りかけました。

――確かにあなたには前科がある。でも、あなたはむしろ被害者です。だから、これからも透とは仲良くしてやって欲しいんです。なにも、死ななくてもいいじゃないですか。どうして安楽死を? ――泉谷先生は悲しそうな目をして、わたしに問いただしました。

この意外な展開にわたしは戸惑いました。泉谷先生が何を仰っているのか、まるでわかりませんでした。話の内容が全く呑み込めなかったのです。

――どういうことですか? わたしのような犯罪者が透とどう釣り合うと言うんですか?

――先ほども申し上げましたよね、あなたは「被害者」なんです。――一瞬、育ちのいい好青年から、有能な政治家の目をして、泉谷先生は仰いました。

わたしは、ようやく状況が呑み込めました。つまり、こういうことです。透が出世することに、わたしの身分も過去も問題にはならない。寧ろ、ことが公になった場合、国民から同情の声が上がるだろう、との話です。もちろん、こちらからはあえて公表しないし、マスコミやネットユーザーが騒いだら騒いだで、そういう女を選んだ透には「不幸な生い立ちの女を自ら選んだ」という美談になるという計算のようです。

――泉谷先生、わたしは――わたしは忘れたいんです。すべてを。そしてこの世のすべてからも忘れられたいんです。だから安楽死を申し込んだんです。もう生きていく力もわかないし、この先の人生が例え明るいものでも、生きていたくないんです。

――高崎さん、あなたはまだ若いし――と泉谷先生は仰いましたが、口ごもりました。

――柿本さんがいるじゃないですか。あの方は、透の婚約者か何かでしょう? 透には柿本さんのようなしっかりした女性がお似合いかと。

――あなたは勘のいい方ですね。お見それしました。そうです、柿本は家が決めた透の婚約者です。でも、当の透は家を出て行ってしまった。彼女を幼馴染み以上には見れないと言いましてね。

――わたしにどうしろと仰るんですか?

――高崎さん、東京の藤原の家にいらしてください。透の婚約者として、私たちはあなたを歓迎します。

わたしはこの無謀な提案をする泉谷先生という方が、どういう方かが全く理解できませんでした。

 

 

十五

 その後、わたしが泉谷先生と連絡を取り合うようになってから、一か月くらい過ぎた頃だったでしょうか。――そうです。梅雨入り頃に初めてお会いして、それからひと月というと梅雨明け間近のころということになりますね。

泉谷先生は、わたしの過去のことは透自身にはもちろん、その両親にも東野さんや柿本さんにも、誰にも言わないでおくと仰いました。わたしはいっそ知られた方がよかったのではないかと思いましたが、泉谷先生は自分から言う必要はないと仰っていました。

泉谷先生からは「この先ひどい書き込みがあっても、高崎綾乃は件の殺人事件とは無関係で、たまたま出身地と名前が同じだったということにしておくように」と言われていました。本当にそれでいいのかと散々迷いましたが、とうとう誰にも何も言えませんでした。

泉谷先生は透をアメリカの大学院に進学させるために、わたしに協力して欲しいと仰いました。もしも安楽死を止める場合も、透と一緒にアメリカで暮らしたらいいとまで仰って下さいました。

とにかく、わたしはアメリカ留学には賛成なので、わたしが背中を押せば透は本来のレールに戻れるのではとも思い、協力することにしました。

そんなある日のことです。水曜日木曜日と連休が取れた透は、わたしが踊っているところが見たいと言い出しました。

――前から綾乃が踊ってるところ、見たかったんだけどさ。まさかプロだったとはね。スペイン映画の話とかすごい。なんで教えてくれなかったんだよ。ネットで動画配信したりすれば収入になるだろうに。やらないなんて、もったいないな。久々に恵比寿のお店に行くよ。綾乃、本当にもうショーには出ないの?

透はなんの疑いもせず、泉谷先生からの情報だけを信じたようです。

――もう、歳も歳だしね。趣味の方が気楽でいいんだ。だから引退したの。

その日もわたしはショーには出なかったので、透はお店が終わった後のレッスンを見学しました。アッコ先生は久しぶりに透を見て、「ちょっと痩せたんじゃないか」と仰っていました。でも透は、やりがいのある仕事で満足していると話していました。

ちょうどファルーカが完成しつつあったので、アレグリアスとファルーカ、それからアッコ先生と組んでセビジャーナスを踊りました。

透は前に来た時に聴いた、セビジャーナスの『エル・アディオス』という曲が気に入っていたので、スペイン語の原曲で丸々覚えていました。なので、四人でスペイン語でその歌を歌って踊りました。

――フラメンコって、空手みたいなのもあるんだね。あのファルーカってやつ、カッコいいな。綾乃はもっと女らしい踊りをするんじゃないかって想像してたけど。ジーンズでフラメンコを踊るって、なんかいい。もっと綾乃の踊るところ、見ていたいよ。

わたしは、透にセビジャーナスを教えてみました。最初の十二拍子――六かける二カウントの繰り返しのステップだけでしたが、透は楽しそうに踊りました。時々ラジオ体操などの癖で、六カウントが八カウントになってしまったりしていましたが、最初にしては上手い方でした。

レッスンの後は、四人でサングリアを飲んで楽しい時間を過ごし、始発電車を待ちました。その日も海岸で朝日を見ようという話になりました。日の出には間に合いませんでしたが、朝焼けの赤い海が昼の青い海に変わるさまを見ることは出来ました。

その日の朝食は、コンビニで買ったおにぎりと野菜ジュースでした。二人で海岸を歩きながら食べました。トンビにおにぎりを盗られないように注意しながらの朝食ですので、ちょっと怖かったです。

――海ってなんで青いんだろうな。

食べ終わった頃に透は、ふとそう言いました。

――いつだったかな――そうだ、小学校に上がったばっかりの夏休みに、家族で海水浴に行ってさ。その時、あんまり海の水が青くてきれいだったから、水槽に入れて部屋に飾ろうとして持って帰ったんだよ。灰色のバケツに入れてね。で、帰ってきて水槽に入れたら、ちっとも青くないただの水だったんだ。海ってなんで青いか、綾乃は知ってるかい?

――ううん、知らない。考えたこともないな。

――僕も知らないんだ。なんでだろうな。

――ググれば? 

わたしがそう言うと、透は首を振ってため息をついてこう言いました。

――ここの海なら青いかな?

――バケツ、買いに行く?

――いや、いいよ。なんとなく、知らないままでいたい。いつまでも、なんでかなって思っているのがいいんだ。

わたしはその話をしたときに、土産物屋で見かけた青い水と砂と貝殻の入ったガラスの置物でもプレゼントしようかなと思い、後日買いに行きましたが、とうとう透には渡せないままでした。

そんな幼少期の思い出話をした後に、透は砂浜の上でふと足を止めました。そしてじっとこちらを見つめてこう言いました。

――綾乃は、たとえどんな悪いヤツになっても、僕を信じてくれるかい?

わたしはいつになく真剣なまなざしをした透に、少し驚きました。思わず目をそらそうとしましたが、心がきゅっと痛くなるのをこらえて、透を真っ直ぐに見つめ返しました。

――透は悪い人になんかならないよ。なったとしても、わたしには透は透で、気持ちは変わらないよ。別れても離れ離れになっても、わたしは透を忘れない。

――叔父貴がさ、綾乃を杉並の実家に連れてこいって言うんだよ。綾乃のことは火事で家族がいないとか、本物のダンサーだったことも、あいつプロに頼んで調べたっていうんだ。失礼にも程があるよ。ごめんな、綾乃。

――叔父様の立場なら、仕方ないでしょ。わたしが叔父様だったら、そうしてるよ。

――付き合ってる人がいるなら、ちゃんとしろってさ。もうそろそろ将来のことを考えろって言うんだ。自分の方こそどうなんだよって感じ。まあ、泉谷のばーちゃんがくたばんないと、叔父貴は結婚無理だろうからね。あのひとマザコンだし。まあ、とにかく、その。綾乃、僕はどうすればいい? 

――どうもこうも、透の思うようにしたらいいじゃない。

――叔父貴が綾乃を紹介しろってことは、どういうことかわかるかい? つまり、その。結婚を前提で交際ってことになるし。僕も今の仕事辞めてアメリカの大学院に進学しないといけないってことになっちゃって。国会議員は無理でも、地方の議員とか弁護士とかを目指すことになっちゃうんだけど。で、叔父貴はアメリカに綾乃を連れて、大学院に留学しろって言うんだよ。

透は照れながらも状況を説明してくれました。

――透、いやならいやで、ちゃんと叔父様やご両親にそう言えばいいじゃない。でもね、わたしは透はいち介護人にしておくのはもったいないと思ってる。だって、透は人助けがしたいんでしょう? ならば、介護人にはできないこと、つまり、政治家や弁護士とかの偉い人になって世の中を変える方が、いまの何倍もの数の人を救えるじゃない。わたしなら、目的のためなら手段は選ばないけどな。

――狐と狸の化かしあい、他人の腹の探り合いをしろってのかよ。

――そういうことをみんな悪く捉えることはないよ。必要に応じて、そういうこともあるかもだけど、結局は偉い人の力は必要なんだし。透、もっと大人になった方がいいよ。

――大人、か。綾乃はいいの? そんな僕で? 

