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【無職奮闘編】会社をクビになり無職生活スタート。人が怖く、病んだ精神は誰にも理解されない。

○前書き
起業を機にいままでの自分の人生を振り返ってみようと思って、経験してきた伝記的なものを作ろうと思いました。起業に至るまでの五年間奮闘した完全な自己満足のノンフィクションドキュメンタリーです。無職からの這い上がりの過程を誰かの希望になれば。

2015年三月ごろ。僕は会社をクビになりました。
僕は会社での立ち回り、仕事、対人関係がうまくいかず。特に仕事に関しては人に迷惑を掛け続けた上での退職勧告でした。極めつけは発達障害の診断。

職場など、社会に対して大きいトラウマを抱えていました。もう職場で働いて人に迷惑を掛けたくはないと考える一方、労働の義務は絶対です。この頃僕はいつも社会と無能な自分に対して絶望をしていました。

そして、メンタルを休ませる事と現実逃避をするため、一人旅をしました。場所は鳥取砂丘と境港。鳥取砂丘はずっと行きたかったし、鳥取は当時Huluではまっていた「ゲゲゲの女房」のドラマに感動し、聖地巡礼をしたかったからです。(当時乗ったサンライズ出雲)

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旅行を普通に行けているのもあってか、僕が健康であること信じて疑わなかった母はすぐに就活をしろと圧をかけてきます。空白期間を作らないためにあたりまえだと思いますが、当時は理解されずきつかったです。

いつも表情が暗かったので、精神的に辛いと言っても家族から理解はされない。母親や弟からはむしろ、根性がないと説教されていました。

家族との食事がつらい

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家族と食事が辛かったらとっとと一人暮らしをしろと思われるかもしれませんが、無職にそんな甲斐性はありません。

もともと僕は家族との会話が少なかったので、よりメンタルを病んだ僕は家族間の空気を悪くしました。

弟から下に見られているのもあって、無職になりさらに下に見られる。食事がつらい期間は家にお金を入れるぐらいまで、個人事業主になるまで続きました。二年間ぐらい。

無職一年目の時の父親はわりと気を使ってくれました。しかし、僕はもう反応する気力がなかったので、父親の気遣いは空振り、次第に職場の時と同じようにギスギスしていきました。無職二年目の頃になると父の圧が強くなります。当然ですが。

ひたすらメンタルの回復に努める

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近所の公園にウォーキングをして、ひたすら精神の回復を図りました。自然の中を歩くとメンタルを回復するので、気分が落ち込んだ時は自然の中をウォーキングするのがおすすめです。

しかし、僕はしばらく向かいから歩いて来る人が怖かったです。それは無邪気な子供だったとしても。それは毎日上司達から怒られて過ごしていたのが原因だと思います。人がただ怖かったです。

ただ、元上司の上司Cさんは僕が辞める直前にこの事を話すと、「対人恐怖ではない。もっと酷い人は沢山いる。君は全く問題がない」と一蹴。

僕自身を慰めて欲しいとは思いませんでしたが、"甘え"と受け止める人が多く、当時理解者がいないのは結構きつかったなと思います(いまは完治しています)。

慰めは別に求めていません。ただこの手の話は否定から入る人が本当に多いです。なんでみんなそんなに根性論、精神論が好きなのかは不思議でたまりません。

僕はそういう相談をされた時、自分の経験を踏まえ、甘えか努力の成れの果てかを見極める前にとりあえず肯定から入るようにしています。

近所のおばさんたちが自分に聞こえるように、噂をするようになる

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平日の昼間から散歩を繰り返していくと、当然近所の人たちから不審に思われます。僕の実家の近所の世帯は子育てが終わった世代が多く、暇を持て余しているようでした。

田舎というほどではないのに、老人比率が多いのかちょっとしたピリピリ感があるところに住んでいます。

そんな中、僕が窓を開けているところを見て、僕に聞こえるように明らかに僕に対しての陰口を言い始めました。内容は、無職じゃないかとか引きこもりとか。正直内容は明確に覚えていませんが、僕に対する誹謗だった事はたしかです。

