失われた言葉

 私は、スーパーの棚の前で立ちつくしていた。
 果実だよな、これ。種類まではわからないけど。
 赤くて丸い果実には、値札しかついていなかった。
 精肉コーナーにいくと、事態はもっとひどかった。
 切り落としたもの、細かく挽いたもの、分厚いもの。ラッピングされた肉には、値札と賞味期限しか書かれていなかった。
 スーパーが発狂したのではないかと思い、向かいの精肉専門店を見てみたが、事情は同じだった。
「おじさん、なんで値段しか書いてないの」
「高いやつほど、柔らかくておいしいよ」
「いや、そういうことじゃなくて、どうして種類を書かないの」
 といって、私は絶句した。たとえば、○○とかと言おうとして、その○○が出てこないのだ。
 自分が作ろうとしていた料理の名前も忘れた。
 長ネギを刻んで挽いた肉といっしょに炒めて、最後に豆腐を入れて味付けするやつだ。
 まあ、手順がわかっているならいいか。
 私は適当な値段の挽肉だけを買って、家に帰った。
「おーい」
 妻の名前を呼ぼうとしたが、出てこなかった。
「なーに」
 妻のほうも同じようだ。絶句している。
 家族、妻、息子、猫、そこまでは思い出せた。
 ごはんを食べて、寝て、働いていれば生きていける。ま、それでしのげるなら、問題というほどの問題でもないと思ったが、実は大問題だった。
 私の職業は文章を書くことだったのだ。
 メーカーはリリース文を出さなくなり、新製品が出なくなり、製品の紹介を主な仕事にしていた私は失業した。
 失業した人がいく場所は、ええと、あれはなんといったかな。
 やっぱり固有名詞のない世界は不便だ。

(了)

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