――透が良かれと思ってすることには応援する。わたしだって、透のためになら手段は選ばないよ。

――綾乃って、意外と合理主義なんだね。

――かもね。叔父様がわたしみたいな障碍者でもいいって仰るなら、わたしもきちんとするよ。勉強だって、頑張るよ。

――手を繋いでもいい?

透は遠慮気味にそう言いました。わたしが黙ってそれに応じると、水平線の方を向いて言いました。

――正直、一人じゃ怖いんだ。留学はともかくとして、その先の行方が。他人よりも有利な条件が揃い過ぎているからね。

透の手は少し汗ばんでいましたが、しっかりとわたしの手を包み込む温かさを感じられました。

わたしはこの時、初めて好きな人に触れることが出来たこともあり、涙が滲んできました。自分がやっと異性を受け入られるようになったと思った瞬間でした。

透に触れられたらあの悍しい「客」との行為を思い出してしまうのではないかと思っていましたが、不思議と思い出さず、ただただ嬉しかったのです。そんなわたしの心の動きを知らない透は、俯いているわたしの顔を覗き込みました。

――完璧な人なんていないよ。大丈夫だよ、透なら。先のことは分からないんだし、いま考えてもしょうがないでしょ。

わたしは、恥ずかしくなって、思わず話を戻しました。

――ひとりで立ち向かうのが怖いんだ。情けないだろう?

――透はひとりじゃないよ。ご両親も叔父様もいるし。それに、わたしだっているじゃない。

わたしは嘘をつきました。これは彼に対しての一番の裏切り行為ともいえることだと自分で気づき、はっとして、思わず繋いだ手を振りほどいて逃げてしまいそうになりました。でも、ぐっとそれをこらえて彼の手を強く握り返しました。

――一緒にいてくれる? 綾乃、これから先もずっと一緒に。

わたしは言葉を詰まらせたものの、かろうじて頷きました。この時からわたしの数々の嘘は、胸の中になにか石でも詰まらせたみたいに、ずっしりと重さを増していったのです。

 

 

十六

こうして病院のベッドで横になって、うとうととしながら点滴が進むのを見ていると、あれが本当のことだったかを忘れてしまいそうです。――いいえ、いま、あれが現実だったのを思い出したのです。そうです、あれは確かに現実でした。あの悪夢を見たのは、確かに現実だったのです。

夢の中で、柿本さんが透と手を繋いで仲良さそうに歩いていました。なぜか蒲原の海辺で。

わたしはなにか喚いていましたが、自分がなにを言っていたかはわかりませんでしたが、とにかく、そんな二人を見て悲しくて仕方なかったのです。

ふいに、死んだ母と弟が出てきました。母はこう言いました。

――綾乃、殺してしまいなさい、あの二人を。そのバットで。

気が付くとわたしは、あの時のバットを持っていました。そうです、あの血まみれになった弟のバットです。

弟はひたすら「あばずれ、あばずれ」と笑い転げていました。その声がとても煩くて耐えられませんでした。

――お前は私たちを殺したじゃないか。なぜ殺さない?

母の目からは血の涙が流れていました。その涙は涙というよりも、血そのもののようでした。

怖くて身体は動かなかったのですが、バットを母から手渡された瞬間、身体が軽くなりました。そして自分の意志とは関係なく、わたしは透と柿本さんを殴りました。ドン、ドン、という確かな手ごたえがわたしの手に響きました。

透は血まみれになりながら、こう言いました。

――ほら、やっぱり君は人殺しだ。――そう言って、透はにやりと笑いました。

それが透の形をした他のものであると気づき、わたしは懸命にバットで殴って、息の根を止めました。

何回殴ったかなんて覚えていませんが、相当な回数、バットを振った感じがします。気が付くと、また母が、今度はまだ殴っていないにも関わらず、全身血まみれになって高らかに笑いました。

――綾乃、お前はこの先こうしてずっと人を殺し続けるんだ。一生、殺し続ける。

弟はずっと「あばずれ、あばずれ」と笑っていました。遠くには何人かの「客」がこちらを見ていました。

――消えて! もうわたしを忘れて!

わたしはそう叫びながら目を覚ましました。

あれが夢だったことに気づいたのは、しばらく後でした。いつもの自分のアパートの天井や家具を見て、ようやく現実に戻ったのを知っても、涙が止まりませんでした。その日は幸いにも透はいませんでした。仰向けのまま涙を流しっぱなしにしていたので、耳に涙が入ってしまいました。こんな風に泣くときは、いつもプールに入ったことを思い出します。

わたしは自分が死ななければならない人間だと、改めて実感しました。生きていれば、きっとわたしはまた人を殺すでしょう。そんな人間が生きていていいわけがありません。あの夢を正夢にしないために、わたしは何が何でも死ななければならないのです。

 

そんな悪夢を見た次の週に、杉並にある透の実家に行きました。東京から車で迎えが来るとの話だったので、てっきり柿本さんが来るのだと思っていましたが、来たのは藤原家の運転手さんでした。柿本さんにはなるべくなら会わない方がいいと思っていたので、わたしはほっとしました。

何も知らない透は、久しぶりに会う運転手さんから、家族の近況をいろいろと聞いていました。なんでも、運動嫌いなお母様は最近になってようやくテニスを始めたとか、お父様が専務になったとか。ペットの犬が子供を産んだとか、隣の家が引っ越したから土地ごと買い取るとか。どれもこれもみんな、わたしにとっては別世界の話でした。

運転手さんは吉田さんという方で、透が幼稚園のときからの付き合いだったという話でした。道々、小さい頃の透の話をいろいろと聞かせてくださいました。

なんでも、透は昔から正義感が強く、道理が通らないなら相手が上級生だろうが複数だろうが、構わずに向かっていくような、やんちゃな男の子だったと話していました。また、わたしのことをたいそうな美人だと褒めてくださいましたし、二人とも背が高いから、お似合いだとも言ってくださいました。

吉田さんはともかく、いわゆる貧困層家庭出身のわたしが、透みたいな上流階級の家に挨拶なんて行ったら、普通はマナー面だとかで失敗したり、また昔のことを詮索されて嫌な思いをするだろうと、心配なさる方もいるかもしれません。でも、わたしはこの日、とりあえず恥だけはかかずに済みました。泉谷先生が事前に色々と対策を練って下さいましたし、透の家族には泉谷先生が身元を調査したことを言ってあるので、火事で家が焼けて独りぼっちだということにしてあると仰っていました。

その日は透のお母様が手料理を作って、もてなしてくださいました。ハンバーグとサラダなど、一般的な家庭料理だったのが意外でした。

――母さん、どうせならもうちょっと手の込んだものを作ってくれたっていいじゃん。

――だって、透。好きでしょう、ハンバーグ。

――好きだけどさ。あーもう、綾乃は魚が好きなのに。こうなるなら、先に魚料理ってリクエストしとけばよかったよ。

――あら、綾乃さん、お魚が好きだったの? ハンバーグはお嫌いだったかしら?

――いいえ、好きですよ。お気を使わせてしまってすみません。

――じゃあ、今度はお魚ね。

透のご両親は上品な方たちですが、思っていたよりも気さくで庶民的でした。お母様は名門の泉谷家から嫁してきたせいか、なんとなくおっとりとした方でした。お父様は大会社の専務だけあって、真面目そうな方でしたが、笑うと透にそっくりの笑顔を見せる一面もあり、とても感じの良い方でした。

身分違いでも、この家ならなんとかやっていけるのでは、と思いましたが、わたしはあの悪夢の感触が忘れられなかったので、終始なにも言わず、ただ微笑んでいるだけしか出来ませんでした。

ご両親と食事をしながら談笑した後、透は離れにいるお祖母様を紹介してくれました。ヘルパーさんがお粥を食べさせている最中でしたが、透を見るや否や、目を輝かせてこちらを見入っていました。お祖母様は、お膳を下げさせて、透とわたしに近くに来いと手招きをしました。

例の安楽死を希望したというお祖母様だそうです。でも、あれから急速に認知症が始まってしまい、安楽死の話はなくなったと透は言っていました。

――婆ちゃん、元気? 透だよ。

――まあ、美男子ねえ――そう、透さんと仰るのね。

どうやらお祖母様は、透が誰だかを忘れてしまったようです。わたしは、深々とご挨拶をして、透の友達だと自己紹介しようとしました。

――初めまして、高崎綾乃と申します。お名前を伺っていいですか?

――私? 佐藤貴美子と申します。よろしくね、綾乃さんとお呼びしてもいいかしら。

――はい、喜んで。

透はわたしがうまくお祖母様とやり取りをしているのを見て、ぼそっと耳打ちしました。

――婆ちゃん、自分をまだ嫁入り前だと思い込んでるんだ。

この時わたしはやっと、お祖母様が藤原ではなく佐藤と名乗ったかがわかりました。

――婆ちゃん、僕がわからない? 孫の透だよ。

――孫? どなたの?

