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愛はいつでも偏る。全方位の好意を愛とは呼ばない

非合理性のきわみ

何かを推す行為そのものが贅沢で、ヒマを持て余した神々の遊びに近い。
お金と時間を使う。使うというよりは、溶かすに近い・

僕はフリーランスで記事を書く仕事をしている。
記事をたくさん書けば稼ぎが増える。
だから時間を溶かせば、そのぶん稼げるお金は減る

使えるお金は限られるのに、それでも推すから溶けていく。

なんと経済的合理性を欠いた行為なのだろうか。でも自らのモチベーションのためと、言い聞かせて消費する。

愛が盲目なら、偏愛はよほど盲目だ。
そもそも偏愛は、重言ではないか。偏った愛などというが、古今東西、偏らなかった愛などあるだろうか。いや、ない。愛はすべからく偏る。

サッカー観戦で旗が視界を遮る

生まれ故郷か、現在の住まいか。
たまたま誘われて魅せられたか。
熱気とプロの技か、ゴールの熱狂か。
そんなことが原因でサッカー観戦に取りつかれる人は多い。

世界でも類を見ないほどシンプルなルールで多くの人に愛されるスポーツ、サッカー。運動オンチの私は、試合に出た経験さえ、ほぼない。

それでもサッカー観戦が好きだ。厳密に言うと、推しのチームの試合が好きだ。

冒頭のサムネイルを見てほしい。試合開始前、選手がピッチへ入場するシーンだ。「アジアを勝ち獲ろう」という選手を後押しする激励の幕を掲示するために、観客席からの視界はほぼ塞がれた。

賢明な読者はお気づきのように、テレビで見たほうがよほどよく見える。お金を払ってチケットを買い、混雑をかきわけて足を運んで先には白布。いや、なんでやねんだと思う。


写真の8割を覆う白布には激励のメッセージが書かれている。試合開始前とはいえ、この景色はまあまあ笑える

でも、この障害物さえも、愛おしい。愛すべきチームを後押しするメッセージが伝わるなら、たかが僕の視界なんてクソくらえなのだ。

そういう思想で生きている。

勝敗だけじゃないのだけれども

ただし過剰な愛は時として、迷惑にもなる。

1997年、日本が初めてワールドカップの出場権をつかんだ試合で、スポーツ実況の神様とも称されるNHKの山本アナウンサーはこう伝えた。「今ピッチに散った日本代表は“彼ら”ではありません。私たちそのものです」

https://number.bunshun.jp/articles/-/431730?page=4

このフレーズは、サッカー好きの心情を表した名文句として知られている。このように同一化、家族化して感情移入できるのはスポーツ観戦の魅力だ。
だが冷静に考えると、厄介な一面だとも思う。その結果として、試合の勝ち負けで憎悪や偏見や差別が生まれたりもする。

