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【無職奮闘編】1年間引きこもり、同人ゲームを制作する。(後編)孤独な戦い。

○前書き
起業を機にいままでの自分の人生を振り返ってみようと思って、経験してきた伝記的なものを作ろうと思いました。起業に至るまでの五年間奮闘した完全な自己満足のノンフィクションドキュメンタリーです。無職からの這い上がりの過程を誰かの希望になれば。

前回の2016年前半からの続きです。

友人に現状の努力を伝えるも答えは「いつ就職するの?」

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僕が現状無職であることを知っている友人が何人かいました。どうして無職であることを言えたのかは、その場の勢いです。

僕は僕の現状を知っている友人の一人と無職になってから頻繁に遊ぶようになっていきました。友人Eとします。

友人Eは週休1日でかつ休みの日が決まってなかったので、無職の僕を重宝してくれました。友人Eとは無職スタート時からよく一緒に遊びに行きました。

そんな友人Eは僕のことを心配してくれていたのかわかりませんが、遊んでいる時にたまに将来についてさらっと聞いてくることがありました。

僕はそう聞かれた時に、「今、3DCGのゲームを作っている」と言いました。正直、就職するのが当たり前のこの時代に将来のことを聞かれて、ゲームを作ると答えたら僕でも非現実的すぎると思います。ただ友人Eは肯定してくれる事が多く、今回も肯定してくれると少し期待をしていました。

しかし僕の期待と裏腹に友人Eは、ふーんと話を聞いてくれましたが、僕が熱弁をした後に僕に一言「それで、就活はどうするの?いつ就職するの?」と言いました。

真っ当な人間としては当たり前の反応です。しかし僕は真剣にそのゲーム制作に人生を掛けていました。

僕はその言葉に心の奥底から深い孤独を感じました。友人の何気ない言葉に一瞬挫けそうになります。

でも僕は背水の陣の無職。まだ社会に戻ることに抵抗感がありました。自分を信じていなくても、進むしかなかったのです。

母親から若者就職サポートセンターに入れと提案され受け入れる。それは制作時間を稼ぐため。しかし半年でバックれる。

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2016年春ごろ(正確な時期は覚えていませんが)一向に就活を始めない僕に対して、母親は若者就職サポートセンターに相談に行くことを勧めてきました。

僕はまだゲームの製作を開始したばかり、正直まだ就活をはじめる気にはなりませんでした。しかし、母親の気をそらす事が出来るなら、という事で僕は就活を始める気もないのに相談にいきました。

相談をしてくれた担当の方は、自分の意思で相談に来たか、または誰かに言われて相談に来たかと質問をしてきました。その質問の意図は、就活のモチベーションを測るためです。

僕は母親に言われてきた事を伝えると、担当の方は少し渋い顔をしました。おそらく、自分から相談をしに来ない限り、途中で挫折をする人間が多いんだと思います。

相談の方に一度相談の開始を止められましたが、僕の目的は別のところにあったので受けることにします。クズです。

親身に僕の話を聞いてくれたカウンセラーさん。僕が一向に就活の意向を話さなくてもただただ僕と雑談をして、やる気を引き出そうとしてくれました。

僕は尿管結石を母親から受け継いでいて、相談日にもがき苦しみましたが、母親に強いられて行ったこともありました。(どうでもいいですが、両親の負の遺伝子はほぼ全て僕が引き継いでいて、父親に哀れまれた事もあります。歯並びの悪さ、尿管結石、地頭の悪さ、運動神経...極め付けは発達障害系でしょうか。書いたら切りがないのでこのへんで)

尿管結石の痛さであんまり頭が回りませんでしたが、そんな僕に対しても明るく対応していただきました。

そしてカウンセリング開始から数ヶ月後。母親は一向に進展がない僕に対して怪しみ始めます。カウンセリング中という免罪符がもう使えなくなり始めた時です。

制作もこの免罪符のおかげで順調に進んでいました。そして半年たったある時、僕の中にいる悪魔が相談日当日に、もう行かなくてもいいと囁きます。

サポートセンターからの電話が立て続けに鳴った後、連絡がなくなりました。そうして僕はカウンセラーさんを裏切りバックれてしまったのです。本当に親身に相談に乗っていただいたのに申し訳ございません...。

祖父の病院生活のお見舞いは僕の説教の場。情けない逃亡。

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僕が無職になった頃と同じ頃、祖父は介護施設に入ることになりました。僕は無職だったのでよく祖父の着替えを施設に持って行っていました。無職なので雑用に拒否権はありません。

お世話になった祖父に対しての雑用を拒絶するのはだめだと思ったのですが、流石に一年以上続けるのは大変でした。

そんな雑用が嫌になりつつあった頃、祖父もどんどん元気がなくなり、物忘れが酷くなってきたのもあり、家族全員でお見舞いをする機会が多くなっていきます。(家族で行くので雑用はなくなる)