――だから、あんたの孫の透だってば、婆ちゃん。しっかりしろよ。

お祖母様はなんだか混乱しているらしく、ぼんやりと宙を見ていました。

――貴美子さんは、お肌がとても白くて綺麗でらっしゃいますね。

わたしは話を逸らしました。これ以上真実を押し付けるのは、なんとなく可哀想な気がしたので。

――まあ、そうお? ありがとう、嬉しいわ。

お祖母様はそう言って、ぱあっと笑顔になりました。本当に嬉しそうでした。

――今度、おすすめの化粧品とか、教えてくださいね。

 わたしが話を逸らしている間、ヘルパーさんが食後のお薬を持ってきました。透はわたしを庭に案内すると言ったので、わたし達は部屋を出ました。

――ごめんな、綾乃。あんな婆ちゃんで。

――ううん、大丈夫。

――前に会った時はもっとしっかりしてたんだけど。まあ、安楽死するとかいう話が吹っ飛んで、僕たちはほっとしてる。

――わたしがわたしでない事を忘れるって、どんな気持ちなんだろうね。

ふと、わたしはそう呟きました。

――さあ、分からないけど。死の苦しみから解放されるんなら、認知症も悪くないかもな。綾乃、うちの家の人間、どう思った?

――え、透の家族の事?

――うん。

――別に。いい方たちばかりね。幸せのオーラを感じる。透の家族らしい感じがするよ。

――そうか?

――うん。だって、わたしが庶民の出だって知って、恥をかかないようにハンバーグにしてくださってたし。お魚とかだったら、食べるの難しいじゃない? 普通は。

――そうかなあ。

――わたしはそう思ったよ。

薔薇の生垣の前に、一台の自動車が停まりました。クラクションを軽く鳴らしたので、よく見ると、柿本さんが泉谷先生を乗せてやってきたところでした。

――こんにちは、あなたが高崎さんですね? 初めまして。

車から泉谷先生は降りると、こちらに向かってそう呼びかけました。

――初めまして、泉谷先生。高崎綾乃と申します。

なんとも白々しいやりとりだとは思いましたが、とにかく泉谷先生とわたしが初対面でないことは透にもご両親にも秘密なので、お互いに調子を合わせました。泉谷先生は庭に入ってきて、こちらまでまっすぐに歩いてきました。

――叔父貴、遅いよ。もう食事終わって、いま婆ちゃんに挨拶したところだよ。

――それは悪かった。お祖母ちゃんは元気かい?

――相変わらずみたいだよ。僕が誰だか忘れてるどころか、自分をまだ藤原の家に嫁いでないと思ってる。綾乃がうまく話を逸らさなかったら、発狂してたんじゃないのかな。

――そうか、高崎さん、ありがとうございます。初対面なのにお気を使わせてしまって。こんな家族ですが、よろしくお願いします。

――そんな。わたしの方こそ、よろしくお願いします。

と、こんな風にわたしは、透の親族と関わりを持つようになりました。

 

 

十七

透は八月いっぱいで介護士の仕事を辞めて、杉並の実家に戻りました。アメリカ留学するまでの間、英語を始めとする各分野の勉強をやり直しているとの話です。なんでも、週に四回は家庭教師の先生をつけての猛勉強だとか。

 ご両親は、透と私がマンションを借りて一緒に住むことを望んでおられましたが、わたしが断りました。今の段階――修業中の身で女性と同棲なんかしたら、後々、他人やマスコミに何を言われるかわからないので――と言って、わたしはそのお話を断ったのです。

透はちょっと淋しそうでしたが、少なくとも留学するまではお互いに節度を持った生活をすべきだと話したら、納得してもらえました。それでも透は勉強の合間、月に二、三回は松輪市に来たり、また恵比寿のタブラオにも遊びに来ていました。

 それから、藤原家の婚約者が生活保護なのは対面上よくないとの話になり、わたしは月にいくらか、藤原家から仕送りを受けることになりました。最初はもちろん断りましたが、受け取ってくれないとこちらが困ると言われたので、仕方なくご厚意に甘える形になりました。

いま住んでいるアパートも引き払って、それなりのマンションに引っ越すようにとも言われましたが、さすがにそれは断りました。

 アメリカの大学院への入学はその次の年の九月です。七月のウェブでの試験と面接で合格が決まれば、その次の月には渡米ということになります。透曰く、そんなにレベルの高い大学ではないので、多分大丈夫だろうと言っていました。

 一方のわたしの方ですが、英会話だけでなく、高卒認定試験の勉強や、お茶やお花などを習わなくてはならなくなりました。どうせあと一年で死ぬのに、何故こんなにハードスケジュールで勉強しないといけないのかとは思いましたが、仕事を辞めて時間的には余裕があったので、それらのレッスンを受けました。

平日の午前中は高卒認定のための予備校、午後はそれぞれ、お茶にお花にマナーに書道に日本舞踊。夜は毎日英会話教室というハードスケジュールでした。フラメンコは続けさせていただいていましたが、とにかく毎日が目まぐるしくて、何も考えられない状態でした。何のためにこんなに勉強しないといけないのか、と思わず愚痴が出そうでしたが、安楽死のことは誰にも内緒なので、ぐっと堪えて毎日勉強に勤しみました。

透があんなにも嫌っていた実家に戻って、毎日猛勉強をしているので、わたしも負けずに頑張ろうと思いました。ひたすら透のパートナーとして恥ずかしくないようにと、厳しいレッスンに食らい付いていったのです。

 そんな中、わたしは安楽死の手続きを続行しました。その日はウェブで海洋散骨を請け負ってくれる葬儀会社を見つけたので、市役所に行って手続きをしに行きました。

そういえば、尊厳葬係のケースワーカーの東野さんの話をし忘れていました。彼は透の中学生時代からの親友だそうで、実家も同じ杉並にあるそうです。かなり優秀な方らしく、あの泉谷先生が議員秘書にならないかと何回も誘っているという話です。いまのところは松輪市の地方公務員として、頑張っていきたいと言っていました。いまのところは、ということは、将来的には泉谷先生の秘書をやるかもしれないということでしょうか。それとも透が政治家や弁護士などになった暁には、何らかのサポートをするつもりなのでしょうか。いずれにしろ、泉谷先生にわたしの存在を報告したということは、すでに秘書のようなものなのでしょう。もちろん、透の親友であることは変わりがないので、わたしはその件について別段、怒ったりすることはありませんでした。

安楽死実行まで一年を切った夏の終わり、東野さんとこんな話をしました。

――高崎さん、藤原の実家に行ったそうですね。どうでしたか?

――どう、といいますと?

――いや、なんというか。あちらのご両親が高崎さんをすごく褒めておられたので。泉谷先生も高崎さんなら、透の妻として申し分ないと仰っていたので。しっかりしていて機転も利くから、いい夫婦になるだろうって話を聞いたのですが。高崎さん、それでもやはり安楽死するんですか?

――ええ、泉谷先生だけには、本当のことをお話ししているので。

――なんで、高崎さん。あなたはそこまでして死にたいんですか? しかも藤原やその両親までだましてまで。病気がお辛いのはわかりますが、投薬で症状は随分と治まっているんでしょう? 寛解も夢ではないというのに――

――東野さん、それはケースワーカーとしての質問ですか? それとも透の友達としての?

――両方です。

 東野さんが真面目な態度を崩さなかったので、わたしは思わず本当のことを言ってしまおうかと、一瞬迷いました。本当のこと――わたしが元娼婦で殺人犯であること――を東野さんに行ってしまおうかと。でもきっと泉谷先生と同じことを言うだろうと思ったので、わたしは打ち明けるのをやめた代わりにこう言いました。

――いまの法律では安楽死は認められています。希望すれば、ほぼ皆が自由に死ぬ権利を与えられていますよね? わたしはただ単に、その権利を行使しているだけです。理由なんて必要ないでしょう。国が許可を出しているんですから。東野さん、このことを透が知ったら、あなたが透に恨まれるかもしれませんが。東野さんはご自身のお仕事をなさっているだけに過ぎません。何も気にする必要はないと思います。そんなに気に病んでお仕事を全うできないなら、透のように辞めてしまえばいいのではないですか? 東野さんなら泉谷先生がいらっしゃることですし、なんらか別の仕事に就くこともお出来になるのでは?

