私の小説の書き方 ②文章にする

世界的な映画監督、黒澤明がずいぶん前に大島渚と対談しながら、若い人が脚本を書きあぐねていることについてこんな話をしていました。
「一字一字書いてく。その退屈な作業に耐えること」「慣れればね、都度書けるようになるんだけどね」「山を登るときにね、一番先に言われるのは、頂上を見るな、足下を見て歩けって」「こつこつこつこつ上がっていくうちに上へ行くんでね。上見てたらね、くたびれちゃって。それと同じなんですね」(1993年収録「わが映画人生」にて)
これは物語創作者になりたいけどなかなか慣れない、小説が書けない、と言う方は紙にでも書いて壁に貼っといて下さい。
文字を書いて頭の中にあるものを表現するってのは、巨匠・黒澤明であっても退屈で面倒でしんどいことなのだ。

さて①で着想について書いたので、今度は具体的に文章にしてみる、について書きます。

②文章にする

さてどこから話をはじめましょうか。まず、「巧い文章」を書けるようになりたい人は、このnoteを閉じて別の創作論を読んだ方がいいかもしれません。私は「巧い文章」について語ることはできても、実践ができてないので、あんまりあてになりません。
文章で自分の考えていることを書けてますか?書きたくない人はそれで大丈夫なのでオッケーオッケー。
考えてること、気持ちを書きたいのにうまくできないという人、いらっしゃいませ。だいじょうぶ。私もおんなじです。毎日毎日1行書いては「がげないいいいいい」って悶絶しています。1行も書けない日だってある。
余裕で書けるんだけど、なんかハマらないっていうか、あんまり好感触を得られないんだよね、という人も、どうぞどうぞいらっしゃい。

1.言葉を使う

私は2010年に短篇賞の佳作でデビューしながらも、単行本を出すまでに丸3年かかりました。その間毎日毎日必死で他の短篇を書いていた(分量的に、本にするにはあと4本必要だった)のですが、どれを書いてもだいたいボツ。アイデアはあるけどボツ。最後まで書いているけどボツ。もう本当に自暴自棄寸前でした。それはなぜかというと、アイデアはあったとしても、文章が下手すぎてうまく人に伝わらず、自己満足の域を出ず、ツギハギだらけのいびつな構成になっていたせいです。

たとえ巧く話せなかったとしても、世間話で友達や家族を笑わせることは、わりとできます。それは友達や家族が自分を知っているからです。
一方、まったくの赤の他人、自分をまるで知らない人を笑わせるのは、言葉選びの精度やテンポなど、人格以外の部分で判断されるので、実力がわかりやすい。友達の間では鉄板のネタだったのに、初対面の人に話したら、反応は無言。「こんなはずじゃなかった」とがっかりしたこともあるでしょう。
これは小説を書くときも当然生じます。

文章を書く基本中の基本の技術は、「見ず知らずの人に伝えること」です。これを実践してみると、かなり技術が必要だと実感しますので、やってみてください。
具体的にできる初歩の訓練として優良だと私が思っているのは、既存作品の梗概(あらすじのこと)を決められた文字数以内で書き、かつ、その作品の情報もまた規定字数で書いて、あまり自分を知らない他人(または忌憚ない意見を聞かせてくれる友人・家族)に読んでもらい、批評してもらうこと、です。
この考えは私自身が上記のとおりに迷走していた際、とある媒体で、有名作品の梗概と蘊蓄を書くという仕事(匿名で)を任された後、まるで泥から抜けたように小説もうまく書けるようになった経験からきています。

たとえば、①で取り上げた祖母の昔話について、あらすじを書いてみる。短いからって全部書いちゃダメですよ。
①で私が書いた祖母作の昔話はこうでした。

※追記。すみませんこれ祖母が作ったんでなく、関東地方に伝わる昔話だったようです。聞いたのが幼児の頃だったのでオリジナルだと勘違いしたんだと思いますすみません!

