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【学歴はFラン大卒。追加で一年制の専門学校編】辛い幼少期、感情なしぼっちFラン大学時代、1年間専門学校に入学。そして地獄の零細企業社会人へ(6)【ノンフィクションドキュメンタリー】

○前書き
起業を機にいままでの自分の人生を振り返ってみようと思って、経験してきた伝記的なものを作ろうと思いました。起業に至るまでの五年間奮闘した完全な自己満足のノンフィクションドキュメンタリーです。無職からの這い上がりの過程を誰かの希望になれば。

Fラン大学の卒業式当日。入学式同様、都市で成人式をやる大きいホールを貸し切っての卒業式でした。

僕はなんとかきつい実験の再履修をぎりぎりで通し、卒論という名の映像ソフト取り扱い説明書みたいな文章を提出してなんとか卒業資格を得られました。(教授はもう見慣れたのか、僕のような人間の卒論でも通してくれました。)

入学式の無気力な状況と違い、きつい経験を乗り越えての達成感があったので、卒業式は無事に迎えられてよかったといううれしさがありました。

そして入学式の途中、資料か何かしらの情報から得たのですが、同学年の学科で、ストレートに留年せずに卒業式を迎えられたのが、120人中50数人という衝撃的なデータを知らされました。

半分以上が留年、もしくは退学したというデータです。しかもその50数人の中に留年した先輩達の数も含まれているかもしれないとすると、同学年の卒業生はもっと少ないかもしれません。

卒業式を終えた後学校に戻り、入学式同様最後の懇親会が行われたのですが、入学式とは違いやはり学生の数は少ないように思えました。教授曰く、それでも120人分の食事を用意しないといけないらしく、ビュッフェスタイルの食事は無残にも半分以上残されていました。

これがFラン大学の理系の卒業式です。
懇親会では研究室で仲良くなった研究生たちと飲みながら楽しみました。

ぼっち時代にやんちゃをしてそうだなと偏見をもっていた学生達も、引っ込み思案な僕にやさしく接してくれていたり、クリスマスにふざけた名前のネームプレートを飾ったケーキをみんなで食べたり。人間関係は本当に良かったと思います。

同じ研究室の仲間達は、無事に就職先を見つけられた人、あえて就職留年を選んだ人、さまざまな境遇の仲間達がいましたが、その日を境にお別れをしました。

そして仲間達の中にはいまでも付き合いがある、友人Eと友人Fがいます。
二人の友人の話は無職時代に再度関わりを持つことになります。

卒業式を終えてまもなくして、次は映像系の専門学校に入学します。
高校生が入る専門学校はたくさんありますが、僕が入学した専門学校は社会人の比率が多く、大学卒業したてで22歳だった僕は逆にクラスで最年少に近かったです。

そのせいもあって、専門学校時代は同期の学生であっても、わりと後輩のように可愛がってくれていたと思います。

1年制は2クラス、そして2年制があり、2年制で2年次の学生達との交流もありました。2年制の学生を含めると、下は20歳、上は40代前半ぐらいの方もいて、本当に年齢が幅広かったです。

僕はぼっちを回避するべく、クラスメイト達に積極的に話しかけました。環境が変わると行動に移せます。

その結果、2クラスの学生達と分け隔てなく仲良くなる事ができました。専門学校時代はFラン大時代とはちがい、ぼっち回避成功です。

いろんな人たちと仲良くなった結果、いろんな境遇の人たちがいる事がわかりました。

*前の専門学校を中退して、ここの専門学校に入学した人
*前の専門学校がカリキュラム、学生の質ともにダメで、再度ここの専門学校に入学をし直した人
*他業種の仕事をしていたが、映像の仕事に転職をするために入学した人
*フリーランスとして働いているが、仕事の幅を広げるために入学した人
*僕のように大学卒業後、映像系に就職するために入学した人

ざっとこんな感じの経緯をもった人たちが同じコースに入学した人たちでした。

そして一年制という短いスパンで勉強、就職のための人脈を築かなければいけません。

僕を含め、入学式から卒業式まで終始学校に引きこもり、勉強や作品制作に打ち込む人が多かったです。

熱意があり学生の質を求めるなら、あえて時間の制限がある一年制で社会人が多い学校を選ぶのもいいかもしれません。

ず〜っと学校にいき、朝から晩まで学校で引きこもる生活を続けていたので、特別専門学校時代について書くことはないですね...。本当にずっと引きこもってずっとパソコンの前でカチカチしてただけなので。