この時のわたしは、少し意地悪だったかもしれません。泉谷先生にわたしのことを報告したことについては、あの雨の日に車の中で謝罪をされたので、そんなに根には持ってはいませんでした。でも東野さんは所詮、いち地方公務員の身であり、国の方針に従っていさえすれば身分を保証され、安泰な将来を約束されているエリートです。そんな東野さんがいくら本意ではないとしても、社会的弱者の自殺に加担しているのは事実です。見知らぬ他人の安楽死にはさっさと事務処理をするのに、いざ自分の身内に近いわたしがそれをする時はこうして感情的になるなんて、少し偽善的な感じがしてならなかったのです。東野さんが一貫としていちケースワーカーとしての態度を貫かないことが、わたしには不満でした。

東野さんはわたしのその言葉を聞いたあと、ため息をついて目を伏せました。そして、しばらくしてからこう言いました。

――わかりました。高崎さん、あなたの言う通りです。自分は自分の仕事を全うします。でも、忘れないでください。自分は藤原の友達です。国策に従う公務員という立場があっても、一人の人間なんです。そのことを忘れないでください。自分があなたに言えるのはそれだけです。それ以上は何も言えません。

 さすがに言い過ぎたかなとは思いましたが、わたしは自分が間違っていないとの確信があったので、言い過ぎたことを東野さんに謝罪することはありませんでした。

その日は契約した葬儀社を報告して、事務的な手続きをした後に市役所を後にしましたが、やはりなんとなく後味の悪さがありました。そのせいか、帰宅途中に透からチャットメッセージが入ってましたが、思わず二時間ほど既読スルーしてしまいました。ちょうどその日は月曜日で、生け花教室の帰りに市役所に寄ったのですが、透の「毎日お疲れさん。今日はお茶だっけ? それとも生け花? もうすぐ帰るのかい? 」というメッセージに返信する気力もないまま帰宅しました。

 

 

十八

短くて暑い夏が終わった頃に、アッコ先生が突然病気で倒れました。都内の病院に救急搬送されたと、タロウからのチャットメッセージで知らされました。わたしはその時、ちょうど予備校から茶道教室への移動中でしたが、その日は教室を休んで、アッコ先生の運ばれた東京の病院に駆けつけました。

なんでも、昼間の初級クラスのレッスン中に突然意識を失ったとの話です。わたしが病院に着いたのは倒れてからおよそ四時間近く経った頃でしたが、まだアッコ先生の意識は戻らないままでした。わたしとタロウと、それからその日の受け持ちクラスがない団員たち、そしてご両親であるじいじ先生とばあば先生が、病院の待合室でひたすらアッコ先生の意識を取り戻すのを待っていました。

翌年の五月に、四年ぶり舞踊団の公演があるので、その前座である初級クラスの生徒たちに、初心者向けのセビジャーナスのレッスンをしていたとの話です。今回の公演を最後に、アッコ先生はバイラオーラとして引退するはずでした。

四月に新規入会をしたの初心者クラスですので、来年の公演までに一曲ちゃんと踊れるようになるまでには時間がいくらあっても足りない状態だったのです。大がかりな公演は四年ぶりということもあって、アッコ先生の熱の入れようは相当なものでしたが、やはりご高齢だったこともあったでしょう。連日舞台の開催に向けて資金調達から監督、振り付けなどなど毎日休む間もなく奔走していたのが大きかったようです。

また、とにかく食べることが大好きだったので、前々から高血圧や高脂血症などもありました。こうして待っているみんなが、もうアッコ先生はだめかもしれないと思っていました。

リビングウィルの手続きを行っていたので、翌朝には区役所の尊厳死係のケースワーカーが来ました。アッコ先生は自分が倒れて助からないなら、延命処置をしないで安楽死をと希望していたのです。でも、じいじ先生もばあば先生も「延命処置は続ける、安楽死は認めない」と言い張ったので、一週間経ってもアッコ先生はなんだか訳のわからない管につながれたまま、まるでいい夢を見ているような安らかなお顔で眠っていました。

わたしはその間、予備校やお茶などのレッスンを休んで、タブラオの仮眠室で寝起きしてアッコ先生のいる病院に通いました。同じ服をいつまでも着たままのわたしに気を使って、ばあば先生がアッコ先生がお若いころ着ていた服を何着か譲って下さいました。

また、じいじ先生も「黙って暗くなってちゃだめだ」と仰って、タブラオでパエリアを作ってみんなに振舞いました。もうずいぶんなお年なのに、お二人はアッコ先生のご両親らしく本当にお元気な方たちでした。

透にもその話をしましたが、やはり延命処置は続けるべきだと言っていました。いまの法律では安楽死は合法化していますが、遺族が反対した場合、すぐに安楽死は実行されない仕組みになっています。でも、一か月以上意識不明だった場合は、法的に本人の意思が尊重されるとの話です。一か月がこんなにも長く、またあっという間だったのは、いままでの生涯でこの時が一番でした。

アッコ先生が倒れてから一週間は東京にとどまりましたが、これ以上東京に居て花嫁修業をさぼっても意味がないとタロウに言われて、渋々と松輪市に帰りました。アッコ先生にはタロウとご両親の三人が交代で付き添うという話になったのです。

当然わたしはアッコ先生のことが気になって、予備校も花嫁修業もちゃんと集中して勉強はできませんでした。

――心配な気持ちは分かるけど、自分のするべきことはちゃんとやれ。アッコ先生のせいで高卒認定が受からなかったなんて、目を覚ました先生にどう報告するつもりだ。

とタロウが言ったので、なんとなくもやもやしつつも、予備校と花嫁修業の各教室と家の往復を繰り返して、どうにか勉強をこなしました。

一か月が過ぎようとしたとき、アッコ先生の容態に変化があったそうです。時々うわごとのように何か唸ったり、指や足がわずかに動き始めたというのです。アッコ先生の意識が戻ったのはその三日後でした。タロウからその知らせを受けてすぐに、再び東京の病院にかけつけました。

――あはお。あはお、いえ、うえあ、おえ。

ヘルパーさんに歯を磨いてもらった後、アッコ先生はわたしを見てそうおっしゃいました。どうやら全身に麻痺が残ったらしく、発音にもだいぶ障碍がありました。それでも、なんとか自分の意思は示せるらしく、そばにいたばあば先生となにかを話していました。

――お医者様が言うには、もう二度と踊れないって話なのよ。このままでは来年の舞台も中止になるだろうね。

と、ばあば先生がおっしゃいました。

――おはあはん、わらひ、はんあくひ、すう。はんあくひ、ひはいお。

アッコ先生はお母様であるばあば先生にそう言いました。わたしにはアッコ先生がなんと仰ったかわからなかったのですが、ばあば先生には分かったみたいでした。

――厚子、あたしゃ安楽死なんか許さないよ。お父さんもきっとそう言うと思うよ。せっかく助かったのに、なんてことを言うの。ねえ、タロウくん、綾乃ちゃん? 厚子には元気になってまた一緒にレッスンしたいわよね?

――おはあはん、わらひ、ひにはい。もお、おんなああだ、いひゃ。いぶんれ、うおえあい。えんえん、うおえあい。おんなああだ、いはなひ。

アッコ先生は一生懸命ばあば先生に訴えかけました。

――何を言うの、死にたいだなんて。しっかりしなさい! 誰が苦労して産んで育てたと思ってるの?

どうやら、アッコ先生が何を仰っているのかが、ばあば先生にはわかる様子でした。

――アッコ先生、ばあば先生の言う通りだよ。コレオグラファー亀山厚子の「夢」を実現するバイラオーラや観客が待ってるじゃないか。ほら、綾乃はアッコ先生の「夢」一番の具現者だろう? 簡単には死なせないぞ? なあ、綾乃。――タロウはそう言って、わたしの背中を軽く叩きました。

わたしも何か言わなくちゃいけなかったのですが、何も言えずに、ただ黙ってばあば先生やタロウのやり取りを聞いているだけしかできませんでした。

――らって、あいご、すうひお、いはいひ。おはあはんも、おろうはんも、おひあし。あはひは、ひななひゃ――アッコ先生は涙をぽろりとこぼしながら、一生懸命タロウに言いました。

――介護ならヘルパーとかいるだろう。来年の舞台もあるんだし。ある程度は話せるじゃないか。リハビリ受ければ改善するだろ。コレオグラファーは口が利ければ充分だ。――タロウにもアッコ先生の意思は伝わったようです。

――おはあはん。あはひ、いひへ、ひいお?

――何? 厚子。もう一度言って。

――あはひは、いひへへ、ひいお?

――馬鹿なこと言うねえ。生きてていいに決まってるじゃないか。安楽死法なんて馬鹿げた法律、そんなの反対なんだからね、あたしは。夕方来る区役所のケースワーカーに、安楽死は中止だって、お前から言いなさいよ。――ばあば先生も涙を滲ませながら、そう仰いました。

わたしは黙って頷くことしかできませんでした。死にたければ死ねばいい、なんてこのシチュエーションでは言えませんし。それにアッコ先生はみんなに愛されて幸せなのだから、生きるべきだと思ったのです。

そう、幸せな人間は生き、不幸な人間は死んでいい――そう考えたとき、はっとしました。

透が安楽死を反対している理由が、この時初めて理解出来ました。幸せな人間と不幸な人間、どちらも命の価値は同じはずです。でも、何故幸せな人間は長生きしていいのに、不幸な人間――安楽死を希望したくなるような状態にある人間は死んでいいのか、また、死ななければならないのか。ふっとそんな疑問がわたしの脳裏を掠めました。

 そんなわたしの心の動きを感じ取ったのか、アッコ先生はわたしにこう言いました。

――あはお、おろっれ。うあいれ、おろっれ。おれがひ、あはお。おろっれ、あはひお、はわいり。

アッコ先生は懸命にわたしに訴えました。舞台で自分のかわりに踊って欲しいと。

わたしは断ることは出来ず、「はい」と思わず返事をしてしまいました。舞台は翌年の五月のはじめです。

アッコ先生は、それからこう言いました。

――あはひは、ひあわへもろらわ。らんれ、れいらふあ、りんへいらろかひら。

うれし涙を流すアッコ先生を見て、わたしは少しだけ悲しくなりました。どうしてわたしはこんな風に愛されて育たなかったのか。もしもわたしがこんな風に親に愛されていたら、殺人なんかしなかっただろうと思ったのです。

