どうあっても、

「なあ、あんた、そこのあんた」

バス停の前を通りがかったとき、私は明日の朝になんのパンを食べるか考えるのに夢中で、呼び止める男の声に気づかなかった。
ケシの実がかかったパンは私の大好物だが、妻はそれが嫌いで、今日は出がけに言われてしまったのだ、パンはうちの町のいつものあそこで買ってくれるでしょうね?と。ケシの実パンはこの町には売っておらず、隣町へ出なければ買えないのだ。今日はバスでないと隣町へ出られないと知っていて、妻は買い物に出る私にそう言った。
他人から聞けばつまらない瑣末な話に聞こえるだろうが、我が家にとっては頭痛の種であり続ける問題だ。

「おいそこのあんただよ!頼むよ、こっちに来てくれ!」

2回目に呼び止められて、私はやっと振り返った。そこには頭のつるりと禿げた、小太りの男がいて、大汗をかきながらこちらに向かって手招きをしている。

「やっと気づいたか!やれやれ、頼むからこっちに来てくれないか」

私は肩をすくめ、そのまま立ち去ろうとした。見ず知らずの男の要望を素直に聞くほどお人好しではない。
すると男は顔を茹でたハムのようにのぼせさせて、駄々をこねる子供のように地団駄を踏んだ。

「来いってんだ、ちきしょうめ!こっちは本気で困ってるんだ!貴様には人の心がないのか!」

道の向こう側で、背中の曲がった老婆が何事かとこちらを睨みつけている。やれやれ、しかたがあるまい。
私が重い足で中年男の前へ行くと、汗臭い匂いが鼻を刺激した。それと、もっと異質な匂い。バス停の裏手は小さな樹木帯になっており、木々や雑草が繁っている。まさかここをトイレがわりにしたのだろうか、この男は。

すると私のしかめつらの理由を察したようで、男は慌てて首と両手を振った。

「あんたが何を考えているかはわかるさ。だが信じてくれ、誓って俺じゃない。いや、見てもらう方が早いな」

そう言って男は一歩脇に避け、私の前の視界を開けた。
街路の樹木帯、木々の間に、ぶらんと二本の脚がぶら下がっている。どこにでも売ってそうなベージュのチノパンに汚れた革靴。
私は胃のあたりに蛇のような冷たいものがとぐろを巻くのを感じながら、唾を飲み込み、視線を革靴から上へとずらしていく。

そこに遺体はあった。男が首を吊っているのだ。暑いほどの日差し、木漏れ日の網目の中に排泄物がかすかに落ちて、異臭をはなっている。

私は込み上げてくるものに慌てて口を手で塞ごうとしたが、間に合わずにそのまま路肩に吐いた。禿げ男が私の背中をさすったので、苛立ちをぶつけるように振りほどく。

「こんなものを見せるために私に声をかけたんですか?通行人より警察を呼ぶべきでは?」

「わかってる、わかってるさ。しかしな、私も気が動転してるんだ。何しろ……何しろ……」

男はそこで言葉を切ったかと思うと、その場にへなへなと膝をついた。

「今しがた、首を吊ったばかりなんだ。この男は」
「なんですって?」
「今、俺の目の前で、首を吊ったのさ。こいつは」

私はようやく男への同情心が芽生えるのを感じ、ハンカチをポケットから出して男に差し出した。

「……お知り合いかどなたか存じませんが、それはお気の毒に」

男は生ぬるいような脂汗の浮いた笑みを浮かべ、私のハンカチを断った。

「違うんだ。知り合いでもなんでもない。今、ほんの10分も前に、話しかけられただけの相手さ」
「え?」
「通りすがりだよ。さっき俺があんたを呼び止めたみたいに、俺もこいつに呼び止められたのさ」

熱風が静かに吹き、ざわざわと梢を揺する。首を吊った男のつま先が振り子のようにゆらりゆらりと揺れる。

「バス停に立ってたんだ。こいつは。時刻表を食い入るように見ていたよ。丸いメガネをずらしたりして、まるで何か間違いを探したがってるかのようにな。
俺は変なやつだと薄気味悪さを感じながら、こいつのすぐ後ろを通り過ぎようとした。そしたら呼び止めたんだ。舌打ちしたよ、なんでよりによって今日、ここを通らなきゃならなかったかって。さっさと横断歩道を渡って、向こうの道へ行きゃよかったんだ。俺の用があるのは、反対方向へ向かうバス停だからな」