そしてわかった事が、授業のペースに依存し続けると、まったりしすぎて作品の提出期限に間に合わなかったり、微妙な作品を作品発表会で映すことになったりと、自発的に勉強をしていた学生達との差がえげつない程になること。

僕のクラスではほぼいなかったのですが、2年制のクラスだったり、他の週末だけ授業をやるクラスなど、作品が間に合わなかった学生がちらほら出ていました。(日中は仕事をしている人もいたと思うので、時間が取れなかった人は仕方ないと思いますが)

よくネットで専門学校について、ひたすらネガティブキャンペーンをしている人たちがいますが、おそらく授業のペースに合わせた結果、理想の結果を得られずに学校を叩くのだと思います。

ほかの専門学校にいっていた人の話を聞きましたが、授業はパソコンを使った事がない生徒にも合わせてスタートをするため、パソコンの付け方から教えるそうです。(しかも毎回授業のはじめに教えていたそう)

そういった場合、二年間あったとしても授業に合わせていたら、よほど才能がない限り理想の就職はできないと思います。

僕が通っていた専門学校も、当時流行りつつあったFacebookのアカウントを作るところから授業がスタートしたり、知識よりわかりやすさを重視するあまり、他クラスの先生とのギャップで担任の先生に対して愚痴をいったりしてきましたが、結果的に授業はあくまで基礎。応用は自分達で学ぶので授業はあまり期待しないという結論に至りました。

思えばこの時ぐらいに、他責思考から自責思考の考えに移り変わっていったかもしれません。ただ自責思考は諸刃の剣。自責思考が強くなった結果、社会人編で病んでいくのですが、またその時お話しします。

卒業作品発表会。無残な結果だと思うが、後に有名企業からオファーが来る。しかしチャンスをドブに捨て、零細企業へ。

卒業作品の制作時、その頃にはより専門性の高い知識を得るために、僕も含むクラスメイト達はそれぞれ学びたい専門分野のクラスに配属することになりました。

僕もある専門クラスに無事に入り、その分野にそっての卒業作品を作り始めました。

僕はほぼ一年中毎日、朝から晩まで学校に通って、課題から中間作品、卒業作品と制作していたのですが、作品のすごく細かい誰も見ない部分までこだわる癖があったので、作品の進捗状況がアルバイトを同時でしているような忙しい学生にも段々抜かれていきます。

同クラス内で進捗の発表をするとき、クラスを担当していた先生に心配されてしまいます。

「大丈夫?期限に間に合いそう?」

僕は一生懸命がんばってきたつもりなのに、気がついたら誰よりも進捗が遅れていました。それが結構ショックで、僕は先生に自信のない声で「がんばります」と一言だけいいその場がおわりました。

思えば、納期が間に合わない、こだわりが強すぎる兆候は、自閉スペクトラム。いわゆる発達障害のアスペルガー症候群によるものでした。

この時は全く自覚はなく、とりあえず学校に泊まり込みで制作に打ち込もう。家に帰る時間がもったいない。ぐらいにしか思っていませんでした。

そこから僕は必死に絵コンテに書いた、なくてもストーリーが伝わる部分をガンガン削り、こだわりも無視して自分は納得いかないけれどとりあえず形にするためにがんばりました。

学校に一週間泊まり込み、なんとか完成しました。(不潔ですが、業界がブラック労働を美徳にする風潮があったので、クラスメイトも泊まり込みをしていました。)

こうして、卒業発表は難なく終わり、先生や同じクラスメイトたちに間に合ったことを褒めてくれました。

卒業作品発表後に、作品優秀者は直接企業からオファーをもらえる発表の場を設けられるのですが、一人辞退したので僕は補欠で選ばれました。

僕は補欠であっても、直接企業と繋がれる発表会に呼んでもらったことをよろこび、卒業作品発表に続きその発表会に準備をすることになります。しかし、結果は無残に終わり、そして最大級のチャンスを自ら棒に振ることに。

長くなったので続きはまた次回詳細を書きます。





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