どんなにレッスンを頑張ってスターダンサーになっても、アッコ先生の恵まれた境遇や良いご気性みたいなものは、わたしには手に入らなかったし、身に付きませんでした。神様はどうしてこうも不公平なのだろうと、いつもアッコ先生を見ていて思っていました。

 アッコ先生の「夢」の最大の具現者は、他ならぬわたしだと誰もが認めていましたが、わたしにとってはアッコ先生の作る夢が、どうしても「幸せな夢」過ぎて、時折、演じきれない悩みもありました。特にアレグリアス――喜びの踊りは苦手でした。アッコ先生の振り付けには悪夢もありますが、わたしには悪夢の方が踊りやすいのです。もちろん、アッコ先生も怪我したり、コンテストではなかなか優勝できなかったり、また、独特の振り付けは異端視されています。でも、どう見てもわたしの人生よりは恵まれているとしか思えません。全身麻痺になっても、身体を売らされないだけましだと、わたしには思えてくるのです。きっと、アッコ先生には一生わたしの本当の悲しい気持ちはご理解できないでしょう。そうです、誰にも理解できないでしょう。でも、それは仕方がないことです。

 アッコ先生の「夢」はまだまだこれからといったところだと思います。本当に、ご自身で仰っているように、幸せで贅沢な人生なのではないかなと、わたしは思いました。

 

 

十九

その頃のわたしは何かあると、まず泉谷先生に相談をしていました。同い年ということもあって、透のお母様よりも話しやすかったというのもありますが、泉谷先生が「何かあったら必ず最初に自分のところに相談してから藤原の家に話をして欲しい」とおっしゃっていましたので。とにかく、泉谷先生は何かとわたしに気にかけてくださいました。

 わたしがアッコ先生の舞台に出演することも、また、そのためにはお稽古ごとやなんかもお休みして踊りの稽古をしないといけないことなど、とにかくまず先に泉谷先生にお電話で許可をいただくことになりました。

――フラメンコの舞台、ですか。引退したと聞いていましたが、そうですか。来年の五月に公演があるんですね。

――すみません。目立つことはなるべく避けたかったのですが、闘病生活を強いられている恩師の頼みとなると、どうしても断れませんでした。でも、泉谷先生がやめろというのなら、恩師も諦めてくれると思います。

――いやいや、いい話じゃないですか。あなたはもともとプロのフラメンコダンサーですから、引きこもっていないで、どんどん自分の夢を追及したらいい。そういう話なら、藤原の家も納得するでしょう。習い事は英会話だけは続ける方向でやっていって下さい。また気が変わって透と一緒にアメリカに行きたくなるかもしれませんしね。

泉谷先生は与党のホープですが、無派閥ということもあり、安楽死法案――正式に尊厳死法案というらしいですが――には投票しなかった、少数派の議員のうちの一人でした。そういう意味では透と同じ考えで話も合いますが、わたしにはなぜ泉谷先生のようになりたがらないのかがわかりませんでした。

わたしが電話をするたびに、泉谷先生は「安楽死は止めないか」というムードを作って話を進めてきます。でも、わたしの決意は堅く、毎回のらりくらりとかわしてはいます。でも、そろそろ安楽死をする理由を言うのが疲れてきてしまったので、何を言われても黙って話を聞いていることにしました。

――泉谷先生、ひとつ質問なんですが。

――はい、何か?

――あんなに家の決めたレールに乗るのを嫌がっていた透を、どう説得したんですか? 年齢とかわたしとの結婚のことだけでは、透の気持ちは簡単には動かせないのでは、とわたしは思うんですが。わたしの知らないところで、何かあったんですか? 

 どうして実家に帰るのかと、透には一切質問しませんでした。彼が納得するなら、それでいいと思っていたので。

――あなたは本当に勘が良い人ですね。いいでしょう、隠していても仕方がない。怒らないでそのまま聞いていただけますか、高崎さん?

――怒らなきゃいけない理由なんですね。いいですよ。でも、怒りたければ怒りますよ、わたしは。ただし、途中で電話を切らずに、お話を伺ってから怒ることにします。で、どういう理由で透を?

――簡単です。これ以上、透の勝手気ままな我が儘は許されない。私に逆らえば、泉谷家と藤原家の力で、高崎さんをどうにでも出来ると言ったまでです。もちろんはったりですが。透もそのことは承知の上だと思います。彼はようやくただの一市民よりも有力者になった方が、多くの人間を助けられることに気づいたらしいです。まあ、高崎さんがそう彼に言ったと彼は申していましたが。

わたしはこの泉谷先生こう仰るのは、あながちはったりではなく、本当の警告だったと感じて、思わず息をのみ込みました。

なるほど、透はこんな脅迫が出来る身分になって、誰かを意のままに操るような人間にはなりたくなかったのかもしれないと思いました。狡いことをあんなに嫌っていた透が、こうやって泉谷先生に従った理由が、まさかわたしだとは思いもしませんでした。

――なら、安楽死よりも――わたしをセメント漬けにして東京湾に沈めた方が早くないですか?

――それでは透は泣くだけで、実家に戻ってこないでしょう。あなたという存在がそれだけ透にとって大事だということです。なにも高崎さんを殺すとまでは言ってませんし、出来てもそんなことはやりません。ただ、自分のやりたいことを思いっきりやれる青春に、終止符を打つべき時期が来たのでしょう。それは本人もわかっているはずです。

――わたしが死んだら――いなくなったら、また家出するんじゃないでしょうか。その辺はどうなさるんですか。

――それも問題です。困ったことになるのは間違いないでしょう。透ならきっと私に、あなたの居所を調べてくれ、と頼みに来るでしょうね。

――透には遺書を書いた方がいいのでしょうか。それとも、他に好きな人が出来たと嘘をついていまのうちに別れた方がいいのでしょうか。

――出来れば、別れないでやってください。遺書は書くだけで心が休まる場合もありますから、書いておくといいでしょう。かくいう私も、毎年誕生日に遺書とリビングウィルを更新していますから。

わたしは泉谷先生が簡単に、それこそ人を殺すことも出来る力を持っていることに、あまり驚きませんでしたし、怖いとも思いませんでした。実際に三人もの人間を殺している自分の方が、何倍も恐ろしいと思っていますので。

 こうして話していくうちに、泉谷先生がどんな方なのかがわかってきました。透が嫌う理由もなんとなくですが、理解出来ました。でも、わたしは泉谷先生のしていることが、間違っているとは思いませんでした。悪いことなのかもしれませんが、そうは思えません。少なくともわたしにとっては、信頼のおける人間であることは明らかです。

 

それから、わたしは毎週水曜日だけでなく、週三日ほど恵比寿にあるアッコ先生のスタジオで、次の五月の舞台に向けての稽古に通い始めました。

ほとんどのプロのメンバーはみんな独立していったので、わたしが一番の古株の踊り手ということになります。わたし一人じゃ心もとないので、一昨年独立したナナマリア先輩が友情出演することになりました。

ナナマリア先輩はわたしよりも五歳上で、スペイン人とのハーフです。わざわざ遠いスペインから戻ってきて、タロウのとなりの部屋に公演が終わるまで滞在することになりました。もちろん店も手伝ってくれました。

アッコ先生の踊り手としての最後の公演だったのですから、主役が踊れないとなると、その穴を埋めるのは大変なことでした。このステージはアッコ先生の引退公演のはずでした。フラメンコは年齢や体型にかかわらず、誰にでも踊れるものですが、アッコ先生はもうお歳ですし、激しい運動は控えなければならないので、プロのバイラオーラとしての人生を終わらせる記念となるはずの公演でした。まさか病気で急に倒れるとは思いもよらなかったので、ナナマリア先輩とわたしとで、初級から上級、プロクラスの指導にてんてこ舞いしていました。幸いにして振りは動画保存してあったので、それを頼りに踊りと音楽の反復練習をしていました。

そんな矢先、クリスマス前にアッコ先生が退院してきました。そのまま自宅療養するのかと思いきや、なんと三日もしないうちにばあば先生とじいじ先生を連れて、車いすでスタジオに姿を現しました。ご両親が交代で車いすを押してです。

一人では食事もできないし、トイレもいけない状態なのに――そんな状態にもかかわらず、不自由なお身体をおして、生徒たちを指導なさいました。

アッコ先生の言葉はなんとか戻りつつあるので、口頭での指導が可能でした。入院中、ご両親である、じいじ先生とばあば先生と三人で、毎日歌を歌ってリハビリをしたのが良かったみたいです。毎日三人こうして毎日生徒への指導をしていくうちに、身体の方も少しずつ可動範囲が増えました。舞台当日は両腕がある程度動かせたので、ファンとの握手やサインにも応じることが出来たのです。

舞台のプロデュースの方はタロウとホセが中心となり、スポンサーとの契約や大道具小道具衣装などの買い付けや人手の手配などを行いました。肝心のダンスの方は。主演であるわたしとナナマリア先輩がそれぞれアイディアを出して、アッコ先生原案の振り付けをわたしたち用に作り直しました。