【昔々あるところに、おっとりした優しい気性のお婿さんがいました。ある日お婿さんはお茶を飲もうとしましたが、あまりに熱いので舌をやけどしてしまいました。そこでお婿さんは物知りの和尚さんのところへ出かけ、「どうしたら舌をやけどせずに熱いお茶を飲めますかねえ」と訊ねました。すると和尚さんは「たくあんを入れてみなさい」とおっしゃいました。さっそくうちに帰ったお婿さんは、淹れたてのお茶を湯呑みに注ぎ、たくあんをひときれ、ぽちゃんと入れてみました。するとひんやり冷たいたくあんのおかげでお茶の温度がちょうど良い塩梅に下がり、しかもちょこっとしょっぱくておいしい。お婿さんは大喜びでお寺へ戻り、和尚さんにお礼を言いました。その晩、お婿さんは上機嫌でお風呂に入りました。けれども「ひゃっ」と悲鳴を上げて飛び上がる羽目になったのです――お風呂の湯が熱くて熱くて、つま先が真っ赤になってしまいました。かわいそうなつま先にふうふう息を吹きかけていると、お婿さんははたと思いつきました。お婿さんは得意満面な顔で長い長い一本のたくあんを持ってくると、湯船にぼちゃんと投げ入れたのです。ぶくぶく沈むたくあん。つま先をそっと湯につけてみると、これがどうして良い塩梅。お婿さんはにこにこし、肩までゆったりお風呂につかると、長い長いたくあんをぼりぼり囓って食べました。おしまい】

ではこの話の梗概を、30字で書いてみましょう。本編が全部で572文字なので、だいたい1/20の分量ですね。結末までは書かなくて大丈夫ですが、言葉の使い方を摑むために「……」の使用は禁止です。

まずはじめにやることは、要点を見つけることです。
・気性の優しいお婿さんが主人公
・熱いお茶を飲もうとして舌をやけど
・和尚さんにたくあんを入れるとよいと教えてもらう
・すごく適温!
・その晩にお風呂に入ったらめっちゃ熱かった
・そうだ、たくあん入れよう!
・入れてみた、やっぱり適温だった!
・たくあんをぼりぼり囓っておわり
これがこの話の要点です。
でもこれだけで30字超えてますね。30字は、以下の?の数↓
【??????????????????????????????】
が30字です。えっ、短すぎない??
だいじょうぶ。
【熱い茶に辟易し男は和尚の提案で沢庵を使う。茶も風呂も良い塩梅】
はい、30字です。
え、ダメ?まあ短すぎますよね。風呂どこから来た??っていう。でもこのどこから来た??ってのは案外よい効果へ導いてくれたりもします。
え、どんな話なの、もうちょっと詳しく?みたいに。帯とかだったら「茶も風呂も良い塩梅」がでかい文字で書かれたりしますね、たぶん。

ここから会得できるのは「語彙を使う」技術です。「辟易」とか「提案」とか「塩梅」とかは、説明をうまくコンパクトにまとめてくれる言葉たちです。こういう言葉はたくさんあります。このへんは小説家よりも編集者さんの方が得意・仕事上必須としているテクニックかもしれません。
文字数が少ないということは、無駄な要素を削ぎ落とし、よりタイトで引き締まった語彙を使う、が必要になります。語彙辞典とか持ってる人はこういう時便利かもしれません……が、ぶっちゃけ、小説の執筆に語彙辞典はそこまで必要じゃないかもしれません。必要なのは必要だけど、あまり頼りすぎると使いこなせていない感がもろ出ます。言葉は人に馴染むものなので。
ですから、語彙を増やした場合は、日頃から言葉をコロコロ転がして使って体に慣らしていくことが重要です。

言葉をつねに頭の中でコロコロと転がしておく。実際に使う。これは結構大事な訓練です。言葉に敏感になること。たとえば料理を作るときにレシピを読んで、知らない言い回しを知るとか、会話からその人の言葉の癖を知るとか、ニュース、新聞、小説、おばあちゃんのしゃべり方、小さい子のしゃべり方とか。お菓子のパッケージの裏のシールに書いてあるものとか。

