28. 最果タヒ展に

東京で行けなかったリベンジでというか高野山行きの途中で予定が組めたので最果タヒ展in大阪。これも縁よなと。どうしてもって計画を立てて自ら作り出す縁と、周囲の関係性から与えてもらった縁と、縁には様々な形があるんだろうと思う。どう足掻いたとしても自分ひとりで成り立っているものはないから感謝が生まれる。言葉もそう、先人たちに支えられていまがある。言葉は借り物とはよく聞くこと、そこから新しい何かを生み出すこと、言葉の可能性とかを上から目線で送ってきた人間の言っていることはよくわからないけど、続いていくものの繋がりのパーツであれたらそれはそれでいい気もするよ。

深く何かを語れるほど詳しくもないし深くもない、個人に対してもそうだし、業界としても学としてもそれほど、評論とか評価とかもできないので思ったこと考えたことを綴るだけ、いつもそれだけ、ね。なんせ思ったのは若い人がいっぱい観に来ていて言葉の世界はそんなに絶望的ではないなと思った、動画とか音楽とか何やろな受動的に浴びれるものがいまの人たちの在り方というか、音声っていうのはすごく強いと感じるこの頃ではありますが、まだ何とか踏みとどまれるというか。でも文字が文字そのままではなくてヴィジュアル的な展示ではあるのよね、これが言葉の可能性というか生き残りというか新たな街角であったとして、これはこれで正解なのではないか、確かに本を開く数は減った、意識外から飛び込んでくるのは恐らく有効であるし、古いものに縛られすぎたって仕方ないのかもしれない。時代に即した魅せ方があるのは確か、でもそれをするのは書き手じゃなくてもと思うのは自分が苦手だからの何ものでもないが。なんせそれぞれ満たされますように。

何のために誰のために、そんなことは本当はどうでもいいことで、楽しいとか美しいとか透き通る澄み渡る震えるっていうことがベストというか最高級というか当然であって。核的な部分がずっとそうであるから好ましい、他者を卑下することもないし。人間性が作品の価値や評価に影響があることはよくないけれど、表に出ることが多くなればある程度はどうしたって加味される、残念なことに外見も然り。善良だから凶悪だから、それがどの方向に加味されるかわからないし、作品外であまり多く語ることは何ともいえんとこかもしれんなとは昔から思う。でもそれだってどういう立ち位置や目標で何をしているかにもよるわけだし、正解なんか誰にもわからないから我が道を行こう、どうあれ自己評価が最良だ。それ以上はない。承認欲求はとても手強くて、苦しみ続けてきたけどやっとあと少しでそこまで行けそうな気がするんだ。あと少しで。そこはきっとうつくしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?