引退直前のアッコ先生よりもナナマリア先輩やわたしの方が、体力的にも勝っていたので、難しいステップや振りを積極的に取り入れることになりました。

また、わたしが得意だったアクロバティックなジャンプやブエルタ――回転技も随所に入れているので、これまでで一番ハードな舞台で、そして人生で一番充実した舞台でもありました。

 

 

二十

透とはとてもいい関係を保てたと思います――いいえ、わたしは最後まですべてを打ち明けなかったのですから、本当の意味でのいい関係ではなかったのかもしれません。でも、少なくともお互いを尊重していましたし、年齢も性別も立場も関係なく、常に対等でした。それはたぶん、透の対人スキルがとても高かったからでしょう。他人とあまり深い関わりを持つのが苦手なわたしですから、透がもしもすぐに感情をあらわにする性格だったなら、二人の関係はすぐに壊れていたと思います。

透はわたしが家族や過去の話をしないことは、別段気にするそぶりはは見せませんでした。言っても言わなくても変わらない――そんな雰囲気を彼が作っていたように思います。だからわたしは最後まで何も言いませんでした。――いいえ、たった一度ですが、言いかけてやめたことがあります。

それは舞台の稽古が休みで、永沢町のアパートで荷物の断捨離をしていた時です。アメリカに行く四か月前――そうです、ポップコーンのような桜を見に行った後に、アパートでの片づけを透に手伝ってもらっていた時です。古い雑誌が溜まっていたので、わたしが事前に紐で縛っておいたのですが、それが解けてしまって、ばらばらになってしまった時のことでした。

その中には運悪く、最初に市役所に行って安楽死のパンフレットをもらった時のものが入っていました。それを見た透は、わたしにこう言いました。

――なんで安楽死のパンフレットがあるんだ?

透の声も表情も、いつもの穏やかさを失っていて、わたしは一瞬身を縮めてしまいました。

――別に、市役所に行ったときに置いてあったから、どんなものかと思って持ってきちゃっただけ――

わたしは嘘の名人ですが、透はみるみるうちに顔を険しくして問い詰たので、冷や汗が止まりませんでした。

――タロウさんから聞いたよ。綾乃は何年か前にオーバードーズしたことがあるって。綾乃がまたやらかさないように、気を付けてやってくれって言われてたけど。綾乃、まさか安楽死しようとしてないか?

――まさか。しないよ、そんなこと。だって透がいるもん。

わたしは知らばっくれてその場を誤魔化そうとしました。

――僕は認めないからね。

透はこちらをじっと見つめていました。

――だから、わたしは死なないって。

わたしは普段から他人と目を合わせないたちでしたが、この時もそうだったようです。とにかく、嘘がばれて、どう誤魔化そうかとばかり考えていましたから、それが透に伝わったのでしょう。

――嘘つくな。もう申し込んだのかい? 僕に黙って市役所に行ってきたんだろう?

――だから、そんなことないって言ってるでしょう? 早くゴミに出さないと回収車が来ちゃうよ。

――綾乃、僕には嘘つかないで。

――うるさいよ、透。嘘なんかついてないってば。いい加減にしてよ。

――ほら、やっぱり何か隠してる。市役所の知り合いに聞けばすぐわかることなんだよ。もう申し込んだのか?

――申し込んでなんかないよ、透、しつこいよ!

――どうして自殺なんかするんだよ?

――しないって言ってるじゃない!

――僕じゃ頼りにならないから? なんで死ななきゃならないんだよ!

透があまりにも執拗に追及するので、思わず本音が出てしまいました。

――透にはわからないよ。安楽死したい人の気持ちなんか、お坊ちゃんの透にはわからない。ただやみくもに反対してるだけで、他人の気持ちなんてわかりっこない。誰からも愛されて幸せに生きてきた透には、一生わからないのよ!

わたしは言ってはならないことを言ってしまって、しまった、と思いました。透は傷ついたような顔をしていました。悲しそうな、淋しそうな透の顔を見ていられなくて、涙が滲みました。

わたしたちは何も言えずに、黙りこんでしまいました。お互い、目も合わせる事も出来すにいました。

暫くして、回収車が流す松輪市の市歌が流れて、はっとしましたが、ばらばらになった古紙を拾い集めることはしませんでした。

――綾乃、確かに僕は世間知らずかもしれない。でも、安楽死は反対なんだ。死んでいい人なんかいないと思うし、命には格差があってはならないんだよ。死にたいと思う人がいなくなる社会を目指さなきゃならないんだ。法律が自殺を許すなんてことは、あってはならないんだ。医療だって元々はいかに生きるかを追求してきたのに、いまはいかに死ぬかを追求し始めた。こんな不条理な世の中、絶対間違ってる。綾乃、お願いだから自分から死ぬなんてことはしないで。

仲直りに歩み寄ったのは透の方でした。わたしは何も言えず、俯いていました。

――なにがあっても、僕をひとりにしないで。それだけは約束して、ね、綾乃? 

喉元まで出かかった暗い過去をのみこんだのは、これで何回目でしょうか。嘘はいつも重たい石のようにわたしの胸を苦しめます。いつも、いつも――です。

 

 

二十一

ゴールデンウィークが近づくと舞台稽古も大詰めになり、あと数日で本番ということになったのですが、わたしが最後に踊るパートの振り付けだけは、まだ完成していませんでした。何度も何度もお稽古場で練習をしましたし、一人で居残って練習する時はメトロノームを使って、リズムから外れないようにしながら踊りました。

松輪のアパートから恵比寿へ通うのは大変なので、一か月ほどナナマリア先輩とルームシェアしました。彼女はとても気さくで陽気な人です。日本語は片言しかしゃべれませんから、二人で家事やレッスンをする時に話が通じない場合があると、スマートホンの翻訳アプリを使いました。

彼女の踊りはとても女性らしく、小柄ではあるものの華やかなので、実際の身長よりも大きく見えて舞台映えします。フラメンコの本場のスペインでのある大会に優勝した経験もあって、スペインでも日本でもファンが多いです。

わたしとは全く違う個性ですから、一緒にいても比べあったりしないし、一応ライバル関係に当たるのですが、お互いに尊重しあっているので衝突はありませんでした。ただ、わたしは他の人よりもだいぶ遅れてフラメンコを習いだしたので、たまに一緒に踊るとキャリアの差を感じる場面があります。でも、ナナマリア先輩はそんなわたしをいつもあたたかく見守ってくれていて、たまにですが居残りの稽古に付き合ってくれることもありました。

――アヤノは自分らしく踊ればいいの、頭で考えすぎよ。それよりもあんなジャンプ、トップアスリート並みよ? もっと自信を持って。綾乃の踊りは本当に奇跡なんだから。ファルーカなんて、男よりも勇ましいじゃない。羨ましいわ。そんなことができるバイラオーラは男だって、そうそういないわよ――と彼女はよくほめてくれました。

彼女が踊る曲種は、明るく伸びやかなガロティンと最も根源的で格調高いシギリージャです。対して私はファルーカとソレアです。ファルーカは前にもお話ししたように、男性的な勇壮な踊りで、本来なら男性の領域です。ソレアは「孤独」という意味で、フラメンコの母とまで言われる曲種です。十二拍子系の曲の中で最も緩やかなテンポを持っています。スローパートはフラメンコに限らず、どの踊りでも難しいのですが、今回、ファルーカは得意ですので問題はありませんが、ソレアのゆったりしたリズムはわたしにとっては試練のようなものでした。

 

そして、あっという間に公演当日になりました。初心者クラスの春のお祭りのセビジャーナスから始まり、ナナマリア先輩の伸びやかなガロティン、わたしが男装で踊るアクロバティックなファルーカと続き、全員で踊る祭囃子のようなタンギージョ・デ・カディス。ナナマリア先輩の最も伝統ある曲種のシギリージャ、そして最後にわたしのソレア――孤独の踊りで締めくくるという構成です。

開演直前、楽屋でメイクをした後、鏡の前で振りを何度もチェックしました。特にソレアの腕の動きには注意しました。

いま考えると踊るという行為は、わたしにとっては他の誰かの夢を叶えることだったように思います。小さい頃は母の、大人になってからはアッコ先生の。

アッコ先生は、こんなことを仰っていました。

――実は、私ね。昔赤ちゃんを流産したことがあるのよ。もともと生理不順だったから、気づかずに流れちゃったのよ。公演の最中に腹痛がきて、カーテンコールの時にはもうあまりの痛みに耐えられなくて、そのまま救急車だった。女の子だったらしいから、初めてあなたに会った時に――なにかを感じたの。あの時産んでいればちょうど綾乃と同い年ね。本当に何かを感じたのよ。他にもあなたと同い年の団員はいたけど、あなたが天涯孤独だと知る前に、何か運命的なものを感じたわ。理由も根拠もなく、この子は私の娘の生まれ変わりだと思って――いえ、違うわね――生きてて欲しかったから、きっと神様が代わりにあなたを寄こしたんだと思ったわ。とにかく、綾乃が来てからは、不思議なことにあの悪夢のような流産の夢を見なくなったわ。それにね、あなたが初めてお稽古場でジャンプをして見せてくれた時、その晩は夢で自分が空を飛んでいたわ。綾乃のジャンプは白鳥ではないわね、例えるなら鷹よ、鷹。あなたはフラメンコを踊るために生まれたみたいに思うの。空飛ぶフラメンコなんておかしいっていう人も多いけど、私は確信してた。綾乃、あなたは踊ることをやめてはだめよ。私がいなくなったとしても、踊っていて欲しいの。それがあなたの生きる道に――ううん、あなたが生きるためには踊りが必要だと思うわ。人生の伴侶なのよ、きっと。綾乃、鷹のように踊って。空の覇者の鷹の踊りをするのよ。誰も真似できない、あなたの世界を見せて欲しい。綾乃、忘れないで。

