講義型授業から脱却できない方へ プチアクティブラーニングのすすめ

授業改善が盛んに言われる中で、いったい何をしたらいいのか分からずに困っている人が多いと思います。私自身日々の教育活動をする中で、「これでいいのだろうか」と日々悶々としています。現在も悩みながら日々の授業を続けています。全く悩みなく教育活動をしている人はある意味すごいです。それは自分の中に「絶対的自身」や「信念」があり、それに基づいて教育活動を行っている。あるいは思考停止のルーティーン、惰性で教育活動を行う。そのどちらか、あるいは両者混合型であるかだと考えられます。講義型授業の良さは「正しい知識」を効率よくより多くの人に「伝達」できる事が最大の強みです。全員一律に行うことができることも利点として挙げることができます。情報が民主化していない時代なら、それにも価値がありました。現在はどうでしょうか。情報や知識は誰でも入手でき、効率的に摂取できる動画教材も世の中に溢れています。それでも尚、講義を行う価値はどこにあるか。私自身の考えでは、知が民主化しても尚講義を行う価値は以下の二点に凝縮されるのではないかと思います。一点目はインターネットの動画教材以上のコンテンツで勝負する。これはかなりレベルが高いです。ネットで入手できない情報を先生の固有の文脈の中で語る。こういったコンテンツに価値を置ける場合、講義をやるのも手だと思います。1年間分の授業全ての単元でネットを超えるコンテンツで勝負するのはかなり大変です。自分の最も得意とする単元に限定して講義を実施し、他の場面は動画教材に委ねるのも手ではないかと思います。二点目は教室空間でしかできない「経験」価値を提供すること。このライブ空間での価値とは何かを考えると大きく分けて3つの要素があります。一つが身体性。体を動かしたり、人と身体的に接触する機会はライブ空間でないと得られません。二つ目が偶然性。動画教材は全てが予定調和で進んでいきます。ライブ空間では何が起こるか分かりません。途中、教室内にはちが入って「パニック」になる可能性だってあるわけです。これがライブの強みなのです。三つ目が緊張感。これは学校の先生の得意分野でしょう。空気を作る。これはオンラインでは難しいです。この三点がライブの強みだと仮定するなら、教室空間でしかできない「経験」価値も明らかになってくるわけです。

私は授業で講義を行う際、全ての時間、話しをすることは絶対にしない。10分以内に話を終えるようにしている。話し終えたら、必ず生徒をペアにして「アウトプット」の場を提供する。これが教室でしかできない価値だからである。

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上記の図は「典型的」な日本の学校の教室である。隣同士でペアを組み、10分の話を内容に即した問題を作り、片方が答えるなどを場を設定している。それだけでも単調な講義がかなり「活性化」する。聴く側も「問題を作らねば」という責任感と答える側も「解答をしなければ」という緊張感が生まれ、寝る人は皆無になる。さらに、10分の講義が終わったら、全員席をズラしてペアを交代する。こうすると、常に組む相手が変わり、新鮮さが生じる。私はこれを1回の授業で4回から5回実施している。短い時間でアウトプットをする機会を出すことで理解の定着を図ることが狙いである。知識を確実に皆に定着させたい場合、この方法はそれなりに有効である。55分の授業の中で5分間以上の「対話」の場面が生まれる。もちろんそれは知的な文脈を捉えたものではない。用語の単なる一問一答のような些細なものかもしれない。だが、基礎的な知識を他者との偶然性や身体性を織り交ぜ、さらに緊張感を作りながらこういった場を設定することはオンライン授業では経験できない価値を提供していることにつながらないだろうか。学校の教室でしかできない体験価値は何かを模索して、今後も様々な取り組みに挑戦してみたい。

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