男はそこまで一気に話すと、ふうと大きなため息をついて、自分の手の甲で何度も頭頂部の地肌を拭った。

「それで、何の用だったんです?」
「……何がだね?」
「男の用ですよ。何のためにあなたに声をかけたんです?」
「ああ……」

男はゆっくり後ろを向き、首吊り男のつま先が風に揺れているあたりをぼんやり見つめながら、こう言った。

「〝街へ行くにはバスでないとダメなんですか〟やつはそう言ったよ」
「……それで?」
「俺は〝そうだ〟と答えたよ。〝ほかに方法はない〟ってね」

そして男は、首吊り男がどうしようもなく汗をかき、ひどく焦り、困った様子だったと話した。

「まるで裁判で宣告を受けたみたいにね、本当にバスしかありませんか、他に方法はないんですか、と泣きそうな声で訴えるんだ。俺に何が言える?街は隣町よりもずっと先だ。歩いていける距離じゃない。バスを待つしか方法はないね、と答えたよ。真実をね」

男はシャツの胸ポケットからタバコとライターを出すと、一本咥えて火をつけようとした。だが指先が震えているようでうまくつかず、私代わりにつけてやる。

「それでどうなった んです。やつはなぜ首を吊ってしまったのですか?」

男はタバコをゆっくりくゆらせ、丸い鼻の穴から紫煙をゆっくり吐くと、「さあな」と呟いた。

「〝バスしかない、本当にバスしかないのか〟ぶつぶつ気味悪く言いながら、そいつはその場をぐるぐる歩き回り、ベルトを外しはじめた。そしてそこの木の中に入ると、俺に〝ちょっと、そこの台を取ってくれませんか〟と頼んできた。タバコの灰皿代わりのブリキ缶だよ。バスを待つやつが使う、蓋つきの……俺はやつがタバコでも吸うんだと思い込んで、そばまで持って行ってやった。そうしたら、突然」

吸い殻入れの缶は確かに首吊り男のつま先の下に転がり、ヤニくさい水は雑草の生い茂る土に染み込んでいた。
しかし信じられない。

「バスしかないって、それで悲嘆して首を?まさか」
「信じちゃくれんだろうが、本当にそうなんだ。俺に何ができた?俺は真実しか言ってないぞ」

男は私に話しているうちに、動揺から怒りへと感情が変化していったらしい。

「俺のせいじゃない!街へ出る方法がバスしかないのがいけないんだよ!どうあっても、現実はこうなんだ。だが警察に何と言う?」

地べたに座り込んだまま、男は両腕を振り回して私に訴える。日はますます高く登り、暑さが増していく。異臭を嗅ぎつけてきた蝿が私の耳の横をぶうんとかすめ、私がその発生源でないと悟り、いなくなる。

「バスしか方法がないくらいで死ぬやつは、どうせすぐ死ぬさ。どうあっても、」

男は自分に言い聞かせるようにひとりごちる。

「なぜか、なんて考えたって無駄だ。やつはどうせ死んださ。俺は何もしてない。俺はやつに乞われたことに正直に答えたし、要求されるまま缶を渡しただけだ。何も間違っちゃいない。どうあっても、やつは死んだ。バスしかないことで死ぬくらいじゃ、生きづらい世の中だろうな」

私は腕時計を見る。そろそろ行かねばならない。妻が釘を刺したのなら、私は隣町へいかねばならないのだ。妻がなんと言おうと私はケシの実パンを買いに行く。
道の向こうからバスが来る。定刻よりも数分遅れで。バスは遠目でもわかるほど、ぎっしり乗客を詰め込んで満員だった。

「おやじさん、私はそろそろ行きますよ。パンを買いに行かねばならんので」

男はぼうっと私を見る。

「警察を呼んで、ここから離れればいい。私以外、誰も知らないんですから。おやじさんが、本当に真実だけを話したわけじゃないというのを」

「……なんだって?」

私は、男が受け取りを拒否したハンカチを、男の膝下に向かって投げてやる。

「首吊り男がなんでバスしか方法がないことに悲嘆したのかは、私は知りませんよ。でも、街へ行く方法は明日になれば増えます。今日は列車が運休で、お陰で私も隣町までバスで行かなきゃならない」

バスがゆっくりとスピードを緩め、息を深く吐きながら停留所の前で止まる。

「どうあっても、そいつは首をくくったかもしれませんね。でも、明日まで待てば列車が動くと、教えてやってもよかったんじゃないですか。どうあっても、なんかじゃなかったかもしれませんよ」

私は男を置いてバスに乗り、すぐに発車する。タラップより先に進むのがしんどいほどバスは満員で、息苦しい。
なぜこんなものに今乗るのか、馬鹿馬鹿しいと思っているうちに、バスはぎゅう詰めの私達を乗せてどんどん走り、隣町でケシの実パンを選んでいる頃には、男と、風に今も揺れているだろう首吊り男のことは、すっかり忘れてしまった。









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