しかし、毎週祖父の前に集まり家族で話し合いをすると、次第に話すネタがなくなってきます。

祖父も寡黙な人で話すタイプではなく聞き専、そして兄弟達は自分の仕事について話す事が多くなってきました。

僕はもともと家族と話すタイプではなかったので、僕も聞く専門。そして僕に対して話題がふられる事を毎回ビクビクしながら聞いていました。

そして、僕に話を振られる時は弟の仕事の内容から派生する時です。その時弟は少しニヤけた顔で僕に説教をはじめます。

祖父のお見舞いの日は、祖父に顔を合わせたいと思う半分、弟に怒られながら説教をされ、両親はその話に強く共感し説教に加わります。祖父の前で、もともとない自尊心を削られる時間は苦痛でしかありませんでした。

そして、病院に移送された後日のお見舞いに行ったある日、いつもの流れで弟の説教を聞き、とうとう我慢ができなくなってしまいます。

流石に病院で弟の胸ぐらを掴み、殴り合いの喧嘩をしたら情けなさを通り越して人として害悪な人間です。そして僕は弟に殴りかかる度胸はありませんでした。

僕は静かにトイレに行くと伝えると、そのまま病院から逃げ出しました。家族のお見舞いは車で移動していてそこそこ遠い距離だったのですが、僕はもう一緒にいたくなかったので構いません。

当然長距離を歩くことになったのですが、休日だったのもあり、ふと友達に車を出して欲しいと伝えたら、ちょうど暇だった友人は付き合ってくれて、そのまま大きい動物園に行きました。

友人には事の経緯を話していません。ですが、その時車を出してくれて動物園に連れてってくれたことは気分転換になったし、とても感謝しています。

結局祖父には最期まで心配を掛けさせてしまいました。
もう記憶が朧げな状態でも、無職である僕の現状を心配してくれていたようです。

それは祖母を亡くした時も同じでした。引っ込み思案で暗く消極的な僕は社会でやっていけるのか。他の兄弟に比べて祖父母に心配をされていました。

祖父が亡くなって3年余り。僕は他の兄弟達を大きく超えて、現状を打破する事ができました。その事を生きている間に伝えられなかったのが心残りです。

諦めてハローワークで就活を始めるも、仕事の可能性が浮上する。気がつくと人生の分かれ道に差し掛かっていた。

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僕は初詣で神社に行った際、神様に向かって手を合わせます。
日本人なら大半が同じことをしているはずです。

しかし、本気で宗教心があるわけではありませんし、神様を信じていません。僕は神社では"お願い"ではなく、神様の前で目標の"宣言"をします。お願いでは目標を達成できないからです。

この話をしたのは僕が神様や運命などを基本信じていないからです。
しかし、この時ばかりは何かスピリチュアルや守護霊的なものを感じました。

僕はある時ハローワークに行き、パソコンの前で求人を探し、ネットで楽だとデマが広がっていたビルメンテナンスの仕事に応募をしました。

父親から本気で就活をしろと怒られていたからです。普段からピリピリとした空気を出していましたが、その頃から言葉に出して怒られるようになっていました。

僕は半年間ほど頑張っていた3DCG同人制作を諦めて、"親の怒りを抑えるため"に就活をスタートしようとしました。正直こんなにピリピリしている場所から開放されるなら、どんな微妙な職場でもいいから就職しようと思ったからです。

ハロワの面接相談の問い合わせをした際、学歴など全く聞かれずに年齢だけ聞かれて面接まで進めました。今考えると離職率が高い微妙な職場な可能性が高かったと思います。

しかし僕はもう就職をしているというステータスだけが欲しかったのです。誰にも理解されない孤独な戦いから抜け出したかったのです。なり振り構わず微妙な職場でもいいという勢いでした。

ただ、面接日が決まった時、僕に突然仕事の可能性を示唆するメッセージが届きました。実は前に映像系の派遣会社に作品集だけ登録していたのが理由でした。

僕は悩みます。面接日は二週間後、そして派遣会社は作品の要素を追加して欲しいとお願いしてきました。作品の要素の追加は二週間では足りません。

僕は結果的にビルメンテナンスの面接を電話で断りました。
父親に派遣会社の事を話すと煮え切らない返事をしていました。

そして二週間経ち派遣会社に追加要素提出後、僕なりに精一杯頑張ったつもりですが、派遣会社から結局仕事はもらえずに終わります。

しかし、仕事が来なかった悔しさよりも、ふと我に返ったような気がしました。

というのも、振り返ってみると僕はあまりに自暴自棄になりすぎていました。その結果、年齢さえ若ければ入れる職場に応募し、あわよくば入社していたでしょう。安易に楽な道に逃げようとしていたのです。

別の仕事が入りそうになり、ビルメン面接を電話で断った際、僕は何か見えない力で「その道に進むべきではない」と遮られたような感覚がしました。

僕は運命を信じていませんが、この時僕は漠然と最期まで僕を心配してくれた、亡くなった祖父母の事を思い出していました。

2016年末、最初の3DCG作品「夏姉」を完成させる。

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こうして僕は味方が誰もいない、孤独な戦いをやり遂げました。
2016年12月某日。僕はDLsiteに一人で完成させた夏姉を登録します。

サークル名は「スタジオレイン」
スタジオレインの初作品です。

今後スタジオレインは、もがきながらも地位を確立していきます。

次回は2017年前期について。


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