まあこの30字ってのはかなり厳しい条件過ぎる=梗概って言うかコピーじゃない?って感じなので、もう少し緩くしてみます。今度は100字。

【気の良い婿殿はある日熱い茶で舌をやけどしてしまい、物知り和尚さんからたくあんを入れるといいと聞く。試してみたらこれは絶妙に良い加減、喜んだ婿殿だったが、その晩、今度はお風呂の湯の熱さに辟易してしまう。】

はい、100字です。どーする婿殿??どーするどーする??という引きです。これもあれですね、文庫の裏とかにあるあらすじっぽいですね。いいんです、梗概なので。

100字あるとちょっと雰囲気が出せますね。「気の良い婿殿」とか「物知り和尚さん」とか、キャラクター性も書くことができます。この場合も30字と同じで、限られた文字数のなかでどのようにコンパクトで的確な言葉を選んで使うか、の技術が養えます。他の言い回しが思いつかない時は、類語辞典を引いたり、検索をかけたりしてみましょう。語彙はこうやって増やして、使えるようにしていきます。
また、内容をコンパクトな字数でまとめてみると、要点をどう絞るか、どんな言葉を使えば相手に内容を最小限で伝えられるか、の訓練にもなります。太刀筋の矯正というか、自分が気づかないうちにやってしまっている癖なんかも見えてきたり、あとこだわりを捨てることに慣れたりという効果もある気がします。

そしてこれ。実は対象が好きな小説であればあるほど、梗概を書くのが難しくなります。あれも伝えたいこれも伝えたい。あれを外しちゃいけないのに、文字数が足りないよ!という葛藤が、すごく効きます。自分の好悪はよそに置いておいて、相手に正確に伝える方を優先させる。
本当はもっと言いたいことがあるのに、これっぽっちしか言えないなんて!でももし相手に情報が正確に伝わってるなら、それは良い出来なのです。そしてこの葛藤と成果こそが「巧い小説を書く」ことに繋がります。

小説が、文章がダメになってる時、たいていの場合は「自分の書きたいことに執着しすぎて余分なものが増えすぎ、相手がぐったりしてしまって伝わらない」状態になっています。はい。私も反省します。

それを踏まえた上で、今度はこの昔話を、5000字で書いてみる。
今まで絞ってあらすじを抽出してきましたが、今度は増やします。ただの「優しい気性のお婿さん」に人格が生まれ、お茶はどんな風に熱かったのか、お婿さんは舌をやけどしたとき、湯呑みを落としたのか、それともあつっと顔をしかめただけだったのか、和尚さんはどこに住んでいて、お婿さんはその道すがらどんなことを考えていたのか、風景は、季節は、どんな状態だったのか――文字数を増やせるなら、そういったことが書けるようになります。つまり小説です。


2.言葉で表現する

そろそろお婿さんの昔話にも飽きてきたので、別の文章を使いましょうか。

http://www.kankanbou.com/honnohitosazi/vol11

以前、書肆侃侃房の配布誌「ほんのひとさじ」に寄稿した掌編「ハルモニア」を使ってみます。

ちょっと雰囲気を出すために画像で失礼しますよ。ちなみに出版社からnoteへの掲載許可は頂いておりますのでご心配なく……!

この掌編「ハルモニア」は〝香〟というテーマで書いたもので、文体に特徴があります。語尾と人称に注目。全部現在進行形となっていて、かつ、二人称です。誰かが「あなた」と呼びかける形をとっています。

「ハルモニア」は短い文章の中で、ひとりの人生を凝縮して書いています。なので文体がかなりソリッドです。そして香りという見えないものを文章で扱うため、読者の記憶に助けてもらわなくちゃなりません。
というか、文章表現はみんなそうなんですけど。読者の記憶や感覚に助けてもらう。読者の感性を揺り動かし、目を覚まさせ、こちらの意図を読み取ってもらう。それが文章表現です。一個一個全部説明するんじゃありません。

