24. 多くの縁に生かされて

やさしい目をしている、テキヤのおばちゃんに駅でおばあさんによくわからんけどアンパンもらった等々、久しぶりにその言葉をかけられ何だかあたたかい気持ちになったわけです。生まれて男は例外なく最強を目指すそうで、例外なくはないであろうけども、ある程度はそうであるかなとか、けど本能的なもの理性的なものそこらへん色々。わりと早い段階でわかっちゃいた、最強なんて向いてない、弱いし。刷り込まれたように目指すふりをして、実際はそこまでのものでもなかった恐らく、だからこそ大した努力も生まれなかったような、努力するものでもないが諦めの理由ではあるけれど。そこを中心点としてどこか無意識に別方向への研鑽いまも残るもの、たぶんその方向を目指すべきなんだろう、そこに縁がいくつも現れ導かれていると感じるいま。言葉に対するものとの判別は正直つかない、自分の中で同じベクトル同じところに存在しているもの、ただ「ここにいろ」と言われている、あの日と同じようにきっと。強いよりもやさしいと言われたほうが断然うれしい、あの頃からそうだったな本当は、うれしいものは自分の願望に他ならない、そうだ、それは望んだもの望んだ世界だ。

たくさんの縁でここにいるなと高野山金剛峰寺で手を合わせながら思った。義理の祖母はお坊さんはお坊さんになる因を持って生まれてこないとなれないと言う、それがどうなのか確証も証明もないが、子どもの頃から神仏が好きだったことは確かなことで、やっぱり因は生まれに在るのか、あの幼子の開いた本は因より縁なのかもしれない。その義理の祖母・母・娘の仏教的な流れがあって、それもまた縁になって、最終的な後押しというかいまに至る要になったことは疑いのないこと。おかげでいまの自分がある、そこがなければ恐らく高野山での合掌はなかった、来たいと思うこともなかったかもしれないし、あったとしても機会をつくることはなかったかもしれない。とても尊く静かで清潔な気持ちになったよ、有難さしかない。多くの縁の導きは生きろということだ、そう生きるべきだということか、ひとつひとつに感謝している、少しずつどこかに還元しなきゃいけないよな。何もできなかったとしても。

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