ヨルシカ『幻燈』に対する個人的な批判と感想

2023年4月5日にヨルシカの新作アルバム(公式には「画集」)である『幻燈』が発売された。n-bunaファン、あるいはヨルシカファンの一人として私も本作を事前予約して楽しみに待っていたのだが、実際に鑑賞して色々と思うところがあったので雑に述べたいと思う。

(ヨルシカ『幻燈』はこちら


本作の肝は「画集の絵をスマホ等で読みこむことでのみ曲を再生できる」という音楽再生の形態であり、これを実現するためにCDやダウンロードでの販売はなく、またサブスクでの配信も一部楽曲に限定されている。当然聞き手からすれば不便極まりない仕様なわけであるが、このことについて作者のn-bunaは画集の序文やインタビュー等で以下のように説明している。

  • 現代の「指一本でデータを再生する」行為を旧時代のレコードやカセット、CDによる音楽体験と比較して考えると、データには「『一つのものとして存在する』という唯一性」が欠けている。

  • NFTやブロックチェーンがデータに唯一性を与える技術として誕生したように、音楽コンテンツもいつかオリジナルの証明がデータに組み込まれ、「実物のメディアを経由してきた音楽の唯一性」はこれからも担保されるに違いない。

  • 本作における「画集をスマホで読み込んで曲を聴く」という行為はレコードに針を落とす行為やカセットテープを回す行為の比喩であり、画集の絵は音楽アプリの再生ボタンを押す我々の指と同値である。

氏は学者でも評論家でもないので作品のアイデアが論理的に妥当か否かはさして問題ではないのだが、それでもコンセプトアルバムの制作を主とする音楽ユニットにおいて、本作のアイデアはその根底から破綻しているのではないか。

「実物のメディアを経由してきた音楽の唯一性」というが、複製可能なメディアである点はカセットやCDも同じであり、それらもまた唯一性を持たないデータにすぎない。現代のサブスクサービスがカセットやCDと明確に区別されるのは「曲と一対一に結び付いた物質的な媒体が存在するか」という点であり、これはメディアの物質性の問題である。
したがって、本作は単に画集という新たなメディアを足すことで「実物のメディアを経由した」音楽体験をバーチャルに実現したに過ぎず、データの唯一性の話と画集の要素はまるで関係がない

データに唯一性を与える要素として挙げるなら、むしろシリアルナンバーのシステムの方が近いだろう。本作は画集の絵を読み込んだ際に付属するシリアルナンバーを入力しないと音楽が聴けない作りになっているのだが、発売当初はこのシリアルナンバーが1つにつき1回限り使用可能で、2端末以上の登録ができないどころか、履歴削除や端末変更によってCookieが消えるとそれだけで二度と聞くことができないという仕様であった。
なるほど、一つのシリアルナンバーが一台のスマホと独立して結びつけば、手元の音楽データはあたかも「ある特定のスマホに登録された唯一無二のデータ」として存在するように見える。だが本作がレコードやCDのメタファーとして位置づけているのなら、プレーヤーが変わろうとも同じレコード盤やCDの音楽は等しく再生できるように、一つの画集が一つの携帯端末に縛られることなく自由に使いまわせるべきではないのか。今のままでは画集による比喩は不十分ではないだろうか。

そんなことを考えていたら、発売から数日後に「同一のシリアルナンバーでも繰り返し使用可能になる」という仕様変更が公式から発表された。シリアルナンバー登録後に誤って履歴を消した人やプライベートウィンドウで登録したためにCookieが残らなくなってしまった人が続出したことを受けての措置だったようだ。
だが、発売直後に仕様を変えたということは作り手にとってこの要素は(作品のコンセプト上)意図的に設けたものではない、少なくとも重要なものではないということを意味する。実際、「後書き」におけるn-bunaのコラムでも上述の仕様変更が「リスナーが不便なので修正するよう依頼した」というような口ぶりで書かれており、彼にとってシリアルナンバーのシステムは本質でなかったようだ。そもそも彼が意図したシステムですらない可能性が高いだろう。

こうして、私が本作でかろうじて感じられた音楽データの唯一性の成分は公に否定されてしまい、私の中で『幻燈』は作者の主張と実際に完成したものが乖離している作品に成り下がってしまった。先にあげた「後書き」のコラムを読むに、彼は最初に述べた持論を踏まえた上で「絵をカメラで読み取って音楽を再生する」という機構を面白いと思い、その形式さえ見かけに実現すれば他はどうでもよかったのだろう。非常に嫌な言い方をすれば、我々は『創作』からの2年2ヵ月の期待の末、8000円を払って氏の自己満足に付き合わされただけである。

ちなみに不満点は他にもあり、

  • QRコード読み取りのバーコード部分を画集に変えただけのシステムを「AR(拡張現実)」と宣伝している
    (カメラで読み取ってもただ絵のデジタルデータが浮かび上がるだけである。ARを名乗るならせめて空間上にMVが再生されるくらいのことはしてほしい)

  • 画集から曲を聞ける期間が3年間に限定されている
    (CDやカセットを模すなら素直に「画集が壊れたら聞けなくなる」とするべきだろう。コンセプトに対し何が整合しているのか不明)

  • その3年のストリーミング期間を過ぎると3か月だけダウンロード可能になる
    (結局複製可能なデータに戻してしまうのかよ、という落胆。「3か月のみ」という部分が販促との折衷案として盛り込まれた感を滲ませていて中途半端な印象をより一層与える。不満に思うファンが多いのもわかるが、それでも個人的には作品全体で一貫した芯を持ってほしかった。)

などがある。もっとも、ARに関してはこの手の商品でまともなARコンテンツが実装された例を見た試しがないので、端から大して期待はしていなかったのだが。

ボカロ時代からn-bunaの音楽を聞き続けている身として、ヨルシカをデビュー当初から聞き続けている身として、彼らを強く非難するつもりはないししたくはない。ないのだが、それでも過去の洗練されたコンセプトアルバムと比べた時に本作の詰めの甘さは残念である。まあ氏が商品化という手段を自分の理想とする芸術の実現の道具にしか見ていないことも、その芸術が往々にして世間の感性からずれた自己満足であることもとうに承知の上で追いかけているのだが、とはいえ8000円は決して安くない金額であり、金をとるならもう少しこだわってくれと思ってしまう。

収録されている音楽はいずれも非常に出来が良く、画集も曲の世界観を広げる役割を十二分に果たしている。だがコンセプトアルバムとしては失敗していると言わざるを得ず、8000円の価値を見出すこともできない。本作はあくまでヨルシカやn-bunaのコアなファン向けの作品であり、初めてヨルシカを聞く人にはおすすめできない。

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