たとえば「洗濯石鹸の清潔な香り」。アリエールですかトップですかボールドですか。そういうことが問題じゃありませんだいたいこれ国を特定してないので洗濯石鹸のにおいなんて更に広がります無理です。さっきやったみたいに、限りある文字数の中では洗濯石鹸がどんなにおいなのかを詳細に刻銘に書くことはできませんし、だいたい無意味です。

なので、読者の記憶に助けてもらうんです。

ここでたとえば「洗濯石鹸のにおいは絶対にアリエールでなければならない」というこだわりがあったとします。それにはちゃんと理由がありますか?アリエールであることがミステリ的、謎の解決、伏線の回収として重要で、どうしてもアリエールだとわかってもらわねばならぬのだ、商品名を出さずに、となった場合は、アリエールの特徴をがんばって書きましょう。鼻にこう、ふんっとなるにおいとか、くんっとなるにおいとか……うーん。

もしアリエールである必要が物語上ないのであれば、アリエールへの想いは捨てます。ばっさり切り捨てます。さよならアリエール。

読者が「ああ、知ってるにおいだな」と思い出してくれればそれでじゅうぶん。

↑の掌編「ハルモニア」は、かなりかっこつけて書いてます。ええかっこしいモードで書いてます。なので今の私が読むと「か、かっこつけやがって……こことか固いだろ言い回しが……」と恥ずかしくなります。でもこの掌編にはこの文体がふさわしいと思っています。
文体はそうやって、物語の雰囲気のために変化させるものです。
この文体でおもしろおかしいコメディを書いたら変ですね。いやそれはそれでスパイスにはなるかもしれないけど全編は無理です。やれる人は笑いの才能があるのでがんばってください。

さて、もう一度ご登場。

この掌編のなかで自分の〝色〟が出ている特徴的な言い回しだな、と思うものがいくつかあります。

一段落目・「太陽にもにおいがあることを知って、顔を埋めたくなる。」
二段落目・「偽物の果実の香りが入り交じり充満する。その柔らかく薄い膜にあなたは前歯を立て、おもちゃのような葡萄の香気が弾け、風に乗り散っていく。」
三段落目・「あなたの指先には料理のにおいがしみついている。ハーブ類、にんにく、バター。時と共に染みこんでいく香りに、自身の体臭が混ざったもの。」
四段落目・「傘のないあなたは、濡れた砂利と蒸れた服のにおいを振り払うように走って」
五段落目・「だがいくら愛する人にそれを伝えたくとも、言葉も写真も役に立たず、うまくいかない。香りはあなたの鼻腔と記憶の中だけにある。」

などなどです。こういうのは、読者の記憶に任せて「石鹸のにおいでーす」と済ませてしまえるものではありません。

ぬーーーーーーーーーーーーーっと頭をひねってひねってひねってやっとこさ現れた表現です。「文字を紡ぐ」って言い回しをこういう時に感じたりします。
言いたいことがある。でも言葉では普通は言われていないことを、考えて書いてみる。
ガムのにおいって、どんなかんじ?子どもが食べるガムは、なんかこうおもちゃみたいなにおいがするよね……とか、料理を作った直後の手のにおいがやたらと好きなのでそういうことを書きたいとか、雨ってなんというか蒸れたにおいがするの嫌だなーって思うんだけど案外自分も汗ばんでるとあれだし、それに温室の出会いとの対比がほしいよねーとか、です。

そして何より、香りの共有は、その場にいてくれないとできない。お香や香水を渡したりはできますけども、思い出のにおいは誰とも共有できない。
そういう気持ちを書いてみたら、五段落目以降の展開になりました。

①の最初の方に書いた、心を耕しておく効能は、こういうときにも発揮できます。つまり描写。白いものをただ「白い」と言ってしまうのではなく、「好き」をただ「好き」と言ってしまうのではなく。
こうしてみると文章書きというのはたいがいロマンチストですね。遠回しに、だけど伝わるように、ぎりぎりの角度でボールをストライクに投げる。

ちょっと長くなってきたので、②はこのあたりで。
③は明日書けたら書きたいけど無理だったら待ってて下さい……まだまだ文章の話が続きます。















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