鷹のように空を飛ぶフラメンコ――こんな突飛な発想は、わたしにはありませんでした。でも、アッコ先生の夢を具現化していくうちに、わたしの中からも夢が生まれたように思います。それを言葉で表すことは出来ませんが、とにかく何かがわたしの中で光を発するのです。舞台でのパフォーマンスはそれを形にして見せただけに過ぎません。恐らく、舞台を見ている人以上の何かをわたしは踊りから得ています。

アッコ先生の夢を具現化して踊るのは、それを観ている人に夢以上の何かを見せることになると思います。そんな夢を現実にするのがわたしの使命だったように思います。そうです、観客と踊り手が一緒になって同じ夢を見るのです。

バレエは言うなれば白鳥の踊り。フラメンコは鷹の踊り。まさか実際にバレエさながらのジャンプなんて、フラメンコの基本から外れていますが、きちんと十二拍子のリズムの音楽と調和させ、また伝統的な体の動きも、基本を外さないで個性を出すのがアッコ先生の振り付けです。

ファルーカは空気を切り裂くように――そう、アッコ先生の言うような鷹の飛ぶ姿さながらに。一回転ジャンプから着地、一拍して細かいサパテアード――ステップ。

対してソレアはゆっくりとひそやかに踊りました。子を亡くした母親の鷹が、孤独のうちに羽を休めているように。そして鷹は再び大空へと飛んでいく――大きなジャンプの後は、最後は七回転のブエルタで締めくくりました。練習では五回転までしか出来なかったのに、今回は七回も回れました。タロウのギターもそれに合わせて、ほんの一拍、間を入れてくれました。最後はきちんと音と調和出来ましたから、うまくいきました。

苦手だったソレアを踊り切った後に、観客がわっと歓声を上げ、拍手が鳴りやみませんでした。いままで何度も喝采を浴びましたが、拍手が止まらないなんてことはありませんでした。

アンコール、アンコール――と客席から声が上がりました。わたしは何が起こっているかがまだ分からず、後ろでギターを弾いていたタロウが「アレグリアスを」と言いました。

アレグリアス――喜びの踊り。初めて踊った時のことなど忘れてしまいましたが、この『ラ・バローサ・アレグリアス』はずっとわたしが求めていたものです。

最後のアレグリアスの時、わたしは喜び舞い狂うように踊って見せました。そう、まるで求愛が叶った鷹のように――愛と喜びの夢が現実となった、幸せの踊りです。

汗も涙も笑いもない人生なんて、塩気のないスープと同じだと誰かが言いました。事実、そうなんだと思います。わたしの人生の半分以上は、汗や涙ばかりだったように思いますが、ほんのわずかでも喜びがあるからこそ、こうしてアレグリアスが踊れるのです。わたしは最後の最後にやっと自分のアレグリアスを踊れたと思います。

もう、わたしは舞踊人としての人生を全うしたと思います。この先わたしが舞台に上がるこ

とはないでしょう。一生分を踊り切ったようなアレグリアスだったと思います。

 

 

二十二

例年よりも一か月遅い梅雨が明けて、渡米の日がやってきました。前の日にアパートの荷物は引き払い、大きな荷物は先に船便で送りました。ですからわたしはナップザック一つという軽装で、空港のホテルに泊まりました。透と待ち合わせしたのは出国フロアの時計台の前でした。搭乗二時間前に透は着いたのですが、出国手続きにはまだ時間がありました。

空港はとても広くて天井が高かったです。色んなお店があるので、わたしは「日本も見納めだからお店を見て回りたい」といつになく我が儘を言いました。ブティックやゲームセンターらしきもの、和風な喫茶店や牛丼屋さん。お昼ご飯には展望デッキ近くのカフェで、高いのに美味しくないピザを食べました。

空港の展望デッキに出ると、何かガスのような灯油のような臭いがしました。高い建物が近くにないので、開放感がありました。天気予報では曇りのち雨でしたが、まだこの時はまだ晴れていました。

そして出国手続きと搭乗手続きの直前で、わたしは鞄の中を見ながら「しまった」と言いました。

――透、ごめん。トイレにポーチを忘れてきちゃった。取りに行ってくるから、先に行ってて。すぐ戻るから。

――え、もう出国手続きしないと間に合わないよ? 化粧ポーチなんかいいだろ。

――限定コスメがあれには入ってるのよ。ね、すぐに追いかけるから。

――しょうがないなあ、早くしろよ。

わたしは自動改札みたいなゲートで手続きをしている透を確認してから、トイレに行く振りをして、そのまま振り返らずにエスカレーターに乗り、その時来たばかりの電車に駆け込んで乗りました。

空港はいったん搭乗手続きをしたら、引き返すことは出来ません。実を言うとその辺りは事前に下調べをしました。もしも透が引き返してきても、わたしの消息はわからないでしょうし、諦めて飛行機に乗ることでしょう。

わたしは電車に乗って、すぐにスマートホンを取り出しました。その間、無料のチャットと通話のできるアプリで透のアカウントをブロックして、それから電話も着信拒否にしました。それからすぐに、松輪市の中心街にあるビジネスホテルをネット予約しました。席が空いたので、お年寄りや妊婦さんがいないのを見計らって座りました。わたしは俯いたままぼんやりと、向こう側の乗客の足元のあたりを眺めていました。

本当にこの時はぼんやりしていたので、誤って終点まで乗り過ごしてしまいました。まだ日が高かったので海岸に寄ってからホテルに行くことにしました。駅前のコンビニでビールを三本買って、いつも透と散歩していた海浜公園まで歩きました。

もう戻れない――そう思いながら、灰色になった海と空をただじっと見ていました。

夕日が山側に沈む頃には、ぽつぽつと雨が降ってきました。南風の雨の日には、ここはいつも塩気を帯びた雨が降ってきます。そうです、まるで涙みたいな雨が降るのです。

 

古いビジネスホテルに着くと、まずはバスルームで身体を温めました。狭い浴槽で放心していたら、すっかりお湯が冷めてしまったのを 自分のくしゃみが出るまで気が付きませんでした。再びお湯を足して暫くしてから体と髪を洗って出ました。お風呂から上がる頃にはすっかり指がふやふやになっていました。雨で濡れたTシャツはハンガーにかけて、ナップザックから他のシャツを取り出しました。ホテルの浴衣に身を包み、テレビを観ていましたが、内容が全然頭に入ってこなくて疲れてしまい、ついうっかり居眠りをしてしまいました。

泉谷先生から電話があったのは、夜になってからです。

――もしもし、高崎さん? 今どこにいるんですか?

――ホテルです。

――透があなたが消えたと大騒ぎしていましたよ。空港で行方不明になったから、人攫いかもしれないと、警察に捜索願を出したそうです。

わたしはびっくりしました。まさか警察に届けるなんて考えも及びませんでしたので。

泉谷先生は、ため息を少しついて、こう続けました。

――私としてもおおごとにはしたくなかったので、警視庁の知人の力で警察を黙らせましたが。そうですか、人攫いではなかったんですね。無事で何よりです。

 わたしは透がもう海外に――出国手続きをしたなら、わたしのことは諦めて飛行機に乗ったのだと思い込んでいました。

――透には、警察が引き続き捜索していると言っておきましたが。高崎さん、どうか早まらないで下さい。せめて一目でも透に会ってやって下さいませんか。どうか――

泉谷先生はわたしを引き止めました。

――泉谷先生、わたしはもう透とは終わったのです。先生のお力ならば、あの時のように、東野さんを使って、わたしの安楽死を阻止することもお出来になるんでしょう。やりたけれればおやりになってください。ただし、退院後の透との最初のデートにはバッティングセンターになりますよ? 