サッカーが好きでなければ、スタジアムは怖いところ、不良やゴロツキの集まるところみたいなイメージを持ってしまっている人もいると思う。これがデメリット面。

スポーツたるもの、勝敗は大事だ。推しが試合をするのは基本的に週末。週中の水曜日も合わせて週2試合が組まれることもある。

勝てば幸せが一週間つづく。試合映像は酒の肴になって繰り返し再生され、よく眠れる。負ければ逆である。

とはいえ、勝敗よりも応援・観戦というプロセスが、人生と一体化する境目みたいなのを越える人が出てくる。

沼にハマるとはどういうことか

ハマるとき、だいたい次のようなステップを踏む。下に行くほど、周りからは理解されづらくなり、変な人の扱いを受ける。

  1. 試合結果は欠かさずに速報サイトでチェックする

  2. 基本はリアルタイムで見たい。テレビでもいい。

  3. 現地観戦って楽しい、年に何度かは行きたい

  4. グッズ購入が急に増える

  5. 年間チケットを購入し、現地観戦が基本

  6. アウェイの試合にも遠征し始める

  7. 平日に練習を観に行く

  8. 北海道から九州、そして国外まで全試合参戦。

わたしは6と7のあいだを行ったり来たりしてきた。単身者、家族がいても単身で凸する人もいるし、我が家のように家族ぐるみというケースも少なくない。

ちなみに会社を辞めてスーツ類を買わなくなったので、私が持っている衣類の中でぶっちぎりに高額なのは、推しのユニフォームである。

アディダスやナイキが出している3千円程度のTシャツと中身は変わらない。でもユニフォームになると、それが2万円になる。

好きなんだから仕方がない。ただ問題は、お金と時間、そして人としてのバランスの問題である。このために、働くという考え方だって、ある。

あと、好きなサッカー選手の名前を息子に名付けた。まあメッシとかロナウドみたいな名前じゃなくて日本人だからいいだろ。本人もサッカー少年になったし。

人生には推しさえ封印しなければならないときがある

やがてブログを始めた。いつか書く仕事がしたいとどこかで思っていたけれど、個人の試合観戦感想記である。金になどならない。原稿を書いてくれませんかという依頼はついぞ来なかった。ライターとして今独立してみると不思議だ。よほど、愛情にまみれた私にしか書けない文章だったというのに。

ただ愛を語ると、同じ愛情を持つ人、ようするにサポーター仲間の間では評判になった。

ブログがきっかけで友達もできた。年間で3万円くらいのアドセンス収入をもらった時期もある。年間チケット1枚分くらいは稼ぎだしたことになる。永久機関の完成だ。

だが42歳で、会社を辞めた。だから、もう推せないと思った。遠征にかかる費用もさることながら、推しには時間がかかる。近場で行われる試合でさえ、移動時間と試合観戦だけで4~5時間はつぶれる。半日仕事だ。アウェイ遠征なんてもってのほかである。

時間は惜しい。思えば会社員なんて本当にヒマだった。いくら遊んでも給料は減らない。かといって増えない。わたしは書く。いつか再び推すために。

2021年から、推しへの投資を大幅におさえた。上述の沼レベルでいうと「2」つまり、試合が行われる2時間だけはテレビの前に行く程度。その間、仕事をしたってどうせ1文字も進まないから、その時間は痛くなかった。

不思議な経験だった。推しと距離ができると、慣れる。ごはんと違って、失っても生命の危機に陥ることはない。いや、たぶん仕事をしないで稼ぎが伸びないことの危機感のほうが大きかっただけかもしれない。

このように、推すとは多大なる時間とお金を投じることで成立する贅沢なのだと心から実感した。でも不安のほうが大きかったので、推さなきゃ!推したい!とは、さほど思わなかった。

ただひとつ、推しがリーグ優勝という大きな栄冠をつかんだとき、本当なら関西へチームと一緒に遠征しているはずが、わたしがそこにいなかったときだけ、複雑だった。

どこにいたかって? Webライターラボのオフ会の会場。運営側にいたからね。それはそれで、交流を楽しんだので全然いい。これもわたしの歴史の一部だ。

新たな野望をちょろっと

そして、がむしゃらに働き、時間とお金にほんの少しの余裕ができたことで、2023年の後半から再び沼レベルは、5と6に戻っている。

申し訳ないけれど、あらゆる予定よりも試合が優先される生活に戻りつつある。仕事なんかしてるヒマはない。

来週、実は推しがアジアの頂点を決める大会の決勝戦をドバイで戦う。一生に一度かもしれない機会で当然、行き…たいんだけど、妻に全力で止められた。1人だけで行くのはずるいからだという。妻も、たいがい沼の住人だ。

このドバイでの決戦に勝つと、来年アメリカで行われる世界大会に進む。ここに照準を合わせて、わたしは働く。

で、もっと稼いだら、推しのスポンサーになりたい。たぶんビジネス上のメリットは薄い。でもなりたいんだ。脱サラしてガマンにガマンを重ねて、スポンサーとして舞い戻ったらかっこいいじゃないか。沼レベルとしてはもう振り切れていると思うけど。

かなり愛情の形が偏っている自覚はある。でも、これこそが愛だと思っている。サッカーが全方位的に好きなんじゃない。推しが好きなんだ。

月並みだけれど、生きる糧になっている。ライター仲間にはほぼ明かしたことのない素顔だ。そう、ずっとわたしは仕事熱心なライターのふりをしていたのだから。

ライターという合理的な仕事を続けるほどに、自分の非合理な偏愛が自然に思えてくる。この仕事と、この推しを選んでよかった。

※なお本記事は、以下の募集に基づいて書きました。

Discord名:藤原友亮

#Webライターラボ2405コラム企画


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