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児童書「キンギョのてんこうせい」のあらすじの紹介と評価


評価

娘:☆☆☆
ママ:☆☆☆

読んだ目的/きっかけ

この本は、我が家の読み聞かせの定番シリーズ「ドーナツいけシリーズ」から、娘のリクエストにより選ばせていただきました。

ママの感想

ドジョウのドジオは、ドーナツ池に棲む魚たちと「友だちになりたいな」と思っていました。けれども、ドジオを見つけたほかの魚たちはドジオのことを「きったないやつだなあ」、「昨日も先生に叱られていたんだよ」と、「ドジョウ故の仕方のない行為(なのに先生に叱られたこと)」をバカにしながら去っていくだけでした。そんなドジオの前に池に放たれたキンギョが現れました。ドジオはキンギョに声をかけますが、見た目の美しいキンギョはすぐにドーナツ池に棲むほかの魚たちから声をかけられ、ドジオの前から去っていってしまいました…

この本は、「友だちって何だろう?」ということを考えさせられる深いお話だったと思います。娘も興味深くお話を聞いてくれたようでしたが、私自身も「うーん…」と考えながら非常に興味深く読ませていただきました。

大人になると少し状況は変わってきますが…誰かと「友だちになる」きっかけは何なのでしょうか。自分が子どもだったころのことはいまいち思い出せませんが、おそらく、「クラス」という同じコミュニティに属する人のなかから「何となく気が合うかな?」と思う人や、席が近い人と何となく一緒に時間を過ごしていくうちにいつの間にか「友だち」ができていたような気が私はします。

大人になった今は、お仕事をご一緒させていただいたなかで話が合う方とは、仕事を超えて仲良くさせていただいている、というところでしょうか。上記のように、大人になってから、特に仕事上の関係のなかでできた「友だち(知り合い以上?)」は、お互いの「違い」を受け入れたうえで「友だち」になっていると私は思っています。けれども、ある年代…いつからかはわかりませんが、思春期のころが中心でしょうか?「同じであること」が価値を持つ年ごろがあります。みんなと同じ格好をして、同じことをして、同じように反応する。自分が「かわいい」と思っていなくても、誰かがかわいいと言ったら自分も「かわいい」と言わなくてはいけない。

以前、インターネットで、最近の若い子(←この表現を使うと「自分が年を取ったな」と実感します)は「個性的だ」と言われたくないという記事を読みました。私たちが20代のころには「個性的」は少なくとも褒め言葉だったはずでした。「ダイバーシティ」が声高に叫ばれる昨今、一方で、若者の間では「同じであること=非多様性に価値が置かれる関係」が広まっているようで…どうしてこのような状況が生まれているのか…もうオバチャンな私にはよくわかりません。

あるいは、若者のほうが正直で、本当は大人も「多様性」を歓迎していないにもかかわらず、社会的ポーズとして「ダイバーシティ!」と叫んでいるだけなのでしょうか。私としては、責任を果たしていさえすれば、他人からとやかく言われない状況がうれしいのですが…とはいえ、「大人の責任を果たす」とは何なのか…難しいです。。

と、以上、一見すると「これって本の内容と関係のある感想なの?」と突っ込まれそうな内容ばかり記載をしましたが、この本を読むと、上記のようなことを考えさせられます。「友だちって何だろう?」、「みんなと同じじゃないとだめなのかな?」。そのため、この本の最後、ドジオとキンギョには、二人で二人らしく、二人のスピードで「友だち」になっていってもらいたいと願いたくなりました。非常に興味深く、かつ、おもしろいお話でした。

この本は、ドジョウの特性を理解されないがために周囲から見下されているドジョウのドジオとドーナツ池に放たれたキンギョ、そして、ドーナツ池の魚たちとの関係をとおして、「友だちって何だろう?」ということを考えさせられる非常に深みのあるお話でした。


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