 わたしはとっさに口から出まかせを言いました。

――まさかあなたが透を殺すなど。そんなことはしないでしょう? 脅かすのは止めてください。

 泉谷先生は少し動揺したらしいです。

――いいえ、はったりではありまでん。遅かれ早かれ、発作でも起こせば、わたしは誰であっても殺すでしょう。あの凶行に及んだ手ごたえの記憶は消えませんから。いいですね? 泉谷先生。ただの一般人でも捨て身の女ですから、わたしは。何も怖いものはありません。

――高崎さん、お願いです。どうか、どうか――

――今までお世話になりました。泉谷先生、お別れです。本当によくしていただいてありがとうございました。

そうしてわたしは一言、透に伝えたかった言葉を言わずに、電話を切りました。

そう、ただ一言――透、わたしを忘れて――と。


 

二十三

松輪市で安楽死を行っている病院は、まだ一件しかありません。そうです、初めて透と出会って、彼が救急搬送された病院です。もともと、昭和の時代では結核患者用の施設だったらしいですが、古いけど白くて清潔そうな病院です。

早朝にビジネスホテルを出て、涼しい空気を吸いたいと思ったので、時間よりもだいぶ早く来てしまいました。八時半にならないと受付が開かないので、夜間受付口から入れてもらって、廊下のベンチで待つことにしました。

傍にある小さな本棚に目をやると、偶然にも透が好きだった本がありました。ある作家の初期の短編集です。表紙は破れ、日焼けしてしまっているそのぼろぼろの本を手に取り、ぱらぱらと捲りました。付き合い始めの頃、透はその本を通販で購入して、わざわざわたしのところへ郵送してくれました。けど、ほんの数ページ読んだだけで放り出してしまいました。わたしには内容が難しくて、とうとう今日まで読めませんでした。「どこがいいの? 」と、透に訊いた覚えはあるのですが、彼が何と答えたかは覚えていません。こんなわたしですから、やはり透に相応しい婚約者ではなかったでしょう。別れてよかったのだと、改めて思い知りました。

八時半になって受付が始まると、わたしは安楽死の書類を出しました。他の患者も数人いましたが、みんな内科だったようで、中には風邪をひいているのか、咳が止まらない人もいました。

数十分してから看護師長さんに呼ばれ、挨拶をされました。――この度はどうも――とお互いに言い合って、なんだかおかしな感じがしました。自分に対して「ご愁傷様」というのもおかしいので、「よろしくお願いします」とだけ言いました。

病室に案内してくれたのは安楽死の担当の看護婦さんでした。年のころはわたしと同じくらいで、二宮さんという方です。東の一番奥の建物の二階の一番端の部屋に通されました。

問診票を書きながら、わたしはふと窓が開いていることに気づきました。そうです、あの青い優雅なレースのカーテンが揺れていたのです。窓から外を眺めると、ちょうど海と山が一望できました。台湾リスが三匹、電線を渡っているのも見えます。

暫くすると、先ほどの二宮さんが病衣を持ってきてくれました。問診票を書いて渡すと、彼女はそれを受け取ってすぐに、病室からナースステーションに戻ってしまいました。恐らく、あまり安楽死の患者には関わりたくなかったのでしょう。同情してのことか、または差別的なことでのことなのかはわかりませんが、とにかくこの二宮さんという看護婦さんは、終始素っ気なくわたしに接していました。

担当医の本来の仕事は麻酔専門だったと、ご本人自らが仰っていました。黒縁眼鏡をかけた初老の優しそうな、園部先生という医師でした。わたしの顔を見るや否や、にっこりと笑いかけてくださいました。釣られて笑うべきだったかとも思いましたが、笑いたくもなかったので、それ以降、園部先生の目を直接見ることは避けました。

弁護士の天野先生と、担当のケースワーカーである東野さんが揃ったのは十時半過ぎでした。その頃にはわたしは心電図の装置を身に着けていて、点滴が施されていました。いまはまだ生理食塩水のものです。最終確認書類にサインをしましたが、まだ弁護士さんは受け取っていません。わたしはナップザックから一通の手紙を出しました。

――高崎さん、それは誰かへの手紙ですか?

天野先生は、わたしの持っている手紙を見て言いました。わたしは渡そうと思いましたが、寸前で破いてゴミ箱に捨てました。

――いいえ、ただのゴミです。天野先生、後はよろしくお願いします。アーバン葬儀社さんへの手続きなども。

――ええ、わかりました。本当に手紙を書かなくてもいいんですか? 誰にも? 筆記用具なら私のを貸しますよ? 

――いいえ、いいです。いいんです、それで。

わたしは遺書――透への手紙を捨てて、再びベッドに戻りました。

東野さんは神妙な面持ちで、最終確認の書類を天野先生に渡しました。そして、窓からの風景に目をやりました。その表情を見ると「いい景色だ」と思っている様子でしたが、だからと言って気分が良くなるわけではないようでした。

――園部先生、ペンタトールのスイッチを押していいですか?

わたしはこれで全てが終わったと思い、園部先生にそう訊きました。

――まだ点滴が充分ではないですからね。もう少し待ってください。

――あとどのくらいですか? 

――少なくとも、この点滴パックが一本終わらないとだめです。

わたしはナップザックからヘッドホンを取り出して、音楽を聴き始めました。園部先生がペットボトルのお茶を差し入れてくださいましたので、それを遠慮せずに飲みました――そうです、透と飲んだあのメーカーのお茶です。

緑のすりガラスのネックレスを見て、透のことを一瞬思い出しましたが、すぐに天井とカーテンに目をやりました。透のことは、もう考えるのは止めようと思いました。

ヘッドホンから流れるフラメンコギターの音に集中して、頭の中でひたすら踊りました。ファルーカ、セビジャーナス、シギリージャ、ガロティン、ファンタンゴ、ルンバ、ソレア、そしてアレグリアス。他にもたくさん踊りました。アッコ先生やタロウには、心の中でお別れを言いました。

――高崎さん、本当にもう――取り消すことはしないんですか?

東野さんがそう話しかけたので、わたしはヘッドホンを外して答えました。

――ええ、そうです。点滴が終わったらとペンタトールのスイッチを入れます。そのあとは――園部先生、サクシルニコリンを注射して下さるんですよね?

園部先生は黙って頷きました。東野さんはとても悲しそうにこう言いました。

――泉谷先生からも高崎さんのことは頼まれましたが。藤原に、何か伝えることはないんですか? 彼を殺すなんて、はったりでしょう?

わたしは少し考えてから、何か言おうとしましたが、やめてしまいました。東野さんに何か言いたかったのですが、言葉が浮かびませんでした。

しばらくすると、東野さんのスマートホンの着信音が鳴りました。東野さんは席を外すと言って、廊下で電話を取りました。きっと、市役所からの緊急の電話だろうと思いましたので、わたしは早く彼の仕事を終わらせないといけないなと思いました。点滴がなくなるまで、本当に長く感じました。

――ああ、いま仕事中だ。前にも言っただろう? 安楽死の担当職員なんだから。いまは病院だから――

 話し声が少し聞こえましたが、どうやら私用電話だったようです。

――お前も元は市役所職員なんだから、わかるだろう? 誰がどこで死ぬかなんて言えるわけがないのは。俺だって嫌だよ、こんな仕事。誰かに止めて欲しいくらいだよ。お前みたいにいっそ市役所を辞めたいくらいだよ。――ああ、安楽死の病院は一か所だけだ、市内にはな。――と、耳をそばだてると、話の内容が聞こえました。

会話の様子で、電話相手が透であることがわかりました。わたしは早く点滴が終わらないかと、焦りを感じました。

――個人情報は言えない。じゃあな。

そう言って、東野さんは電話を切りました。すぐに病室に戻ってきて、わたしにこう言いました。

――昨日、空港で藤原を撒いたそうですね。あいつ、一晩中探し回ったらしいですよ?

――透には、ここのことは話していませんよね?

わたしは確認のため、そして念のためにそう訊きました。

――ええ、ただし。いままでで最もつらい仕事になると、愚痴をこぼしました。

――いつ?

――いまの電話は藤原からでしたから。どうやらここを嗅ぎつけたらしい。

その時、看護婦の二宮さんが、点滴のパックが残り少なくなったので、二パック目に取り替えました。

わたしはペンタトールのボタンを押そうとしましたが、園部先生がまだだと仰いました。

心電図のモニターの波形が、いまどうなっているのかはわかりませんが、園部先生はわたしの手を止めました。

わたしは先生の合図を待って、ボタンに手をかけようとしました。

――あなたは何です? ここは立ち入り禁止ですよ――ちょっと待って! 勝手に入らないでください!

遠くの方で女性の声――恐らく看護婦さんの声です。誰かが無断で入ってくるのを制止する声が聞こえました。

わたしはペンタトールのスイッチを入れました。数十秒間で意識はなくなり、昏睡状態になります。そのあとに園部先生が致死量のサクシルニコリンを注射して下さる手はずになっています。

――綾乃、綾乃。僕だよ!

急激に眠気が襲ってきた後、透の声が聞こえました――そうです、あれはたぶん透です。いいえ、わたしの夢かもしれませんが――そうです、きっと夢でしょう。

透が本当にここに来たのか、または来なかったのかは、わたしにはわかりません。

わたしは「わたし」という概念を忘れたかっただけかもしれません。すべての記憶をなくしてしまいたかっただけなのかもしれません。

もしもわたしの意思に反してサクシルニコリンが注射されなかったとしたら、わたしはもう一度透と会うことが出来るかもしれません。でも、家族でない人間の安楽死の中止は法律上、原則として禁止されています。

もう一度、透の顔を見る事が出来たなら――人生をやり直すことが出来るのなら――

ふっと、まるで舞台のライトが消えたように、すべての感覚はなくなりました。

わたしはどう生きるのか、また、どう死ぬのでしょうか。眠っているわたしには皆目見当がつきません。

                                   了

 

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