自分の人生が充実していないと、人の人生に茶々を入れたくなるんじゃないかと思います。芸能人のゴシップが好きな人はそんな感じでしょうか。

今は心の中で、あんたらの年金以上の税金を毎年払ってる。と心の中でマウント取ってたらどうでもよくなりました。

もしかしたら今も僕は無職時代とそんなに変わらない生活をしているので、いまだにおばさん達は僕が無職引きこもりだと思っているのかもしれません。

失業保険をもらうためにハロワに通う

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離職したらハローワークに色々と手続きをしなければいけません。五年前のことなので詳細は忘れましたが...。色々と書類手続きがあったと思います。

そんな中、元いた会社が離職届を出してくれてないことが判明。その後連絡し離職届を出してもらいましたが、自分も保険証の返還が必要な事を知らなかったので元居た会社に怒られました。

そして無事に失業保険をうけとる。その失業保険は今後の重要な事業の資金源になっていきます。

一応就活をした上での受給でしたが、いまは当時もらっていた失業保険の何倍もの税金を毎年収めているので許してほしいです。

無職一年目は色々職業の選択肢を悩んでいました。職業訓練校の説明会にもいきました。そしてCADの授業が気になります。

その事を両親に相談すると、CADオペレーションはゆくゆく無くなっていく仕事。一級建築士にでもならない限りは、どんどん給料が安くなっていくと止められました。

それに対して反発をしたりしましたが、結局職業訓練校には入学せずに断念。その後迷走して、職人に弟子入りすることも考えていると言うと、それなら大学と専門学校に行かせた意味がないとだいぶ怒られました。ド正論で返す言葉もなく諦めます。

発達障害者向けの適性を測る職業案内所に相談しに行く

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最初は近所の相談所。次に大きめの相談所にいきました。

最初の近所の相談所は、「人とあまり関わらない仕事を紹介して欲しい」と熱弁気味に伝えたら、速攻で「ここは相談所であって職業斡旋所じゃない。他を当たって欲しい」と言われ帰されました。結構相手方は怒ってたと思います。正直斡旋所と相談所の違いがわかっていませんでした。

次は大きめの相談所に行きました。そこの施設の方にはだいぶ親身に話を聞いてくれました。その相談所は職場の斡旋までしてくれて、それに伴って発達障害者でも出来そうな適正を探してくれる施設でもありました。

僕はここにお世話になろうと思いました。ただ仕事は発達障害者でもできるものになると、誰でも出来そうな単純作業に絞られます。お世話になろうと決めていてもなんだか踏ん切りがつきませんでした。今までの積み重ねを破棄するようなものなので。

僕は父親にまた相談をしましたが、父親はやはり僕を止めます。
僕はなぜか安心しました。

作業所で働いている方々には申し訳ないのですが、もし父親がここで止めなければ僕は一人で生活できないほどの給料で、ずっと親から経済的に自立ができない状態になっていたかもしれません。

ただ、リハビリとして働くには作業所は自信の回復にいいと思います。しかし、一度入ると面倒くさがりな僕は環境に甘んじ、だらだらといつまでも行動せずに過ごしていたでしょう。

粘土を買って、造形の練習をする。フィギュアが特別好きではないが、フィギュアを買い、一時期フィギュア造形師を目指す。

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当時、同じ時期ぐらいに仕事を辞めていた専門学校時代の友人と一緒にワンフェス(フィギュアなどの即売会)に行きました。そこでフィギュアに触れます。

映像系の関連もあるし、なんとなくデジタル造形師を目指してみようと無職一年目は意気込みます。理由は造形師は一人でほぼ仕事が完結すると思っていたから。実際は全く違うと思いますが。

僕はワンフェスで割り引いていたzbrush(デジタル造形のソフト)と画材屋で粘土を買いました。

画像は猪の頭蓋骨を粘土で再現した時のものです。毎日一日中かけたのに一ヶ月ぐらいかかりました。正直時間がかかり過ぎだと思います。こだわりが強く、仕事なら早く制作しないといけないため、納期が守れない僕は仕事にするには難しいかなと内心思っていました。映像系などの仕事もそうですが、納期がシビアだからです。

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そんなこんなで無職一年目は色々と迷走を繰り返して過ごしていきます。メンタルがきつい中、今思うとよく色々やっていたなと思います。

次は無職一年目の後期について。
ただいまちょっと簿記の勉強と仕事も同時進行でやっているので、ブログは毎日更新ができなくなるかもです。マイペースで更新していきます。



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